【短編】捨てる旅の途中で
鬱蒼と茂った森のなか。かろうじて人が通るであろうとわかる細い道を、木漏れ日が照らす。緑が呼吸するだけの世界を、私はどこかへ向かって歩き続けていた。
三度ほど、木々が開けた広場のような場所に出た。そのたび、苔むした大木のそばに腰を下ろした。ビスケットをかじり、水筒のハーブティーで喉を濡らした。二度目の休憩のときに銀色の水筒を忘れてきてしまった。でも、別にそれでも良かった。
どこかへ向かう旅ではなく、離れるための旅だったから。
町外れのあばら屋で文字を書き続けていた日々。寝食の全てをまかなうたった一つの部屋で、月明かりを頼りにペンを走らせる夜は、何にも変えがたい至福の時間だった。昼間さんざん虐めた手足も、書くためならば、ふたたび動くことを厭わなかった。いや、きっと喜んでいた。
ある朝、私は仕事に行かなかった。評価を得られない日々に疲れたのか、ただアイデアが尽きてしまったのか、もはや覚えていない。歩き続けるうちに、噛み砕こうとした葛藤の欠片は、ポロポロと足元に落としてきてしまった。ただ「ここには居たくない」と強く感じてしまった。
森のなかで、フィッシュミントの匂いに誘われた。二度目の広場に忘れてきたハーブティーの香りと同じだった。我が家の庭で育てていたものより、ずっと強い香り。私は小道をそれて、薄暗い森の奥へと足を踏み入れた。
そこに現れたのは、小さな街だった。
背丈ほどの高さに石が積み上げられた城壁。その途切れた囲いの前に、門番と思われる男がひとり、佇んでいた。
「旅の方ですか。ここは『真実の街』です。この街では、嘘や作り話を言ったり書いたりすることは禁じられています。一度入ると二度と出ることはできませんが、お入りになりますか?」
実に魅力的な提案だった。この街に住めば、物語を上手く書けるかどうかで人の価値を測られることはない。どうせ私の物語は、これからも評価されることはない。だが、ひとつの思いが湧き起こってくる。あの長く住んだ街ではダメだったが、もしも違う街だったら……。
たっぷりと悩んだ挙句、私はその男の提案を断った。
「いいえ。やめておきます」
「そうですか、残念です」
「近くに他の街はありますか?」
「そうですね。私は街を出たことはありませんが、向こうからたまに旅人がやってくることがあります」
男は、さらに森の奥の方を指差す。そこには、小道からここまで歩いてきた道より、もっと暗くて深い森が広がっていた。ポケットのなかに忍ばせてきたお気に入りのペン。私はその真ん中に一度だけ触れ、門番の男に礼を告げると、森の奥へと歩き出した。
しばらく歩くと、中くらいの街が見えてきた。
家の屋根ほどの高さに石が積み上げられた城壁。その途切れたところに、門番と思われる男がひとり、佇んでいた。
私に気づいた男は無言で一枚の紙を差し出す。そこには異様なまでに整った文字で、こう書かれていた。
『旅の方ですか。ここは『証しの街』です。この街では、口頭でやりとりすることは禁じられています。全てのことは形に残るやりとりをするよう決められています。一度入ると二度と出ることはできませんが、お入りになりますか?』
文字だけが語る街。以前の私であれば喜んで入っただろう。だが、それだけで生きていくことができずにあの街を飛び出した。私はポケットからペンを取り出し、その紙の余白に『先へ行きます。ありがとう』と書き込んだ。
男は黙って頷くと、森の奥を指差した。
私は迷わずそちらの方へと歩を進めた。もはや陽が傾いていたが、昼間でも暗い森のなかだ。目を凝らせば月明かりを頼りに歩けないこともない。それよりも、あのミントの香りが私を次の街へと導いてくれた。
やがて、大きな街が見えてきた。
もはや、夜の空に溶け込んだかのような、高くて真っ黒な城壁。その途切れた場所に、門番と思われる男が俯いて立っていた。
男は私に気づき、一瞬、その手の槍を持ち上げたが、すぐにそれを下ろした。
「こんな夜更けに、旅をされている方ですか。ここは『愚かな街』です。王の命により、文字を書いたり読んだりすると、死刑になることが法律で定められております。一度入ると誰かの代わりでしか出ることができません。お入りになりますか?」
「文字を使うと死刑になるのですか?」
「ええ、私の両親も処刑されました。お願いです。私の代わりに入っていただけませんか? 両親との思い出を紙に書いておきたいのです」
ポケットのペンを握りしめる。
「……いいえ、入れません。代わりになることもできません」
私の言葉に、門番の男は絶望の表情を浮かべ、力なく肩を落とした。しかし、私はその男の肩を強く掴み、真っ直ぐに目を見つめて言った。
「ですが、あなたの話をここで聞かせてください。あなたの名前も、ご両親との思い出も、あなたが流した涙も、全て私が持ち帰り、文字にします。世界中の人が読む本にして、この街の愚かさと、あなたの愛を証明してみせます」
男は目を見開き、やがて溢れる涙を拭いもせず、絞り出すように両親との記憶を語り始めた。私はポケットのペンを握りしめ、その言葉の温もりと痛みを、魂に刻み込むように聞き入った。ーー門の外で。
夜が明ける頃、私は男に深く頭を下げ、来た道を通り「元の街」へと引き返した。
あの場所に、水筒はなかった。
(了)
