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7月22日|まだ撮っていない写真に君がいた

7月22日の午後七時二十二分、閉店したはずの現像機から、一枚の写真が出てきた。

僕はその時、店のシャッターを半分まで下ろしていた。

夏目写真館。

海から歩いて十五分ほどの古い商店街にある、小さな写真屋だった。

入口には色あせた青い看板。

ガラス窓には、証明写真、フィルム現像、写真修復と書かれたシール。

店内の壁には、七五三や成人式、結婚式の写真が並んでいる。

僕の祖父が五十年前に始め、父が継ぎ、三年前からは僕が一人で店を守っていた。

とはいえ、守れていたとは言いにくい。

フィルムを現像する客は減った。

証明写真はスマートフォンで撮れる。

アルバムを作る人も少なくなった。

店は今月末で閉めることになっていた。

祖父も父も反対しなかった。

祖父は施設へ入り、父は別の町で暮らしている。

「お前の人生まで店に貼りつけなくていい」

父はそう言った。

その言葉に救われた気がした。

同時に、少しだけ寂しかった。

僕は店が嫌いではなかった。

現像液の独特な匂い。

写真を切る機械の音。

湿ったフィルムを光へ透かした時に並ぶ、小さな夏や冬。

知らない家族の写真を扱うたび、誰かの人生に一瞬だけ触れた気がした。

それでも、好きなものだけで店を続けられないことも知っていた。

午後七時二十一分。

僕は最後の照明を消した。

その直後、店の奥から機械音がした。

うぃん。

フィルム現像機。

電源は切ったはずだった。

「また故障か」

シャッターを上げ直し、店内へ戻る。

現像機のランプが青く光っている。

操作画面には何も表示されていない。

フィルムを入れた覚えもない。

それなのに、排出口から一枚の写真がゆっくり出てきた。

時刻は午後七時二十二分。

写真には、海沿いのバス停が写っていた。

雨上がりの夕暮れ。

濡れたベンチ。

黄色い傘。

その横に、白いワンピースを着た女性が立っている。

顔は、傘の影で見えない。

僕は写真を裏返した。

青い文字が書かれていた。

『7月22日 午後7時32分』

十秒ほど、意味を理解できなかった。

現在時刻は午後七時二十二分。

写真に書かれているのは、十分後。

まだ起きていない時間だった。

誰かのいたずらだと思った。

以前撮影した写真へ、未来の日付を書いただけ。

それなら説明がつく。

けれど、そのバス停には見覚えがあった。

店から歩いて五分ほどの、潮風通りのバス停。

そして今日の夕方から、この町には激しい夕立が降っていた。

今は雨がやんだばかり。

写真の道路には、さっきまでの雨による水たまりが残っている。

写真の空には、現在と同じ形の入道雲が浮かんでいた。

現像機が再び動いた。

うぃん。

二枚目の写真。

防波堤の上に、ラムネが二本置かれている。

一本は開いている。

もう一本は、まだビー玉が瓶口を塞いでいる。

裏側。

『7月22日 午後8時04分』

三枚目。

閉鎖された屋外映画館。

白いスクリーン。

誰もいない座席。

映写機だけが光っている。

『7月22日 午後8時41分』

四枚目。

ひまわり畑の中に置かれた、古いカメラ。

ストラップには、青い貝殻の飾りがついている。

『7月22日 午後9時07分』

五枚目。

夏祭りの提灯。

遠くに上がる花火。

手前に、二人分の影。

『7月22日 午後9時22分』

最後に、六枚目が出てきた。

写真館の店内。

壁には、今と同じ写真。

カウンター。

古い現像機。

シャッターは開いている。

ガラス窓には、僕らしい男性の姿が映り込んでいた。

その隣に、白いワンピースの女性。

二人は並んで、店の外を見ている。

裏には、日付ではなく文章があった。

『この夏を現像しますか』

その下に、小さな四角。

『はい』

『いいえ』

まるで、申込用紙だった。

店の電話が鳴った。

古い固定電話。

画面には、番号が表示されていない。

僕は受話器を取った。

「夏目写真館です」

閉店する店の名前を、反射的に名乗った。

電話の向こうから、女性の声がした。

『そこに、私の写真はありますか』

静かな声だった。

少し息が乱れている。

「どなたですか」

『白い服を着ています』

僕は一枚目の写真を見た。

「黄色い傘を持ってる?」

女性は黙った。

雨の滴る音が聞こえる。

『どうして知ってるんですか』

「あなたは今、どこに?」

『潮風通りのバス停です』

時計を見る。

午後七時二十八分。

写真の日付まで、あと四分。

「そこを動かないでください」

僕は写真を持ち、店を飛び出した。

商店街の道路は濡れていた。

雨上がりのアスファルトから、湿った熱が上がっている。

屋根の隙間から見える空は、夕焼けと雷雲が混ざった紫色。

蝉が、雨が終わったことを確かめるように鳴き始めていた。

バス停へ向かって走る。

午後七時三十一分。

角を曲がる。

黄色い傘が見えた。

写真と同じ場所。

写真と同じベンチ。

写真と同じ白いワンピース。

女性は電話を耳に当てたまま、こちらを見た。

僕の受話器は店に置いたままだ。

それなのに、彼女の電話から僕の声がした。

『そこを動かないでください』

数分前の僕の声。

女性は電話を切った。

「夏目さん?」

「そうです」

「どうして私の名前を知ってるんですか」

「まだ聞いてないです」

「あ」

女性は傘を閉じた。

年齢は、僕と同じくらいに見えた。

肩までの黒い髪。

少し濡れた前髪。

手には、古いフィルムカメラを持っている。

青い貝殻のストラップ。

四枚目の写真に写っていたカメラだった。

「あなたの写真館で、このカメラのフィルムを現像してもらいました」

女性は言った。

「今日の昼頃に」

覚えていなかった。

今日は客が三人しか来ていない。

証明写真の男性。

古いアルバムを受け取りに来た女性。

そして、使い捨てカメラを持ってきた中学生。

白いワンピースの女性はいなかった。

「何時頃ですか」

「2018年の7月22日です」

僕は聞き間違えたと思った。

「何年?」

「八年前です」

女性は少し困ったように笑った。

「変な話ですよね」

彼女の名前は、宮下葵といった。

2018年7月22日。

葵は、二十三歳だった。

大学を卒業し、東京の広告会社へ就職する直前。

祖母の暮らすこの町へ、最後の挨拶に来ていた。

祖母から譲り受けた古いカメラで、町の写真を撮った。

海。

商店街。

ひまわり。

夏祭り。

帰る前に、夏目写真館へフィルムを預けた。

その時、店番をしていたのは僕の祖父だった。

「一週間後にできるよ」

そう言われた。

しかし葵は、翌日東京へ戻った。

写真は祖母が受け取る予定だった。

けれど、祖母はその年の秋に亡くなった。

葵も仕事に追われ、写真のことを忘れた。

数年後、実家を片付けた時に、夏目写真館の引換券を見つけた。

今日、八年ぶりに町へ戻り、店へ行こうとした。

けれど、駅を出た瞬間、激しい夕立に遭った。

雨宿りのためバス停へ入ると、ポケットの中に写真が一枚入っていた。

僕が撮影台の前に立っている写真。

会ったこともない僕。

写真の裏。

『2026年7月22日、午後7時32分』

『夏目写真館へ電話してください』

電話番号も書かれていた。

「写真を見せて」

葵が差し出した。

確かに僕だった。

今日着ている灰色のシャツ。

店のカウンター。

後ろのカレンダーには、2026年7月。

僕はカメラを見た。

「フィルムは?」

「入っていません」

裏蓋を開ける。

空だった。

それでも、カメラの巻き上げレバーが勝手に動いた。

かちり。

シャッターが切れる。

誰も触れていないのに。

僕と葵は顔を見合わせた。

その直後、バス停のベンチに写真が一枚落ちた。

防波堤のラムネ。

午後八時四分。

僕が持っている二枚目と同じ写真。

「この写真」

葵が言った。

「私も見たことがあります」

「いつ?」

「八年前」

葵が撮影したフィルム。

その最後の六枚には、撮った覚えのない写真が写っていた。

知らない男性。

閉店しそうな写真館。

海辺のバス停。

二本のラムネ。

屋外映画館。

ひまわり畑。

夏祭り。

そして最後に、僕と並ぶ葵。

祖父は写真を見て言ったらしい。

「未来のフィルムが混ざったね」

葵は冗談だと思った。

祖父は写真を封筒へ入れ、こう続けた。

「写真は、過去だけを残すものじゃない」

「これから起こるかもしれないことも、たまに写したがる」

祖父らしい言葉だった。

祖父は、昔から変な話を真顔でする人だった。

「その写真は、どこに?」

「祖母の家にあるはずです。でも家はもう売りました」

「写真館にも残ってない」

八年前の受付記録を確認すれば、何かわかるかもしれない。

けれど、次の写真の時刻まで三十分しかない。

防波堤は歩いて十五分。

「行ってみますか」

僕は聞いた。

「写真と同じ場所へ」

葵は写真を見た。

「未来の通りに動くんですか」

「確認するだけです」

「映画だったら、絶対に危ないやつですよ」

「恋愛映画かもしれない」

口にしてから、少し恥ずかしくなった。

葵は笑った。

「初対面で、それ言います?」

「写真の中では知り合いみたいなので」

「未来の自分に任せすぎです」

僕たちは、防波堤へ向かった。

雨上がりの町。

軒先の風鈴。

水たまりを飛び越える子ども。

濡れた浴衣を乾かす屋台の人。

明日の夏祭りに向けて、提灯が商店街へ並んでいた。

「夏目さんは、店を継いでるんですか」

葵が聞いた。

「今月で閉めます」

「そうなんですね」

「残念そう?」

「少し」

「今日まで存在も忘れてたのに」

「だからです」

葵は前を見た。

「なくなると知ると、忘れていたことまで急に大切に見える」

その言葉は、店のことを言われているようで、僕自身のことを言われている気もした。

防波堤へ着く。

時刻は午後八時二分。

自動販売機が一台ある。

ラムネは売っていない。

近くの海の家も閉まっている。

写真のような瓶は見当たらなかった。

「やっぱり、写真通りにはならない」

僕が言うと、葵は防波堤の下を指差した。

岩の間に、青い箱が挟まっている。

降りて拾う。

古い木箱。

蓋には、夏目写真館の名前。

中にラムネが二本入っていた。

氷に埋もれ、冷たくなっている。

手紙もあった。

祖父の字。

『未来のお客様へ』

『写真の場所を追えば、正しい未来へ行けると思っていますか』

僕は手紙を読み上げた。

『残念ながら、写真は答えではありません』

『写真は、選んだ瞬間の証拠です』

『同じ景色にたどり着いても、同じ気持ちになるとは限りません』

『だから、無理に写真を再現しないこと』

最後に、

『ラムネは飲んでいい』

と書いてあった。

僕たちは防波堤へ座った。

ラムネの栓を押す。

葵は一度で開けた。

僕はビー玉をうまく落とせず、手のひらが痛くなった。

「下手ですね」

「写真屋なので」

「関係あります?」

「繊細な手なんです」

「工具を持ってましたよね」

ラムネを飲む。

炭酸。

甘さ。

瓶の中でビー玉が鳴る。

海の上には、まだ薄い夕焼けが残っていた。

遠くの入道雲の中で、雷が一度だけ光る。

「東京では、何をしてるんですか」

僕が聞いた。

「先月、仕事を辞めました」

葵は言った。

広告会社で、デザイナーとして働いていた。

嫌いな仕事ではなかった。

自分が作った広告を町で見かけると、嬉しかった。

でも、忙しさの中で、好きだった絵を描かなくなった。

休日も、誰かの商品のために画像を作った。

自分のために何かを作ろうとすると、何を描けばいいかわからなかった。

「辞めて、これからどうするんですか」

「決めてません」

「町へ戻る?」

「それも決めてません」

葵は海を見ながら笑った。

「三十一歳で、何も決めてないって怖いですね」

「僕も三十一で、店を閉めた後のことを決めてません」

「仲間ですね」

「不安定な仲間」

風が吹く。

葵のカメラが、また勝手にシャッターを切った。

かちり。

防波堤に写真が落ちる。

屋外映画館。

午後八時四十一分。

写真の画面には、白いスクリーン。

その中央に、青い文字。

『本当に見たいものを上映してください』

「場所、わかります?」

葵が聞いた。

「旧市民プールの隣にあった、夏限定の映画館」

十年以上前に閉鎖されている。

現在は、草の生えた空き地のはずだ。

僕たちはラムネを持ち、そこへ向かった。

写真を追うことが正しいのかはわからない。

祖父も、無理に再現するなと書いていた。

それでも、もう少し葵と歩きたかった。

理由は、それだけだった。

屋外映画館の跡地には、白いスクリーンが残っていた。

客席はない。

草むら。

錆びた柵。

虫の声。

スクリーンの前に、古い映写機が置かれている。

電源コードはない。

それでも、僕たちが近づくと動き始めた。

かたかた。

白い光。

スクリーンへ映像が映る。

僕の子ども時代。

写真館の暗室。

祖父の背中。

僕は、現像液の中に浮かぶ写真を見ている。

「写真屋になる」

子どもの僕が言う。

祖父は答える。

「なるんじゃなくて、撮る人になれ」

「同じじゃないの?」

「違う」

祖父は言った。

「写真屋は、誰かが撮った写真を仕上げる」

「撮る人は、自分が見たいものを選ぶ」

映像が変わる。

高校生の僕。

カメラを持ち、海や町を撮っている。

コンテストへ応募した写真。

賞は取れなかった。

父から、

「才能がなくても、好きなら続ければいい」

と言われた。

僕はその言葉を、才能がないと言われた部分だけ覚えていた。

大学へ進み、写真をやめた。

店へ戻ったのは、父が腰を痛めたから。

店を継いでからも、自分の写真は撮らなかった。

客の証明写真。

家族写真。

古い写真の修復。

誰かの見たいものを仕上げるだけ。

映像の中の祖父が、こちらを見た。

「悠真」

僕の名前。

「閉めるのは、店か」

「それとも、自分が見たいものか」

スクリーンが暗くなった。

隣を見る。

葵は泣いていた。

彼女の映像も流れたらしい。

「何が見えた?」

「自分のこと」

「僕も」

「便利な答えは?」

「なかった」

「私も」

映写機が止まる。

スクリーンに文章。

『次の写真は、選んだ方だけに届きます』

葵のカメラが光った。

僕のポケットに入れていた写真も熱を持った。

二枚の写真が、同時に地面へ落ちた。

僕の写真。

ひまわり畑に置かれた、葵のカメラ。

葵の写真。

閉店した写真館の前に置かれた、僕のカメラ。

日付は同じ。

午後九時七分。

でも、場所が違う。

どちらかしか選べない。

ひまわり畑は、町の北側。

写真館は、南側。

残り二十分。

「夏目さんは、写真館へ行くべきです」

葵が言った。

「どうして」

「お店を閉める前に、見たいものを決めた方がいい」

「葵さんは?」

「ひまわり畑へ行きます」

「一人で?」

「写真がそう言ってるから」

さっきまで一緒に歩いていたのに。

未来の写真が、僕たちを別の場所へ向かわせようとしている。

「最後の写真では、一緒に店にいた」

僕は言った。

「それを再現したいんですか」

「違う」

本当に違うのか、自信がなかった。

未来の写真に写っていたから、彼女と一緒にいたいのか。

まだ数時間しか知らないのに、本当に会いたいのか。

葵は僕の迷いを見抜いたようだった。

「写真がなくても、私とまた会いたいですか」

その質問に、すぐ答えられなかった。

会いたい。

でも、それが恋なのか。

不思議な夜に興奮しているだけなのか。

未来に選ばれた気分を手放したくないだけなのか。

葵は少し寂しそうに笑った。

「無理に答えなくていいです」

「葵さんは?」

僕は聞いた。

「僕とまた会いたい?」

葵も黙った。

遠くから、祭りの太鼓が聞こえる。

夏の夜。

草の匂い。

映写機が冷えていく音。

「今は、わかりません」

葵は言った。

正直な答えだった。

だから僕も、正直に言った。

「僕も、わからない」

葵は少し驚き、それから笑った。

「未来の写真、役に立たないですね」

「全然」

「じゃあ、別々に行きましょう」

「はい」

「写真のためじゃなくて、自分のために」

僕たちは、映画館の出口で別れた。

葵は北へ。

僕は南へ。

数歩進んで、振り返る。

葵も振り返っていた。

同時に目が合う。

でも、戻らなかった。

僕は写真館へ走った。

午後九時。

商店街は、祭りの準備でまだ明るい。

提灯。

屋台。

店先に並ぶ金魚鉢。

焼きそばのソースの匂い。

写真館へ着く。

シャッターは半分開いたまま。

中へ入る。

祖父の古いカメラを探した。

棚。

暗室。

机の引き出し。

押し入れ。

見つからない。

写真では、カメラは店の前に置かれていた。

外へ戻る。

何もない。

時刻は午後九時六分。

写真の時間まで一分。

僕は店の前に立ち、考えた。

未来の写真を再現する必要はない。

自分が本当に見たいもの。

僕はスマートフォンではなく、店の棚にあった中古カメラを手に取った。

何年も売れ残っていた、古いデジタルカメラ。

電源を入れる。

バッテリーは少ない。

店の外へ向ける。

濡れた商店街。

提灯。

人のいない写真館。

シャッターを押す。

一枚。

久しぶりに、自分が撮りたいと思って撮った写真。

液晶画面に写った店は、寂しそうだった。

でも、なくなるだけの場所には見えなかった。

店の前に、立て看板がある。

明日から貼る予定だったもの。

『閉店のお知らせ』

僕は看板を裏返した。

白い面。

店内からマジックを持ってくる。

文字を書く。

『7月31日で、現在の営業を終了します』

その下。

『8月からは、写真修復と出張撮影のみ予約制で続けます』

完全に閉める必要はない。

店舗を維持できなくても、仕事までやめる必要はない。

誰かの写真を仕上げながら、自分の写真も撮ればいい。

続け方を変える。

そんな簡単な選択肢に、なぜ気づかなかったのだろう。

祖父の声が聞こえた気がした。

『答えが遅い』

「誰の孫だと思ってる」

僕は小さく言った。

時刻は午後九時七分。

カメラが勝手にシャッターを切った。

かちり。

新しい写真が排出口から出てきた。

写真館の前に立つ、僕の後ろ姿。

手にはカメラ。

立て看板。

葵の姿はない。

裏には、

『一人で選んだ未来』

と書かれていた。

少し寂しかった。

でも、その写真を見て、僕は安心した。

葵がいなくても選べた。

不思議な夜が終わっても、残る選択だった。

午後九時十分。

葵へ電話をかけようとした。

番号を知らないことに気づく。

電話は、向こうからかかってきた。

番号非表示。

「もしもし」

『ひまわり畑に着きました』

葵の声。

後ろで、風が花を揺らす音がする。

「何がありました?」

『カメラがありました』

祖母から譲られたカメラとは別のもの。

子どもの頃、葵が初めて使った小さなインスタントカメラ。

祖母が保管していたはずのもの。

カメラの横に、スケッチブックが置かれていた。

中には、幼い葵が描いた絵。

海。

ひまわり。

写真館。

知らない男性。

最後のページには、祖母の字。

『大人になった葵へ』

『あなたは、仕事を辞めてもデザイナーです』

『何も描けない時も、描く人です』

『肩書がなくなっても、好きなものはなくなりません』

葵は電話の向こうで泣いていた。

『私、また絵を描きます』

「うん」

『仕事にするかは、まだわかりません』

「それでいいと思う」

『夏目さんは?』

「店は形を変えて続けます」

『写真も?』

「撮ります」

『未来の写真じゃなくて?』

「今の写真を」

少し沈黙。

遠くで花火が上がった。

電話越しにも音が聞こえる。

僕のいる商店街の空にも、同じ花火が見えた。

「葵さん」

『はい』

「今、会いたいです」

言葉にしてから、心臓が速くなった。

未来の写真に写っていたからではない。

彼女と過ごす未来が決まっているからでもない。

正しい相手だと保証されたからでもない。

数時間話しただけ。

まだ知らないことの方が多い。

それでも今、彼女と同じ花火を隣で見たいと思った。

電話の向こうで、葵が小さく笑った。

『それは、恋ですか』

「わかりません」

『そこは格好よく言うところでしょう』

「正直に言った方がいいかと思って」

『私も、会いたいです』

「恋?」

『まだわかりません』

「同じですね」

『不安定な仲間なので』

ひまわり畑から商店街までは、歩けば二十分以上。

次の写真の時刻は午後九時二十二分。

残り十分。

「間に合わないですね」

僕が言うと、葵は答えた。

『写真に?』

「はい」

『間に合わせなくていいんじゃないですか』

祖父の手紙。

写真は答えではない。

選んだ瞬間の証拠。

「どこで会います?」

『真ん中』

「真ん中?」

『映画館と写真館とひまわり畑の、だいたい真ん中』

そこには、小さな神社がある。

夏祭りの会場。

「神社の鳥居」

『わかりました』

僕たちは電話を切った。

僕はカメラを持ち、写真館を出た。

商店街を走る。

提灯の下。

屋台の間。

浴衣姿の人々を避ける。

蝉の声に、祭り囃子が重なる。

神社へ着いた時、午後九時二十三分になっていた。

写真の時間を、一分過ぎている。

鳥居の下に、葵はいなかった。

僕は息を整えながら待った。

一分。

二分。

祭りの人々が行き交う。

花火が上がる。

赤。

青。

金色。

午後九時二十七分。

「夏目さん」

声。

振り返る。

葵が走ってきた。

白いワンピース。

青い貝殻のカメラ。

片方の靴に泥がついている。

「遅れました」

「僕も」

「写真の時間、過ぎましたね」

「そうですね」

葵のカメラが勝手に動いた。

かちり。

写真が地面へ落ちる。

神社の鳥居。

花火。

二人分の影。

時刻は、

『7月22日 午後9時27分』

未来の写真にあった午後九時二十二分ではない。

五分遅れた、新しい写真。

裏側。

『予定にない夏』

僕たちは顔を見合わせた。

「いい写真ですね」

葵が言った。

「影しか写ってないけど」

「顔はこれから知ればいいです」

「それ、告白ですか」

「まだ初対面なので」

「数時間は一緒にいます」

「では、少しだけ知り合い」

僕はカメラを構えた。

「写真、撮ってもいい?」

「未来の?」

「今の葵さん」

葵は少し迷った。

髪を整えようとする。

途中でやめた。

濡れた前髪も、泥のついた靴も、そのまま。

「どうぞ」

花火を背景に、シャッターを押した。

一枚。

液晶画面には、葵が笑っている。

未来が選んだ顔ではない。

僕が今、残したいと思った顔。

「見せてください」

カメラを渡す。

葵は写真を見て言った。

「少し暗いですね」

「花火に露出を合わせたから」

「写真屋なのに」

「これから練習します」

「撮る人になるんですよね」

祖父と僕の会話を、どうして知っているのだろう。

聞こうとすると、葵は自分のカメラを構えた。

「次は夏目さん」

「僕はいい」

「ずるいです」

「撮られるの苦手なんです」

「写真館の人なのに」

シャッター。

僕は変な顔のまま写った。

「消してください」

「嫌です」

「お客さんの要望は聞かないんですか」

「私は今日から、仕事じゃない写真を撮るので」

葵はカメラを胸に抱えた。

「消したくないものだけ撮ります」

僕たちは祭りを歩いた。

焼きそばを買った。

金魚すくいは、二人とも一匹も取れなかった。

かき氷は、葵が苺。

僕はソーダ。

舌の色を見せ合い、笑った。

数時間前まで、存在も知らなかった人。

未来の写真で先に見つけた人。

でも、写真の通りに恋が始まったわけではない。

予定の場所には行けなかった。

決められた時刻にも遅れた。

未来に写っていた写真館で、二人並ぶこともなかった。

それでも、僕たちは今、一緒に歩いている。

神社を出る頃、最後の花火が上がった。

夜空いっぱいに、白い光が広がる。

葵が言った。

「明日は、どうします?」

「明日?」

「今日だけの相手なら、ここで終わりです」

「終わらせたい?」

葵は首を横に振った。

「写真がなくても会えるか、試したいです」

僕はスマートフォンのカレンダーを開いた。

「7月23日」

「明日ですね」

「午後六時」

「仕事は?」

「店の片付け」

「邪魔になります?」

「手伝ってもらえたら助かります」

「デートが片付け?」

「閉店前なので」

「現実的ですね」

「現実とファンタジーの割合を調整しています」

葵は笑った。

「その後、海へ行きましょう」

「写真を撮りに?」

「撮りたいものがあれば」

予定を入力する。

『葵と写真館の片付け。その後、海』

保存。

「名前に“さん”がない」

葵が画面を見た。

「嫌なら直します」

「嫌とは言ってません」

未来の写真は、もう出てこなかった。

現像機も。

カメラも。

ただの機械へ戻った。

それでよかった。

これから先の写真が、すべて先に見えてしまったら、撮る楽しみがなくなる。

7月22日。

未来の写真に導かれ、知らない人と出会った日。

写真の通りにはならなかった日。

そして、写真に写っていない明日の約束をした日。

恋は、運命の相手を見つけることではないのかもしれない。

わからない相手を、もう少し知ろうと決めること。

未来が保証されていなくても、次の日の予定を入れること。

写真がなくても、その人に会いに行くこと。

商店街の奥で、夏目写真館の看板が見えた。

シャッターは半分開いたまま。

店内の照明は消えている。

ガラス窓に、僕と葵の姿が映った。

六枚目の写真と、少し似ていた。

でも、完全には同じではない。

僕たちは店の外にいた。

立つ位置も違う。

葵は白いワンピース。

僕は汗だく。

二人とも祭りで買った綿あめを持っている。

六枚目の写真にはなかったもの。

葵がガラスへ映る僕たちを見た。

「写真、撮ります?」

僕は首を横に振った。

「今日は、これでいい」

「残さなくていいんですか」

「覚えていられる気がする」

「写真屋なのに」

「写真にしない夏があってもいい」

僕たちはガラスの中で笑った。

店の奥から、祖父の古い現像機が一度だけ鳴った。

うぃん。

店内へ入り、排出口を確認する。

写真は出ていない。

代わりに、細長い紙が一枚。

『撮影準備完了』

その下には、何も書かれていなかった。

これからの日付も。

時刻も。

場所も。

全部、空白。

僕は紙を葵へ見せた。

「次は何を撮ります?」

葵が聞いた。

僕は店の外に広がる夏の夜を見た。

提灯。

花火の煙。

海から来る風。

隣にいる人。

「明日、決めよう」

そう答えた。

先延ばしではない。

明日の午後六時に、もう一度会うと決めたうえでの言葉だった。

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