【メモ】どこまでホント!? ことわざ辞典
『門前の子象、並ばず今日も得る』
誰もが知っているこのことわざ。子供でも象のように大きな者は、並ばずとも弱者を抜かして食事を得ることができる。たとえ子供であっても鍛えることで人を出し抜くことができるというモラルの欠片もないことわざである。
最近では「環境が人を育てる」といった誤用がされることがあるが、「体格こそ全て」と説いた過去の人たちからすると、モラルで飯が食えるか! と叱責されるかもしれない。
ジャイアン的論理がまかり通っていることわざだが、過去の凄惨な事件が元になっていることを知っている者は少ない。実は反面教師的に作られたこの言葉の本来の意味を今一度世に広く知らしめるたい。いま、世界で起きている大国の正義の履行が、はたして世界の正義となり得ているかを問いたいのだ。
ときは1600年。インドはムガル帝国の第三皇帝アクバルの統治下にあった。世界のGDPの25%を占めた当時のインドは英国の規模をも凌ぐ勢いで、主力の綿織物は世界中へ輸出されていた。
首都アグラ(現在のインド北部アーグラ)に、ヘソノゴーマという大変裕福な商人が住んでいた。彼は”富める者は与えよ”をモットーとしており、毎日炊き出しをしては雨風凌ぐ家すらない者たちに分け与えていた。
ところが、あるときより屈強な子象が炊き出しの時間に現れるようになり、列を成した人たちを蹴散らして食料を全部平らげるようになった。貧しき者たちはヘソノゴーマに訴えたが、当時のインドでも現在と同じく象は神聖な生き物として丁重に扱われており、象のすることに逆らうことはできなかった。
毎日毎日、並びもせずに食を得て帰っていく屈強な子象。飢えを加速させる貧しき民たち。象を愛するアクバル帝を恐れ手を下せないヘソノゴーマ。そこへ貧しき民の中から一人の男が立ち上がった。首都アグラからほど近いシークリー村の若者チョトマテーヤである。
チョトマテーヤは子供とはいえ象を抑える力を得るため、多くの貧しき民たちからほんの少しずつ”元気”を分けてもらった。ひとつひとつは僅かであったが、その数が万を超えたとき、空に大きな光る球体を召喚させた。
そして民の怒りが地面へ落ちたとき、子象は一度だけ優しく微笑み、覚悟を決めたように空を見上げた。
ーーが、元気の玉はわずかに門前の子象を外れ、ヘソノゴーマの屋敷を直撃した。燃え盛る炎、屋敷から響く召使たちの悲鳴。チョトマテーヤは密かに村へと逃げ帰った。
これが有名な『チョトマテーヤの誤射』である。
後日、首都アグラを訪れた者の話によると、子象はそれでも並んでいなかったとのこと。
で……、いま何の話してましたっけ?
