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後期高齢者、ただいま人生ゲーム続行中

──東京・人形町に暮らす、ある元技術者の回想録──


人形町にて、老境の入り口から
三年前の冬、気がつけば「後期高齢者」の仲間入りを果たしていました。現在78歳。妻も同い年。東京・日本橋人形町の下町の空気を吸いながら、二人で静かに暮らしています。
四年前まで現役で働いていました。ありがたいことに(おそらく)惜しまれつつ引退。「終わった人」となった今は、日々の些細な楽しみに目を向けながら、なるべく穏やかに過ごしています。


原爆後の広島から、東京へ
私が生まれたのは1947年1月、まだ原爆の爪痕が生々しく残る広島市内でした。いわゆる「被爆二世」ですが、体調面での影響はとくに感じたことはありません。
4歳で父の転勤により上京。22歳で大学の工学部を卒業し、某鉄鋼会社に就職しました。当時は、給料の高さが何よりも魅力的でした。以降、特に大きく道を外すこともなく、地道に、真面目に働き続けました。


結婚と、息子たちの成長
妻と出会ったのは学生時代、20歳のときでした。まあ、美人だったと思います(たぶん)。それなりに紆余曲折もありましたが、25歳で結婚し、息子が二人授かりました。
結婚生活は、波もあれば凪もありましたが、大きなトラブルもなく、静かに歳月を重ねてきました。気がつけば「ともに生きる」ことが、すっかり日常になっています。


技術者として、経営者として
30代までは技術者として働き、世界で取得した特許は150件ほどになります。自分では「なかなかやった」と思っていますが、他人の評価までは確認しないことにしています。
53歳のとき、新潟の子会社のトップとして赴任しました。妻も同行し、海辺の町で8年間を過ごしました。仕事の合間を縫って、北海道、京都、沖縄などへ旅行に出かけることもしばしば。仕事と遊びのバランスが取れた、充実した時期でした。
その後、61歳で東京に戻り、上場企業の社長に就任。人前に立つのが得意なタイプではありませんでしたが、優秀な社員に恵まれ、時の運も味方して、業績は好調。67歳で任期を終えました。


サラリーマン延長戦、姫路編
「これでリタイア」と思ったのも束の間、今度は姫路の会社から経営者としてスカウトされました。再び現場に戻り、74歳までの7年間、いわばサラリーマン人生の延長戦。
週末は妻とともに京都の宿に泊まり、神戸のジャズライブに通う日々。初めての関西暮らしは、新しい楽しみに満ちていました。


病とともに、生きる覚悟
4年前、姫路から東京に戻った直後に、食道がんが発覚。ステージⅢと聞いて、「いよいよかな」と思いました。それでも諦めきれず、陽子線治療という先進医療に望みを託し、千葉の病院で1ヶ月半の治療を受けました。幸い、一旦は落ち着きました。
しかし1年後に再発。内視鏡を使ったPDT治療を受けたものの、さらに1ヶ月後には再々発。またしてもPDTで対処しましたが、次の一手がないことも知っています。昨年1年間は幸い再発なし。小康状態の今、油断せず、定期検査を続けているところです。


監視人殿と、静かな暮らし
現在、私は妻──いや「監視人殿」の24時間体制の監視下にあります。酒は厳禁。好きなことも少しずつ控えています。何のために生きているのか……正直、時々わからなくなりますが、まあ、生きているからには、それなりに。


親を見送り、世代を渡し、いま
両親は15年前に他界しました。2人の息子は52歳と48歳、それぞれに家庭を持ち、仕事に励んでいます。世代交代は無事に完了。もう、次のバトンを渡す役割も終わりました。
今は読書三昧、パソコンで駄文を書き、人形町を歩いてランチの店を開拓する毎日です。時間だけはたっぷりある。だからこそ、ゆっくり味わうように日々を過ごしています。


エンディングの支度と、希望
最近、監視人殿の指示で公正証書による遺言も作成し、自作の戒名も準備済み。遺影もすでに選び、「これでいいじゃない」と妻と笑い合いました。いつ逝っても、あとはよろしく――という心境です。


人生ゲームは、まだ終わらない
残された時間は、そう長くはないかもしれません。でも、まだ終わりにはしません。もう少しだけ変化を楽しみながら、人生ゲームの続きを遊びたいと思っています。
延命措置はお断り。その時が来たら、静かに、すぱっと立ち去りたい。そんな風に思いながら、今日も人形町の裏通りを歩いています。


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