今年印象に残った本⑥『記憶のエチカ』高橋哲哉
今年、『アーレントと黒人問題』という本が日本で翻訳された。ハンナ・アーレントの差別意識は日本ではほとんど論じられてこなかったため、この本の刊行は大きなインパクトをもたらした。
正確を期しておけば、アーレントの黒人差別については日本で取り上げられてこなかったわけではない。『アーレントと黒人問題』の訳者である百木漠が述べているとおり、本邦にはこのテーマに関する先駆的な書として高橋哲哉の『記憶のエチカ』がある。
高橋がアーレントの黒人差別について論じた章は30ページほどの分量しかないが、『全体主義の起原』でさらけ出されている彼女の差別意識を的確に摘出している点で卓抜な仕事といえる。
しかし、本稿ではそれよりも、高橋がアーレントの「忘却の穴」について論じている箇所に注目してみたい。
『記憶のエチカ』は第二次大戦が終結してちょうど50年の節目に出版された本だが、50年前に起きた様々な凄惨な出来事――大虐殺、原爆投下、慰安婦制度……――を踏まえながら高橋は、「記憶されるべき出来事の核心に〈記憶されえるもの〉や〈語りえぬもの〉があったとしたら、そしてそれが、我々の歴史の肉体のそこかしこに〈忘却の穴〉を穿っているのだとしたら、どうなるのか」と問いかける。
記憶は時間が経つとともに薄れていくものであり、忘却は避けがたい。高橋はそうした「〈自然な〉忘却」があるとは認めつつも、そもそも記憶の可能性自体が抹消されている出来事もあるのではないだろうか、と提起する。
たとえば、ナチスの収容所では収容者に対する過酷なまでの虐待や、ガスなどを使った非人間的な抹殺が行われていた。そうした収容所で起きた出来事に関する生存者の証言は、今日にいたるまで山ほど積み上げられている。
しかしながら我々は、それらの証言をもとに収容所の内部の様子を想像することができるのだろうか? 生存者の証言のなかで語られていることは日常からあまりにかけ離れた出来事であるため、我々の想像力ではそれを具体的にイメージするのは難しい。それゆえ、収容所の出来事をあますことなく記憶に残すことは難しいのではないだろうか? そもそも想像することが可能でない出来事は、記憶すらされないまま忘却の川に流されてしまうのではないか?
高橋はそう論じながら、「恐ろしいことを考えつづける」ことの重要性を訴えたアーレントの『起原』を取りあげる。アーレントはソ連の秘密警察もまたナチス同様に、徹底的に記憶の可能性そのものを消し去る粛清を行ってきたと述べている。
警察の管轄下の牢獄や収容所は単に不法と犯罪の行なわれる場所ではなかった。それらは、だれもがいつなんどき落ちこむかもしれず、落ちこんだらかつてこの世に存在したことがなかったかのように消滅してしまう忘却の穴に仕立てられていたのである。殺害が行われた、もしくは誰かが死んだことを教える屍体も墓もなかった。〔……〕屍体をあとに残し、ただ自分が誰かを知らせる痕跡を消すことだけに気をくばっている殺人者などは、犯行の痕跡も残さず、犠牲者を生きている人間たちの記憶の中から抹消するに足る大きな政治的に組織された権力を持っている現代の大量虐殺者の足もとにも寄れない。一人の人間がかつてこの世に生きていたことがなかったかのように生者の世界から抹殺されたとき、はじめて彼は本当に殺されたのである。
では、こうした「忘却の穴」に対抗するためにはどうしたらいいのだろうか? 普通ならこれに対する対抗策を提示するだろう。しかし、高橋はアーレントが紆余曲折を経た末に、妙な方向へと逸れていったと指摘している。
アーレントは、『起原』から12年経って出版された『エルサレムのアイヒマン』においてなんと「忘却の穴などというものは存在しない」と述べ、自身の議論を撤回するにいたるのだ。
全体主義的支配が、善悪を問わず人間の一切の行為がその中に消滅してしまうような忘却の穴を設けようとしたことは事実である。しかし殺戮のすべての痕跡を除去しようとする――焼却炉で、また露天掘りの溝で屍体を燃やすことで、あるいはまた爆薬や火炎放射器や骨を粉砕する機械の使用によって――ナチの1942年6月以後の熱に浮かされたような試みが失敗を運命づけられていたのと同じく、反対者たちを〈沈黙せる匿名性のうちに消滅させ〉ようとするすべての努力も空しかったのである。忘却の穴などというものは存在しない。人間のすることはすべてそれほど完璧ではないのだ。何のことはない、世界には人間が多すぎて忘却などというものはあり得ないのである。かならず誰か一人が生き残ってその物語を語るだろう。
高橋はこういったアーレントの転回を、「明らかな後退」だとみなす。アーレントは「かならず誰か一人が生き残」るだろう、と述べているが、『起原』においてはその「一人」すら残らないような粛清が行われるという「恐ろしいことを考えつづける」ことの重要性が説かれていた。そこからすれば、『アイヒマン』のアーレントはそういった「恐ろしいことを考えつづける」ことを放棄している点で、「後退」しているのだと高橋は判断している。
また、仮にアーレントが述べるように「かならず誰か一人が生き残」るのだとしても、彼が証言をするとは限らない。トラウマに苦しんで沈黙してしまう可能性だってある。のみならず先ほども述べたように、証言者の語る凄惨な出来事を聞き手が想像できるのか、という問題も否めない。
『起原』においてアーレントは、ナチスやソ連の人々は仮に大量犯罪が露見したとしてもどうせ誰も信じないだろうと多寡をくくっていた、と指摘しつつ、それを「自動安全装置」と表現している。高橋はそうした洞察を評価しつつ、それに気づいているのならばなおさら「忘却の穴などというものは存在しない」などという言明は許されないとアーレントを批判している。
高橋の議論は、ほとんど付けくわえる所がないほどにすばらしい。だが、まったく付けくわえる所がないというわけでもない。
高橋の議論は、『起原』と『アイヒマン』のテクストを比較しながら両者の「忘却の穴」の取り扱いが決定的に変化していることを看取した点できわめて優れている。だが一方で、何が原因でこうした変化が起きたのかについては論じられていない。これについて、筆者にはすこし心当たりがあるので補足として以下論じていこう。
もう一度、先程の『アイヒマン』の引用を見直してみよう。そこでは、「何のことはない、世界には人間が多すぎて忘却などというものはあり得ないのである」と述べられている。つまり、アーレントは「忘却の穴」がありえない理由を「世界には人間が多すぎ」ることに求めているのである。ということは、アーレントは「世界には人間が多すぎ」ると実感する機会があったということだ。では、どこで?
それは同じく『アイヒマン』の――「忘却の穴」の否定が行われてもいる――第14章で確認できる。「証拠と証人」と題されているこの章では、アイヒマン裁判においていかに多くの検察側証人が出廷したかが論じられている。
アイヒマンは六月二十日から七月二十四日まで、換言すれば全体で三十三回半の公判のあいだ、証人台に立っていた。ほとんどその二倍の公判、すなわち全体で百二十一回のうち六十二回は、各国別に恐るべき証言を行った百人の検察側証人のために費やされたのであった。
アーレントも言及しているとおり、それらの証人のほとんどは収容所の「生き残り」だった。とはいえ、彼らのすべてがアイヒマンの仕事によって収容されたかというと、そうではない。「証人たちの大多数、すなわち五十三人は、アイヒマンの権能も権限もほとんど皆無だったポーランドとリトアニアから来たのであった」。
通常の裁判であれば、被告に関係している証人が出廷し、被告の罪状について検察が指摘している部分に確証を与えるための証言をする。しかしながら、アイヒマン裁判においてはアイヒマンが手配したわけではない収容所の生存者もまた証人として出廷していたのである。
なぜこのようなことが行われたのか? 端的に言えば、イスラエルがこの裁判をある種の国民的行事に仕立てようとしたからだ。イスラエルは自他ともに認めるユダヤ人国家ではあるが、それぞれのユダヤ人は出身地が異なる。いわゆるアシュケナジム、ヨーロッパ出身のユダヤ人もいれば、いわゆるセファルディム、イベリア半島をルーツとし北アフリカなどに流謫していったユダヤ人もいる。また、中東に元々住んでいたミズラヒムもいる。
建国間もない頃のイスラエルは、政権中枢にヨーロッパ出身の人々が多かったこともあってアシュケナジムが優遇されていた。それに対して、セファルディムやミズラヒムは劣位に置かれていた。イスラエルはアジアに建国しながらもヨーロッパ中心主義に毒されていたわけだが、セファルディムやミズラヒムはそうした不遇をつねに不満に思っていた。
出身地の異なるユダヤ人をいかに統合したものか、と政権が悩んでいたところに訪れたのが、アイヒマン逮捕のニュースだった。政権は考えた。アイヒマン裁判をとおして、第三帝国によるユダヤ人の虐殺をイスラエルの共通の記憶とすれば、国民の統合が図れるのではないだろうか。
ユダヤ人はヨーロッパ人に迫害されつづけた結果、イスラエルを建国した。しかし、建国してからも周囲のアラブ諸国に敵意を向けられつづけている。その点では、アシュケナジムだろうがセファルディムだろうがミズラヒムだろうが変わらない。どこを出身地としようと、ユダヤ人は周囲から蔑視されつづけている。そうした自分の身を守るためには、イスラエルが必要なのだ。同じユダヤ人として、協力してイスラエルを守らなければならない――そういったストーリーを国民に植えつけるために、イスラエルはアイヒマン裁判を利用したのである。
そしてイスラエルは、証言台に多数の収容所の生存者を呼び寄せた。彼らがアイヒマンに関係していようと関係していまいと、どちらでもよい。重要なのは、彼らが収容所での悲惨な体験を語ってくれることだった。イスラエル国民――特にセファルディムやミズラヒム――が彼らに同情し、ユダヤ人が世界で置かれている状況を理解したうえで、それを解決するために作られたイスラエルの重要性を理解してくれさえすれば、それでいいのである。
そういうわけでアイヒマン裁判の法廷には多くの人々が証言台に立ったのだが、アーレントはそれを見て、「世界には人間が多すぎ」ると思い知らされたのである。そして、彼女は「忘却の穴などというものは存在しない」とそれまでの自分の意見を変えた。イスラエルの国民統合にあたっての異常なまでの執念が、アーレントの立場を変えさせるまでに至ったのだ。
さて、以上の確認を踏まえたうえで、ここでアーレントにまつわるもう一つの謎を取りあげてみたい。それは、なぜ彼女が当初あれだけ批判的だったはずのイスラエルを、最終的に肯定するに至ったのか、という謎である。
よく知られているように、アーレントはシオニストとして政治的に開眼したが、徐々に強硬的になっていく主流派を見てシオニズムに距離を置くようになった。そして、主流派シオニストがアラブ人を追い出してでもユダヤ人のみの国家を樹立する、と息巻いていたのに対し、彼女はアラブ人と共存しなければ早晩ユダヤ人国家は破綻に至るだろう、とし(ジューダ・マグネスの薫陶を受けながら)バイナショナリズムを唱えた。
こういった経緯があるせいで、アーレントはイスラエルに批判的な人物だった、との見方が多いのだが、一方でエリザベス・ヤング=ブルーエルの伝記において、1967年の六日間戦争に際し彼女が「戦争花嫁」のようにふるまいながらイスラエルの勝利を願っていたと暴露されてもいる。
のみならず、カール・ヤスパース宛の書簡でアーレントは、六日間戦争後にイスラエルへと渡ったところ、占領地を観光気分でおとずれるイスラエル人を見て「なかなか愉快」だと感じた、とまで記している。言うなればアーレントは(かつて彼女が蔑視していたはずの)ナショナリストに転向したのだ。
高橋はこれについて、「アーレントの対イスラエル関係の『活動』に関するわれわれの記憶を、もう一度徹底的に洗いなおす以外にない」と述べている。筆者は彼のこうした主張に従って、アーレントのイスラエル観の変遷(とアラブ人への一貫した蔑視)を論じる記事を書いた。
だが、この記事で取りあげきれなかった問題が残っている。それは、アーレントはどのような変遷を経てイスラエルを肯定するに至ったのか、という問題だ。筆者の見立てでは、アーレントのイスラエル観の変遷の道筋は、おそらく彼女の「忘却の穴」に関する態度の変遷の道筋とパラレルである。
先ほども確認したように、アーレントは「世界には人間が多すぎ」るから「忘却の穴などというものは存在しない」と述べた。どんなに悲惨な事件が起きようが、この世界には人間が多すぎるのだから、絶滅することなどまずありえない。誰か一人が生き残っている限り、悲惨な事件の「物語を語るだろう」から「忘却」はあり得ない――だが、よくよく考えてみると、その「物語」のための場は誰が用意するのだろうか?
一例として、ナチスの収容所の生存者が証言したがっているとしよう。彼が証言するためには、生存者だと保証してくれる他人がいなくてはならない。この人は〇〇収容所に××年から△△年まで収容していた生存者です、とかいった具合に紹介してくれる人がいなければ、他の聞き手はおそらく証言者のことを信用しないだろう(実際に収容所の生存者だと偽称した者はこれまで無数にいた)。
このように、証言のためにはその場を用意してくれる人が欠かせない。逆に言えば、証言のための場がなければ、いつまで経っても証人は証言することはできない。では、この証言の場を安定して確保できるのは誰か?
さしあたり、国家こそが最も証言の場を確保しやすい存在だということができるだろう。たとえばユダヤ人が証言する場合、最も彼を信用してくれるのはおそらく同じユダヤ人だろう。聞き手であるユダヤ人が同じ民族として差別に遭いつづけた経験を活かせば、証言者の身の上を理解しつつその証言についても信用しやすくなる。こういった具合に証人を保証してくれる同じ民族がたくさん集まった空間ならば、証人はなおさら証言しやすくなるだろう。それこそ、ユダヤ人だけで成り立つ国家、そう、イスラエルのような……。
「忘却の穴などというものは存在しない」ためには、証言者が証言するための場所が必要となる。言いかえれば、生存者を保護してくれる場所こそが欠かせない。この生存者を保護するための格好の場として挙げられるのが、国家なのである。だから、一度「忘却の穴などというものを存在しない」と言ったからには国家、言いかえればイスラエルの存在は簡単には否定できなくなるのだ。このことに気づいたがために、アーレントはイスラエルを熱烈に支持するナショナリストに転向するにいたったのではないだろうか?
もっとも、これはアーレントがアイヒマン裁判に際してすぐさま転向するにいたったということを意味しない。そもそも転向のための下地は、『起原』の段階ですでに整えられていた。
『起原』の第二部でアーレントは、ヨーロッパで生まれた国民国家の問題点を取りあげている。国民国家は主流民族を手厚く保護する一方で、マイナー民族を容赦なく排除する。その結果生まれるのが(アーレントが一時そうだったような)難民、そして無国籍者である。
このように国民国家を批判しつつも、一方でアーレントは国民国家のないところで「人権」はありえないことも認めている。彼女はエドマンド・バークのフランス革命についての議論と、自身の難民および無国籍者としての経験を踏まえながら、以下のように述べる。
われわれの経験は、人権が無意味な「抽象」以外の何物でもないことをいわば実験的に証明したように見える。そして権利とは、生命自体と同じく代々子孫に伝える「継承された遺産」であること、権利とは具体的には「イギリス人の権利」、あるいはドイツ人の、あるいはその他いかなる国であろうと、ある国民の権利でしかあり得ないがゆえに、自己の権利を奪うべからざる人権として宣言するのは政治的には無意味であることも証明されてしまった。〔……〕バークの議論の実際上の正しさについては疑問の余地がない。国民としての権利の喪失は、十八世紀以来人権として数えられてきた諸権利を失うという結果をあらゆる場合にもたらしてきた。そしてこれらの権利の回復は、ユダヤ人とイスラエル国の例が示すようにこれまでは一国の国民としての権利の確立による以外には不可能だった。人権の概念はバークが予言した通りに、人間が国家によって保証された権利を失い現実に人権にしか頼れなくなった瞬間に崩れてしまった。他のすべての社会的および政治的資格を失ってしまった時、単に人間であるということからは何らの権利も生じなかった。
ユダヤ人は国家のないところでは人権を持てないが、「イスラエル人の権利」なら持つことができる……その「権利」の中には、おそらく自らの悲惨な体験について証言する権利も含まれるだろう。国家がないかぎり、人は自分の体験を証言することすら難しくなってしまうのである。アーレントはこの1951年の時点で、イスラエルに抵抗しようがなくなっていたのだ。
国民としての権利を喪失すれば、人間は人権を失う――アーレントがこのように描き出した「人権のアポリア」は、思想界においてこれまで何度となく取り上げられてきた。だがそれに比べて、彼女がこのアポリアの解決策を打ち出せなかったことはあまり取りあげられてこなかった。そして、彼女がアポリアを解くどころか、嬉々としてイスラエルという国民国家を肯定したことはそれ以上に取りあげられてこなかった。
そのイスラエルが今日においてパレスチナ人を迫害しつづけ、「人権のアポリア」をより解決しがたいものにしつづけている以上、我々はアーレントのみならず、イスラエルの「記憶」もまた「徹底的に洗いなおす以外にない」。おそらくそこにこそ、この「アポリア」を解くカギが潜んでいるはずである。
