イスラエルにとっての「自衛権」とは何なのか

 『現代思想』2024年1月号のなかで、三牧聖子は「戦争のない世界は可能か?」という問いに取り組みつつ、単に戦争を批判するだけでなく「「自衛」の名のもとに、「自衛」の概念ではとても正当化できない性質の軍事行動」も批判すべきだとしている。
 三牧はその上で現在イスラエルがガザに対して行っている攻撃を取り上げ、わずか1ヶ月でガザ市民を含めた死者数が1万人を超えたこと(現在は2万5千人を超えている)、病院や救急車、難民キャンプや大学にまで爆撃が及んでいること、ガザ全体が封鎖されたために水や食料、燃料の供給が厳しく制限され人々の生活が危ぶまれていることなどを挙げ、「こうしたイスラエルの攻撃が、自衛権の行使として全く認められない規模であることは明白だ」と述べている。
 筆者もこの論旨に賛同する。と同時に、一点だけ補足しなければならないこともある。三牧は今日のイスラエルに代表される「自衛権」の肥大化の起点は、9.11以降のアメリカの戦略に求められるとしている。その結果、アメリカはコラテラル・ダメージを各地にばら撒いた。

 しかし、自衛権を掲げて行われてきたアメリカの二〇年超の「テロとの戦い」は甚大な犠牲をもたらした。九・一一以降、アメリカが世界各地で展開してきた「テロとの戦い」のコストを多角的に分析しているブラウン大学の「戦争のコスト」プロジェクトによれば、この二〇年超の間にアメリカは八〇を超える国々で対テロ作戦を展開し、巻き込まれて命を奪われた人は民間人四三万人超を含む九四万人、戦争による難民や避難民は三八〇〇万人あまりにのぼる(二〇二三年三月時点)。

三牧聖子「戦争のない世界は可能か?――目標を正しく設定するために」『現代思想』青土社2024年1月号p246

 そして三牧は必ずしもこうした「テロとの戦い」がアメリカに安全をもたらしたわけではなく、「極右団体や白人史上主義団体による国内テロの増加」さえ引き起こし、むしろ治安の悪化の遠因にまでなったのではないかとしている。
 これはこれで正しいのだが、一方で2001年より前の文脈をカバーしていない点で不足感は否めない。というのも、それ以前にイスラエルが「自衛権」を主張しつつ周辺各国を攻撃している事実があるからだ。(注1)結論を先取りしていえば、イスラエルがアメリカを範として「自衛権」の濫用に手を染めだしたどころか、むしろイスラエルこそがアメリカの範になったのかもしれない、との可能性を踏まえなければ今日の虐殺への有効な批判は成しえないだろう。

1.イスラエルのレバノン侵攻はどのようにして起きたか?

 それを確かめるために我々は約40年時間をさかのぼろう。
 周知のとおりイスラエルは1982年6月6日、内戦が続くレバノンの領地へと侵攻している。狙いはレバノンに駐留していたシリア軍への攻撃と、パレスチナ解放機構(PLO)への「報復」だった。イスラエルはなぜPLOに「報復」しようとしていたのか?
 この侵攻の3日前に、イギリスに駐在していたイスラエル大使シュロモー・アルゴフが銃撃され重傷を負うという事件が起きていた。犯人グループの出身がパレスチナであると判明すると、イスラエル政府はすぐさまPLOがアルゴフを暗殺しようとした、と判断した。だからこそレバノンにいるPLOに狙いをつけたのだ。
 これだけなら、イスラエルの侵攻はそれなりに正当性を持っているように見える。しかし、アルゴフを襲撃したのはPLOに属する人間ではない。むしろPLOと敵対する、アブ・ニダル・グループの一員だった。このグループを率いるアブ・ニダルはかつてファタハに所属していたパレスチナ人である。
 好戦的なアブ・ニダルはファタハ加入時から独断で行動することが多く、アラファトを始めとした指導部と対立することがしばしばで、イスラエルに対してもパレスチナの地から退去するよう求めるほどの人物だった。イスラエルに強硬姿勢を取らないどころか、むしろ宥和的な態度さえ見せるファタハ指導部に業を煮やし、ハイジャック事件を起こすことで和平交渉を邪魔しようとしたことさえある。これによってアブ・ニダルはファタハから追放されたのだが、それでもなお彼は主要人物の暗殺さえ企てた。ターゲットとなったのはマフムード・アッバースだったが、実行前に計画は露見し、アブ・ニダルは欠席裁判で死刑を言い渡され以降ファタハ及びPLOとの関係は途絶えた。
 つまり、イスラエルはPLOとは全く関係のない組織による事件を、実行犯がパレスチナ人だからという理由だけでPLOに罪を押しつけようとしていたのだ。(注2)こうなると俄然イスラエルの侵攻の正当性は怪しくなるのだが、さらに包囲戦でPLOが降伏した後、停戦中だったにもかかわらずサブラとシャティーラに残っていたパレスチナ難民がレバノン人によって虐殺された事実を踏まえると、なおさらこの侵攻は必要だったのかとの疑問が浮かんでくる。

 サブラ=シャティーラで起きた虐殺については以前も書いたので、くわしくは繰りかえさない。
 ところで、アブ・ニダルはファタハに所属していたころからイラクとの関係を深めていた。イスラエル大使への襲撃に関しても、イラクの指示があったことがわかっている。では、なぜイラクはこうした作戦を企てたのか?

2.イスラエルのイラク原子炉破壊はどのようにして起きたか?

 それを確かめるためにはレバノン侵攻のほぼ1年前、1981年6月7日にさかのぼらなければいけない。この日、イスラエルはイラクの原子炉を空軍機でもって破壊した。
 イラクは1960年代からソ連の援助を受けて原子炉を導入していたことで知られる。とはいえ、サダム・フセインはあくまでも将来の核兵器製造につながる技術が欲しかった。ソ連からの原子炉ではとうてい兵器利用に必要なプルトニムは製造できなかったのだ。そこでフセインが助けを求めたのはフランスだった。交渉の結果イラクは従来よりも優れた技術を手に入れ、原子力発電所の建設へと着手する。
 これに対してイスラエルは危機を覚え、核兵器が完成するまでに防がなければいけないとあの手この手でイラクを妨害しようとした。最初はフランスに向けて技術供与を中止するよう要請したが断られた。そこでイスラエルは原子炉開発に関係する人物を暗殺することにした。さらにイラクに協力するイタリアやフランスの科学者に向けて脅迫にも及んだが、発電所の建設を食い止めることはできず、イスラエル首脳部はいよいよ原子炉そのものを破壊しなければいけないと決心する。
 当日、イスラエル空軍はサウジアラビアの領空を侵犯しつつ、イラクの防空網の資格を突いて侵入、そして16発の爆弾を投下し原子炉の破壊に成功した。これによって原子炉周辺を警備していたイラン人10人と、フランスから来た技術者1人が亡くなった。
 イスラエルは当初この作戦をあくまで極秘で進めるつもりだった。空軍機のマークは塗りつぶされていたし、攻撃自体も二分で完了するほどスピーディーだった。実際イラクは原子炉が破壊された後も攻撃先を特定できず、当時交戦していたイランからのものではないか、とさえ疑ったほどだったらしい。
 しかし、計画の露見は思わぬところから起きた。なんと当時の首相メナヘム・ベギンがわざわざ作戦成功の翌日に政府声明を発表し、「われわれを標的とする敵の大量破壊兵器開発はどんな状況でも許さない。イスラエル国民を守るためには遅滞なくいかなる手段をも用いる」と述べたのだ。後に「ベギン・ドクトリン」として知られるようになる方針の表明に加えて、さらに翌9日には記者会見を開いてこう言ってのけてみせた。

もし我々が2年、3年、長くても4年、何もせずに傍観し、サダム・フセインが3発、4発、5発の爆弾を製造していたら、この国と民族はホロコーストに続いて失われていただろう。〔……〕ユダヤ民族の歴史に第二のホロコーストが起こっていたかもしれない。そんなことは繰り返されてはならない、繰り返されてはならないのだ! 君たちの友人や知人に伝えてくれ、我々は、我々が自由に使えるあらゆる手段を使って、我々の民族を守る。いかなる敵にも、我々に敵対する大量破壊兵器の開発を許さない。

https://www.jpost.com/middle-east/iran-news/article-702840

 今日のガザにおいてもイスラエルが「ホロコースト」を引き合いに攻撃を正当化しているのを踏まえると、これはこれで興味深い歴史的事実だ。
 が、今回それよりも注目したいのは、ベギンが「我々の民族を守る」と述べているところだ。ベギンはこの一方的な攻撃を、イスラエルの民を防衛するためのものとしたのである。実際、イスラエルもその後この攻撃を弁護するにあたって「自衛権」を行使した結果であると主張した曰く、イラクの原子炉はまもなく臨界寸前だったのであり、先んじて破壊しなければ核兵器の襲撃もありえたのだから、これは正当な攻撃である、と。(注3)
 もっとも、当時の国際社会はそんな妄言にだまされるほど馬鹿ではなかった。イスラエルの行動はすぐさま非難され、全会一致で国連安保理決議487が採択された。さらにアメリカが当初予定していたF-16戦闘機のイスラエルへの引き渡しを延期するなど、様々な制裁措置が取られた(注4)。

3.イスラエルの「自衛権」行使は成功したか?

 イラクがアブ・ニダル・グループを通じてイスラエル大使の襲撃を命じた背景には、こうした事件があったのだ。イスラエルは、危機を未然に防ごうと攻撃したが報復を受けたのである。これだけを見ても、いかにイスラエルが「自衛権」を濫用したためにかえって危険を招いていたかがうかがい知れるだろう。
 なにより、当時の段階でイラクが本当に核兵器を製造できたかを検証していくと、この攻撃の正当性はいっそう怪しくなる。ハーバード大学にリチャード・ウィルソンという、一貫してイラクを擁護し続けていた人物がいる。彼曰く、破壊後の残骸を見るに、原子力発電所はフランス人技術者によって爆弾製造に適さないよう設計されていた。つまり、1981年の段階でイラクに核兵器製造能力はなかったのだ。もちろん、フセインが当時核兵器製造へ乗り出していたのは確かであるが、一方でイラクはNPTに加盟しており、1981年にもIAEAの査察を受けていた。イスラエル曰く、IAEAの査察官をだまして査察をすり抜けたのだ、とのことだが、この22年後にイラクで何が起こったかを知っている我々にとってはとうてい受け入れられる話ではないだろう。
 どころか、ウィルソンはこの攻撃がフセインの態度をより強硬にさせ、核製造を抑止するどころか加速させた、と主張する。

 ウィルソンにとって、イスラエルの急襲はサダムの核兵器開発の終わりを告げるものではなく、むしろ始まりを告げるものであった。3ヵ月後の1981年9月、サダムはオシラク事件から立ち直り、イラクが外国からの攻撃に対して脆弱であることを思い知らされた。オシラク事件から9年後、イラクは核爆弾製造の直前にまで至った。
 こうしたウィルソンの分析は今日、主導的な核不拡散に関するエキスパートにも共有されている。コロンビア大学のリチャード・ベッツは「イスラエルによるオシラク破壊がイラクの核兵器開発を遅らせたという証拠はない。攻撃はむしろそれを加速させたかもしれない」と言っているし、エモリー大学のダン・ライターも「攻撃は、サダムの核兵器開発へのコミットメントを実際に高めたかもしれない」と主張し、そしてハーバード大学のモルフリッド・ブラウト=ヘッグハマーも「以前には存在しなかった秘密の核兵器計画のトリガーとなった」と述べている。

https://www.theguardian.com/commentisfree/2012/mar/25/bomb-iran-nuclear-arms-iraq-israel

 そして、我々が最も忘れていけないのは、当時のイスラエルがすでに核兵器を所有していたという事実である。イラクがそれだけをもって核開発に乗り出したわけではない。だが、一因であることもゆるぎない。その点でイスラエルが「敵の大量破壊兵器開発はどんな状況でも許さない」と述べ、あまつさえ「自衛権」を持ち出すのは、あまりに傲慢と言わざるを得ないのだ。
 もちろん、核の所有を検討していた、という点ではイラクも同罪である。イスラエルであろうと、イラクであろうと、他の国であろうと、軍事利用であろうと、平和利用であろうと、人間は原子力に手を染めるべきではない。これは筆者が日本人だからこそ、身をもって言えることだ。
 だが、それ以上に悪いことがある。それは周囲の国々に先んじて核を所有することだ。近くに核を持っている国がなければ、わざわざ核を持とうとはしない。しかし、近くに核を持つ国があれば、危機感を覚えすぐさま我が国も核を持たなければならないと焦る。この結果核が拡散され、一帯に緊張が生まれてしまう。1969年にヘンリー・キッシンジャーは、イスラエルの核保有が「中東に潜在な危険性を増大させるだろう」と危惧していた。(https://www.nixonlibrary.gov/sites/default/files/virtuallibrary/documents/mr/071969_israel.pdf
 ――いや、わざわざキッシンジャーなど引用しなくてもちょっと考えれば誰にでもわかる、いたって簡単な話なのだ。
 それにもかかわらずイスラエルは核をもち、周辺各国との関係を悪化させてきた。強力な兵器を持てばどんな相手にも勝てるだろうとの拙い打算に基づいて核開発を推し進めた。(注5)
 1967年に当時の労働大臣イーガル・アロンは核弾頭を搭載したミサイルを視察した後、興奮のあまり演説でこう口を滑らせたという。

「エジプトがどのような武器を製造しようと、どのような武器を大国の支援を受けて導入しようと、わが国はこれに対抗できる。大国の支援を受けることもあろうが、それがなくとも対抗する」

セイモア・M・ハーシュ『サムソン・オプション』文藝春秋p213

 世界からのプレッシャーがかけられたイスラエルはその後核所有を公言せず、一方で否定もしない戦略を採るようになった。後に首相を務めたシモン・ペレスはこの「曖昧政策」について、このように述べている。

世界中が、そしてアラブ諸国が、我々が核を持っているのではないかと疑っています。疑われているのならばそれで十分です。疑いだけで十分抑止力になります。それでOKなのです。持っていると思われれば、敵は攻撃はしてきません。

BSドキュメンタリー「証言でつづる現代史」 オシラクオプション 後編 ~攻撃はどのように世界を変えたのか~2008年5月11日放送

 「抑止力」ーーこれも「自衛」と同様古くから使い倒されてきたマジックワードだ。もっとも、その戦略も成功しているとは言えない。今日のイスラエルの中東における最大の敵イランを見れば明らかだろう。おまけに、イスラエルはイランに対抗させるために、サウジアラビアの核開発を承認するとまで検討しているのだそうだ。

 周辺諸国の核保有を促進する国が、軍事的緊張を「抑止」しているとはまるで思えない。

4.歴史的文脈を消したがる敵とどのように戦うか

 このように「自衛権」をアメリカに先んじて肥大化させ続けてきたイスラエルに対して、どのような戦略を採れば有効な批判を繰り出すことができるのか。
 基本的には、常に歴史的文脈を踏まえながら状況を見極めるのが望ましい。イスラエルは「自衛権」と称して相手への攻撃を繰りかえしている。先に向こうから攻撃してきたのだから、我々は正当防衛しているだけなのだ、と。しかし、起点となる攻撃をさらにさかのぼっていくと、むしろイスラエルこそが先制攻撃をしたのだという歴史的事実が見つかることはザラだ。そのような事実を相手に突きつけさえすれば、彼らの正当性は途端に崩れる。だから我々は、目の前の出来事にショックを覚えるあまり記憶喪失に陥るのではなく、冷静に過去に立ち戻ってイスラエルが今まで何をしてきたかと問うのが一番いい。
 何より、イスラエルがこうした歴史的文脈を一切消去し、パレスチナ人の存在すら世界から忘れさせようとしているからには、なおさら我々はこれに抵抗しなければいけない。イラン・パペはアルジャジーラに寄せた論考「なぜイスラエルはガザ戦争において文脈と歴史を消したがるのか」で、このように述べている。

 10月24日、アントニオ・グテーレス国連事務総長の発言がイスラエルの過敏な反発をまねいた。国連安全保障理事会で演説した国連事務総長は、10月7日にハマスが行った虐殺を最も強い言葉で非難する一方で、それが真空状態の中で起きたのではないことを世界に喚起したいと述べた。彼は56年間におよぶ占領と、7日に起きた悲劇とのつながりを分離することはできないと説明した。
 イスラエル政府はすぐさまこの声明を非難した。イスラエル国連大使は、グテーレスがハマースを支持し、虐殺を正当化したとして辞任を要求した。イスラエルのメディアも一斉に同調し、国連総長は「唖然とするほどの道徳的破綻の証明だ」などと主張した。
 この反応は、新しいタイプの反ユダヤ主義疑惑が俎上に載せられたことを示唆している。10月7日まで、イスラエルは反ユダヤ主義の定義を拡大し、イスラエル国家への批判やシオニズムの道徳的基盤への疑問を含めるよう推し進めてきた。今や、現在進行形の出来事の文脈や歴史を指摘するのも反ユダヤ主義との誹りを引き起こすかもしれない。
 こうした出来事の非歴史化はイスラエルや西側諸国政府が、倫理的、戦術的、戦略的な配慮から、過去に敬遠していた政策を採用するのを手助けする。
 つまり、10月7日の攻撃はイスラエルがガザ地区でジェノサイド的な政策を推進するための口実として使われている。それはまた、米国が中東での存在感を再び示そうとするための口実でもある。そしてヨーロッパの一部の国々にとっては、新たな「テロとの戦い」の名の下に民主主義の自由を侵害し制限するための口実となっている。

https://www.aljazeera.com/opinions/2023/11/5/why-israel-wants-to-erase-context-and-history-in-the-war-on-gaza

 「自衛権」「テロとの戦い」「反ユダヤ主義」――いずれもかつてはそれなりに正当性を持っていた言葉だ。しかし、文脈を排除した濫用によって、これらの言葉の効力はすっかり落ちぶれてしまった。単に戦争の廃絶を目指すだけでなく、我々はこれらの言葉を元あった状態に戻すためにも、歴史的文脈を粘り強く強調しなければいけない。
 その点で冒頭でも紹介した三牧の論考は、歴史的文脈のカバーが不十分であるという難点を抱えつつも、事の本質を正しく突いているのは間違いない。

 テロは正当化されえない。テロ攻撃を受けた側には、その安全を確保するための措置をとる権利もある。しかし過去二〇年あまり、より多くの市民の命を奪ってきたのは、テロそのものよりも、テロ組織の壊滅を大義に遂行されてきた「テロとの戦い」であった。「テロ」への正当な「自衛」としてテロとの戦いが無批判的に正当化され続ける限り――その暴力が「戦争」とは呼ばれなくとも――戦争は無くならない。「戦争のない世界」という難問に向け、私たちが取り組むべきことは、「自衛」や「テロとの戦い」の名のもとに正当化され、批判の眼差しすら向けられてこなかった暴力に正しく批判の目を向けることだ。

「戦争のない世界は可能か?――目標を正しく設定するために」p249

脚注

(注1)加えて言えば、「テロとの戦い」をアメリカに先んじて実践していたのもイスラエルだったことを忘れてはいけない。60年代から70年代にかけて、イスラエルはアラファト率いるファタハ及びPLOと対峙する中で、彼らを「テロリスト」と呼び殲滅を目指していた。こうしたイスラエルの方針が、9.11以降のアメリカの中東政策に影響を及ぼした面もあるのだ。

(注2)当時の首相メナヘム・ベギンやほかの閣僚たちは侵攻の決定前に、情報部からPLOとアブ・ニダルとの間の関係について知らされていたが、それを無視している。さらに、2022年にモサドの機密文書が公開されると、イスラエルが1981年の時点でレバノンへの侵攻計画を進めていたことが明らかになった。(https://www.haaretz.com/israel-news/2022-09-08/ty-article-magazine/.highlight/israels-most-planned-war-historical-mossad-file-details-lebanon-policy/00000183-1dce-d11f-a1e3-5fde579b0000)イスラエルにとっては計画実行のための口実が欲しかっただけで、実行犯がPLOかそうでないかはどうでもよかったのだ。

(注3)一方でイスラエルの軍情報部アマンは、作戦計画が練られる前に「原子炉が実際に稼働してもイラクが核爆弾の製造に成功するにはまだ5~8年かかると予測したが」、ベギンはこれを無視して空爆へと突き進んでいったという。(船津靖「イスラエル右派ベギン首相の核ドクトリンと米福音派レーガン大統領のシオニズム」『修道法学』42号p18https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/records/2874

(注4)イラク原子炉破壊に使われたのもこのF-16だったが、アメリカはあくまでも防衛のための使用のみとの条件で引き渡していた。イスラエルが「自衛権」にこだわった理由の一つにこれがあったのだが、その後まもなくアメリカは凍結を解除し、F-16四機は何事もなかったようにイスラエルへと渡った。この戦闘機はその後レバノン侵攻でも使われたし、「テロとの戦い」が世界的に始動してからも現場に投入されている。

イスラエルは、ほぼ一年をかけて、彼らが「ねらい撃ちターゲット・キリング」と呼ぶ作戦つまり暗殺を実行してきました。彼らは、指導者だと目される人物を特定し、自動車に爆弾をしかけたり、ヘリコプターからのミサイル、F16戦闘機からの攻撃によって殺害します。二週間前、ハマスのガザ地区における主要リーダー格であると彼らが主張した対象に向かって、これが実行されました。彼を殺したのです。しかしそれは人々がもっとも密集している地上部分に向けて、F16から爆弾を落とすものでした――標的となった人物以外の人々にも損害をあたえることは、避けられないわけです。四つの建物が破壊されました。一五人が殺害されました。うち九人は子どもですよ。その後シャロンは、これを、「ねらい撃ちターゲット・キリング」部隊が実行してきたなかで、最も大きな成功をおさめた作戦の一つであると述べたのです。

エドワード・W・サイード、デーヴィッド・ハーサミアン『文化と抵抗』ちくま学芸文庫p190-191

(注5)余談だが、イスラエルの核兵器所有を援助していた国に南アフリカがいる。イスラエルは60年代後半まで南アフリカのアパルトヘイト政策を批判していたが、その後態度を一変し急速に関係を強化していく。第四次中東戦争が原因でイスラエルはアフリカ各国に国交を断絶されていた。そのため、少しでも味方を増やすために急遽南アフリカをパートナーとして選んだのだ。両者の関係を語る上で特筆すべきなのは、核開発における協力である。南アフリカはイスラエルに核実験場を提供する一方で、イスラエルは南アフリカに核弾頭を搭載するためのミサイルを提供するなどしていた。1979年にはアメリカの衛星が、南アフリカの領土プリンス・エドワード諸島付近で核実験と思しき閃光を観測した「ヴェラ事件」が起こっているが、これにもイスラエルが絡んでいた可能性が濃厚だ。このように密接な関係を結んでいた両者ではあったが、1991年にアパルトヘイト政策が終焉すると南アフリカはイスラエルとの関係を弱め、むしろ親パレスチナへと政策を転換していく。これはネルソン・マンデラ率いるANCがパレスチナ人のおかれた立場を自国の黒人と重ね合わせたのもあるが、同時に南アフリカが核廃絶に乗り出した事実も見逃してはならないだろう。当時の南アフリカはアパルトヘイト政策だけでなく、核所有も理由で国際社会から孤立していた。国際社会との関係を改善するためには、アパルトヘイトだけでなく、核兵器も廃絶しなければいけないと判断したのだ。そしてこの過程でイスラエルとの協力関係は弱まり、むしろ南アフリカはパレスチナ関連の政策を積極的に批判していくようになる。もし核廃絶を実行していなかったら、南アフリカはイスラエルに足元を見られてまともな批判ができなかっただろう。この意味で、現在イスラエルのジェノサイドを国際司法裁判所に提訴している南アフリカの行動の価値は、いくら強調してもしきれないほど大きい。

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