「バカ」と「度し難し」の似てるところと違うところ
「縁なき衆生は度し難し」から。
テーマの「バカ」は、目立つ人がが批判する対象の小市民。
「衆生」は、仏教の言葉ですね。人に限らず生きている者すべて。
目立つ人の「縁なき衆生は度し難し」の用い方は、
「救えないバカ」と、短絡的に考えている。
「バカっていう奴がバカなんだ」の典型ですねぇ。
これは大した理論を持ってるわけじゃない私みたいな人間だから書くお話。ある意味全方位にケチをつけてしまうお話です。
「縁なき衆生は度し難し」の起源
🤖出典と背景: 主に江戸時代の国学者・平田篤胤の講義録「出定笑語(しゅつじょうしょうご)講本」に根拠があるとされ、必ずしも釈迦の言葉そのもの(直説)ではないとも言われています。
お釈迦様かく語りき、みたいな話をしつつ、出どころは国学者(日本の歴史から語る、神様中心の考え方)という皮肉。
要は、仏教批判的な論調から作られた言葉が独り歩きした。
メジャーどころで、浄土真宗から引っ張る。
🤖浄土真宗の視点: 一方で、阿弥陀仏は「縁がない」と逃げる者すら見捨てず、必ず救う(南無阿弥陀仏の念仏によって縁を作る)ため、
「度し難い」者こそが救いの対象であると説く場合もあります。
本筋では度し難い人こそ救済対象であると言ってると。
ただ、平田篤胤から見ると、「んなわきゃねーだろあほー」をこの言葉で評価した。分かりやすい半面、現代の脱線ルートができちゃった感じなんでしょう。
よし、「バカ」の話をしよ。
これは現代、マイクを握る者たちがよく言うというか、言うのは堀江くらいか。でも、「話にならない奴に話す時間も、もったいない」みたいな態度でしゃべる人、結構いませんか?
これはマスコミにおいてのみにではなく、社会構造で偉い立場にいる人の訓示として、結構実体験があると思います。
私が聞いた経営者のありがたいお言葉でも「縁なき衆上は度し難し」と、悟ったように言ってた。
でも、深掘りすると「おまえが度し難い奴じゃねえか」なんて、ひねくれてしまうわけです。度し難いという人間は、逆サイドからも度し難いと思われてしまっている。
だって、こっちはリアル衆生だし。むしろ「お前には縁がない」と思っているのはこちらの方で、関われないと感じている世界から批判だけ飛んでくる。
ハイそうですかとはならないですよね。それが善意の言葉でも「あれ?」となるのが当然じゃないかなと思います。
まあ、座って聞かされるだけの者に発言権はない世界だったんで。
立場によって変わる言葉の意味
仏教ではみんな救うといった。
国学者は救ってねえと批判した。
マイクを握るものは切り捨てた。
「縁なき衆上は度し難し」という言葉を起点として、方向性はそれぞれ違うよねという事に気づいた。
現代の発言する人は、
「ついてこれない奴はバカだから相手にしない」
という、利己的なニュアンスで使うようになった。
これ自体を批判しても仕方ない。言葉は変わってゆくものです。
「ら」抜き言葉なんて、最近当り前のことになってる。
ただ、その言葉の変遷が、
「発言者の不勉強なのか」
「意図的に都合よく『解釈』しているのか」
これを受け手が判断することで、発言権はなくても、自分の中で評価軸になるんじゃないかな。なんて思って書いてみました。
詭弁への、一つの返し方として
これは議論のすり替えというテーマにも繋がってくるわけですね。
言い負かされそうになったり、テーマではなくて、発言の追いかけっこになった時に、この視点があると、テーマを元に戻すもしくは、その発言の価値を消すことができる。
「なーに都合のいい話に持ってこうとしてんだ、あほー」
なんて暴言はいちゃだめよ!
「その言葉の解釈として、別の考え方もできませんか+自分の解釈」
なんて発言したら面白いかもしれない。
おしまい。
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ノートのメモリ16Gだととても熱いので新調できたらいいなあ…