【歴史学の歴史8】普遍史の危機
こんにちは、ニコライです。今回は【歴史学の歴史】第8回目です。
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今回の舞台は再びヨーロッパへと移ります。連載第4回では、聖書の記述に基づく歴史観=普遍史について紹介しました。普遍史は、中世を通してヨーロッパにおいて支配的な歴史観でしたが、近世に入ると、新しい思想や知識、発見がヨーロッパへともたらされたことで、様々な方向から挑戦を受けることになります。今回は、ルネサンス、大航海時代、そして宗教改革という3つ出来事がもたらした普遍史の危機を見ていきたいと思います。
1.ルネサンスと人間中心史観
15世紀~16世紀のイタリアを中心に、古代ギリシャ・ローマの文化を復興する文化運動が起こります。これらの運動は、フランス語で「再生」を意味する「ルネサンス」と称され、それまで神や教会が中心だった中世的な考え方から脱し、ギリシャ・ローマ時代の人間を中心とした文化を甦らせようとするものでした。この時代に、多数の芸術家が優れた作品を残したことは皆さんもご存じだと思いますが、ルネサンスの精神は芸術分野だけでなく、歴史学にも大きな影響を与えます。

ルネサンス美術の特徴は3つ。第1に遠近法に基づく空間性、第2に人体構造の正確さ、第3に豊かな感情表現。
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ルネサンス期を代表する歴史家としてあげられるのが、ニッコロ・マキャベリです。マキャベリといえば、政治的目標のためには反道徳的な権謀術数も厭わないと主張する『君主論』を著したことで有名ですが、彼の政治的主張は、自身の歴史的知識に裏付けされたものでした。マキャベリは、歴史は「教訓の宝庫」であると考え、現代の問題に対処するために歴史から教訓を引き出そうとしていたのです。こうした姿勢は『君主論』だけでなく、教皇クレメンス7世に献呈された『フィレンツェ史』でも強く示されています。

フィレンツェの政治家。29歳にしてフィレンツェ政庁の書記官となり、内政と軍事問題に携わり、外交使節をも務める。しかし、1511年にフィレンツェの共和政が崩壊すると失脚し、以降叙述活動に専念し、『君主論』をはじめとする多数の著作を著す。
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さらに、マキャベリの歴史叙述の特徴は、それが徹頭徹尾「政治史」であるという点です。中世の歴史家たちは、歴史を神による人類救済の過程であるとする救済史観に基づく歴史を叙述してきました。一方、マキャベリは、神という超越的存在は一切登場せず、ひたすら人間同士の対立と抗争が繰り広げられる政治的世界を描いています。マキャベリはルネサンス人らしく、宗教的世界観から離れた人間中心の歴史を提示したのです。
このように、ルネサンス期には普遍史から離れた歴史観が提示されるようになり、やがてヨーロッパ中に広がっていくことになります。
2.新大陸とインディアンの「発見」
1492年、大西洋を渡ったクリストファー・コロンブスのアメリカ大陸「発見」を皮切りに、大規模航海によって世界中にヨーロッパ人が進出する大航海時代か始まります。コロンブスは自身が「発見」した土地を生涯インドだと信じていましたが、その後、アメリゴ・ヴェスプッチによって、そこがヨーロッパ、アジア、アフリカにも属さない「新世界」であることが確認されました。

ジェノヴァ出身の商人。スペイン女王イザベルの支援を受け、インドへの西廻り航路を開拓するために大西洋を横断し、アメリカ大陸を「発見」する。以後、3度も大西洋横断を成功させ、中南米の植民地化に着手するが、最後までそこをインドと信じて疑わなかった。
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聖書に登場しない新大陸の「発見」、さらに、そこに住む先住民「インディアン」の存在は、普遍史にとって大きな問題となりました。聖書によれば、ノアの三人の子供であるセム、ハム、ヤペテが、それぞれアジア人、アフリカ人、ヨーロッパ人の始祖となったとされています。では、聖書に登場しないアメリカ大陸に住む「インディアン」とは、どこの誰なのか、彼らは自分たちと同じくアダムの子孫なのか、という論争が起きたのです。

「インディアン」という呼称は、コロンブスが到達した土地をインドだと信じたためにつけられたもの。近年は「ネイティブ・アメリカン」と呼ばれることが多い。
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この論争の一つの頂点と言えるのが、1550年にスペインのバリャドリードで行われた公開討論です。この公開討論では、カトリック司祭のラス・カサスが「インディアン」はヨーロッパ人と同じ人間であると擁護したのに対し、アリストテレス学の権威であったセプルベダが、「インディアン」は理性を欠いた野蛮人あるいは先天的に劣った人間であり、人間的諸権利を持たないと反駁しました。

スペイン出身のドミニコ会修道士。新大陸で「インディアン」に対する残虐行為を目の当たりにし、これを止めるために生涯闘った。バリャドリード論争は単なる学術的論争ではなく、「インディアン」保護をめぐる政治的戦いでもあった。
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この論争は、最終的にラス・カサスの主張が採用される形で解決され、さらに後の時代には、「インディアン」はアジアから渡ってきたアジア人であるという見解が出され、定説化していきます。「新大陸発見」の衝撃は、こうしていったん回避されることとなりました。
3.エジプト史・中国史問題
ルネサンスと大航海時代は、普遍史に対してさらに別の問題を提起することになります。それは聖書の記述よりも古い文明の存在です。聖書の記述をもとにすると、世界の始まりである天地創造は紀元前5201年、人類文明が再出発したノアの大洪水は前2959年の出来事とされます。当時の人々は、現代の科学的自然史よりもはるかに短い地球史・人類史を信じており、それより古い文明の存在は、当然普遍史にとって脅威となったわけです。

「教会史の父」として知られるエウセビオスは、聖書に書かれている年代・年数を計算し、天地創造から彼が生きた時代までの年表を作成しており、中世を通してヨーロッパ人の年代認識の基礎となった。
ひとつは、エジプト史です。ルネサンス期にはギリシャ・ローマ時代の古典の復興が盛んに行われますが、こうした書物の中には、ヘロドトスの『歴史』やディオドロスの『歴史文庫』など、古代エジプトの歴史を紹介しているものがありました。ヘロドトスによれば、最初のエジプト王メネスからセトス王までは341世代、合計1万1340年であるとされ、ディオドロスはそれより大幅に短縮するものの、メネス以降5000年としています。いずれも普遍史が示す年代よりもはるかに長い歴史となっています。

現代のエジプト史研究では、エジプト最古の王はネメスではなく、前3000年頃のナルメル王とされている。画像はナルメル王の化粧板と呼ばれ、上エジプトのナルメルが、下エジプトに勝利し、上下エジプトを統一したことが表現されている。
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もうひとつは、中国史です。大航海時代、スペインが新大陸を目指したのに対し、ポルトガルはインド洋航路を開拓してインド、東南アジア、さらには中国へと到達します。司馬遷以来、中国では膨大な歴史書が編纂されており、中国の歴史は、アウグスティノ会修道士メンドーサの『シナ大王国誌』、イエズス会士マルティノ・マルティニの『中国古代史』によってヨーロッパへと伝えられます。しかし、その内容は、年代の違いはあれど、両者ともにノアの大洪水よりも古い時代から、中国では高度な文明が続いていたと結論づけられています。

中国の神話に登場する伝説上の帝王。伏羲を含む「三皇五帝」はもとより、夏王朝までは実在が確認されておらず、伝説の域を出ないが、マルティニら当時のヨーロッパ人は、これらを全て疑いない歴史的事実であると信じた。
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ヨーロッパ人たちは、エジプト史と中国史の古さの問題に対し、明確な回答を持ちえませんでした。そして、この難問は18世紀に入ってもなお、普遍史を苦しめ続けることになります。
4.プロテスタント的普遍史の登場
1517年、アウグスティヌス修道会士だったマルティン・ルターは「九十五カ条の提題」を提示します。ルターの意図は、当時教会が売り出していた「贖宥状」の効力に関する神学論争にありましたが、やがて論争はローマ教皇の権威の是非にまで及び、後に「宗教改革」と呼ばれるキリスト教の改革運動にまで発展、ヨーロッパはカトリックVSプロテスタントという宗派対立の時代を迎えます。

急な落雷で生命の危機を感じ、聖アンナに命乞いをして修道士になる道を選び、アウグスティヌス会に入った後はヴィッテンベルグ大学の神学教授となる。ルターが討論提題を示したのは、この教授職にあるときであった。
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プロテスタントたちは カトリック教会に対抗し、自らの立場に立った歴史を記述するようになります。その代表的著作が、ルターの盟友であるメランヒトンによる『カリオン年代記』です。『カリオン年代記』の第1の特徴は、天地創造をイエス誕生から3963年前、ノアの大洪水を1656年前とするなど、従来よりも1200年ほど年数を短縮していることです。これは、従来の年代学がギリシャ語訳聖書をもとにしていたのに対し、プロテスタントはヘブライ語聖書を採用していたため、記述されている年数の違いから生じたものでした。

ルターの同僚で、わずか21歳で教授職を得た俊才。ルターの思想に共鳴し、初期のころから彼の運動に参加する。1530年の「アウクスブルク信仰告白」などを執筆した。
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第2の特徴は、より厳格に聖書の記述に従っている点です。これは「聖書のみ」というプロテスタントの聖書中心主義の原理に基づいています。そして、第3の特徴が、ローマ教皇を「反キリスト」としている点です。これは第1の特徴とも関連してくるのですが、天地創造をキリスト以前3963年とすると、メランヒトンたちが生きていた時代は天地創造から約5500年後、世界の終末が訪れるとされる天地創造後6000年が目前に迫っていることになります。そして、反キリストの登場もまた、終末に起きる出来事であり、本書の記述には、プロテスタントたちの終末思想が反映されているのです。
こうしてカトリック的普遍史一色だったヨーロッパに、プロテスタント的普遍史が登場したことにより、二大宗派の間で普遍史をめぐる鋭い論争が繰り広げられるようになっていきます。
5.挑戦への反論・ボシュエの『普遍史』
ここまで普遍史が様々な挑戦を受けたことを見てきましたが、普遍史家の側も黙って見ていたわけありません。最後に、カトリック司祭であり、ルイ14世にも仕えた普遍史家ボシュエによる反論を見てみましょう。

フランスの聖職者。王権神授説を唱え、ルイ14世の絶対主義を理論的に支えた。1670年から王太子ルイの教育係を務めており、『普遍史』は、この王太子家に捧げられた書という形式をとっている。
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1682年、ボシュエは『普遍史』を発表し、天地創造からカール大帝に至る神学的世界史を提示しました。この中で、ボシュエはローマ帝国をその中心に据えています。ボシュエにとって、キリスト教の確立だけが唯一重要な歴史上の出来事であり、ローマ帝国がキリスト教を公認し、「イエス・キリストが地球全体に及ぼそうとした精神的帝国の長」となったことで、世界史は完成すると考えていました。そして、こうした歴史観に基づき、キリスト教とは無関係な中国や新大陸といったヨーロッパ以外の文明の存在を無視したのです。
さらに、ボシュエは諸民族や諸国家という存在が歴史を動かすことことを認めながらも、その根本を規定するのは神の摂理であり、歴史の究極的な意味は神意の実現にあると考えていました。これはマキャベリが提示したような人間中心史観に対する反論であり、歴史とは人類救済の過程であるとする中世以来の歴史観を改めて示したのです。
ボシュエの『普遍史』はフランスで版を重ね、イギリス、そしてアメリカでも英訳が出版され、17世紀末~18世紀にかけて最も読まれた普遍史的著作となり、ヨーロッパ人の歴史認識を長く規定していくことになります。
6.まとめ
今回は、16~17世紀にかけて投げかけられた、普遍史への挑戦を見てきました。ここまで読んでいただいてわかるように、普遍史は大きな危機にさらされたものの、なんとか存続することに成功しています。科学革命をけん引したアイザック・ニュートンが敬虔なキリスト教徒だったことに象徴されるように、この時代のヨーロッパではあくまでもキリスト教が支配的であり、それが全否定されるようなことはなかったわけです。
しかし、これらの出来事が普遍史を動揺させたことは間違いありません。ボシュエにしろ、近世に起きた普遍史への挑戦を無視しているだけに過ぎず、根本的な反論にはなってはいません。この時代に提起された問題は、その後も18世紀を通して議論され続けていくことになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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