【ショートショート】傷心旅行じゃないから! よしまるさんへ
彼との同棲は決して嫌じゃなかった。巨大な観葉植物も、ふたりで選んだ食器棚も幸せの象徴みたいに今も並んでいる。なのにどうしてか、その風景が自分を締めつける檻のように見えることがあった。
「また洗い物溜めてるね」
彼の声は淡々としていたけれど、その抑揚のなさがかえって心に刺さった。母親の口調と似ていると感じたのは同棲を始めて3ヶ月くらいだろうか。彼が悪いわけじゃない。私の鈍臭さが、彼を苛立たせているのだろう。だけど、この先もずっと続いていく毎日を想像すると、息が詰まりそうになることがある。
気づいたらネットで佐賀行きの飛行機を予約していた。理由は特にない。強いて挙げるなら、一度も行ったことのない母の故郷・呼子に、今の自分を運んでみたかっただけだ。
旅程はAIが決めた。「明日、東京から呼子に飛行機とバスで行く。2泊3日、食事する場所と宿泊先、行く場所を決めろ」と命令しただけ。こういう主体性のないところも彼の不興を買うのだろう。
羽田からの便は一日数本しかなく、しのぶは早朝の空港で眠気と戦いながら搭乗ゲートに並んでいた。仕事の疲れが溜まっていたのだろうか。機内ではほとんど眠ったまま2時間。気づけば眼下には見慣れない田園が広がっていた。
佐賀空港に降り立つと、待合ロビーは拍子抜けするほど静かだった。人影はまばらで、時折聞こえるのは、到着を告げる館内アナウンスの平板な声だけ。何度もバスを乗り継いで、呼子に着くころには、空はすでに茜色に傾いていた。
「せっかくの休日に何をしているんだろう」
街唯一の民宿に荷物を置き外に出る。潮の匂いが鼻をつき、肌にまとわりつく。観光客の足もまばらで、聞こえるのはカモメの鳴き声だけだった。
どこにでもある漁港。そう思ったしのぶの目は、次の瞬間にキラキラと輝きはじめる。
堤防の向こうに夕陽が大きな火球のように水平線へと沈んでいく。空は朱から紫へと移ろい、雲の端が金色に縁取られる。灰色の漁船が、一つ、また一つ光を灯して輝き始める。しのぶは知らなかったが、ここ呼子はイカが有名な地。そしてイカ漁は夜間、煌々とした電光の下で行われる。彼らの一日は、今から始まるのだ。
白ともオレンジともつかぬ光は、どこか儚く、そして力強かった。
🌇
民宿近くの食事処に足をのばす。透きとおるようなイカの活き造りが並んだ。まだ脚がうねうねと動いていて、しのぶは箸を伸ばすのをためらった。けれど、隣に座った老夫婦が「新鮮だねえ」と笑いながら口に運ぶのを見て、勇気を出して一切れすくい上げる。
案の定、イカの吸盤が舌にきゅっと引っ付いて、しのぶは声にならない声をあげる。でも、コリッと歯をはじく食感のあと、じんわりと甘みが広がるこの味は、東京ではまず味わえないと感じた。
冷たい地酒を流し込むと、甘味が喉の奥まで広がる。静かな波が押し寄せるようで、ふっと肩の力が抜けた。
「お嬢さん、傷心旅行かね?」
老夫婦がしのぶに声をかける。頬杖をつきながら酒を飲むしのぶはどう見ても、恋に敗れた女だ。
「いえ……ちょっと、息継ぎに来ただけです」
自分でも驚くほど自然に、その言葉は口をついて出た。老夫婦は「あら、いいねえ」と頷き合い、それ以上は何も聞かなかった。
夜、部屋に戻ると、LINEに彼から大量のメッセージが届いていた。
「連絡よこさないとかどうかしている」
短い文字列を見つめて、しのぶは返事を打とうとしたが、電波が悪いのか返信できない。
いや、それでいいのだ。
窓を開けると、外は完全に暗くなっていて、漁船の灯りだけが揺れて見えた。静かな闇の中にぽつぽつと浮かぶ光は、まるで行き場を示す灯標のようだった。
スマートフォンをそっと伏せる。
しのぶは布団に横たわり、波の音を聞きながら目を閉じた。
ひとこと
忘れられない風景と、あの夕方の空気をあなたに
