NHK俳句「遺(のこ)る虹」
今日は日曜日。早朝のNHK俳句は昨年七月の再放送だった。当時は夏の暑さに負けて体調が芳しくなく、見ていなかったので、今回は初めての視聴になる。
選者は高野ムツオさん。現代俳句協会会長で、句界の大御所である。ほかに俳人がお二人(三村凌霄氏、月野ぽぽなさん)、ゲストがお二人(能町みね子さん、乃木坂46の中西アルノさん)。五人で句会を開き、互いの句を読み解き合う趣向である。
読み手によって解釈は異なり、さらに作者が思いを述べる。そのやり取りのなかで、自分には思いもよらなかった景色が立ち上がる。俳句の幅広さと深さに、あらためて驚かされる。
今回の兼題は「虹」。梅雨どきの沈みがちな空にふと現れる虹は、人の気持ちを軽くし、どこかへ連れて行ってくれるような気配を帯びている。
とりわけ心に残った三句を挙げたい。
逢いにゆく故郷の虹に濡れながら (月野ぽぽな)
「虹に濡れる」という発想が印象的である。本来、虹は濡れるものではない。しかしその不可能が、この句では自然に受け入れられる。故郷に向かう途中、虹の光に包まれながら進む姿は、どこか迎え入れられているようでもある。
さらに、もし虹に濡れることがあるとすれば、それは今の自分がどこか別のものへと変わるときかもしれない――そんな解釈も示されていた。亡き人に逢いにゆく途上として読むと、句の奥行きはいっそう深まる。
この句に触れて、私はふと父の最期を思い出した。新潟にいた六十一歳のころ、横浜に住む両親が相次いで亡くなった。父のときは危篤の報を受けて新幹線で駆けつけたが、数時間差で間に合わなかった。あのとき、私は虹に濡れることはなかったが、ただ車窓の時間に揺られていた。
虹かかる終着駅のある山に (三村凌霄)
「終着駅」という言葉に、人生の行き着く場所が重ねられる。虹のかかる山、そのどこかに最期に辿り着く駅があるという構図は、一枚の絵のように整っている。
作者自身は、虹に付きまとう既成のイメージを離れ、ただ風景として捉えたかったという。箱根の旅の記憶がもとになっているとのことだが、その軽やかさとは裏腹に、読む側には深い人生観がにじむ。
私の住まいは日本橋人形町。山はないが、高層の建物が並び、隅田川に空が映る。ここを終の棲家と決めて久しい。誰にも、それぞれの終着駅があるのだと思う。
放水にデモ隊が散る虹遺る (能町みね子)
激しい情景のあとに「虹遺る」と置かれることで、不思議な余韻が生まれる。虹は単に残っているのではなく、「遺る」と言い換えられることで、そこに何かが託されているように感じられる。
作者によれば、デモの人々は去っても、その主張は概念として残る。その残り方を「虹」に重ねたという。
この句を読み、私は中学生のころを思い出した。日米安保反対運動の激しいデモがあり、警察との衝突で若い女性が命を落とした。当時の私は、子供心にデモの側を正しいと信じていた。いまでは日米安保は当たり前の前提として受け止められている。不思議な気もするが、時代とはそういうものなのだろう。
虹は美しい。しかし、やがて消える。逢いにゆく虹も、終着駅の虹も、そして遺された虹も、いずれは空から消えていく。それでもなお、人の記憶や思いのなかには、かすかな光として残り続けるのだと思う。
