【短編】潮風の口癖
海の見えるカフェだった。白いテラス席の向こうで、冬の海が静かに揺れている。波の音は思っていたより小さくて、遠くで誰かがページをめくっているみたいだった。
早苗は紅茶を一口飲み、スマホを見る。晴子からは『五分遅れる!』とだけ来ていた。昔からそうだ。待ち合わせの十分前には「着いた?」と連絡してくるくせに、本人はだいたい遅れる。
海を見ていると、去年のことを思い出してしまう。
トモキは海で死んだ。
事故だった。夏の終わり、沖で溺れた子どもを助けようとして、そのまま帰ってこなかった。ニュースでは「勇敢な行動」と言っていたけれど、早苗はその言葉が嫌いだった。勇敢じゃなくていいから、生きていてほしかった。
カップの縁を指でなぞる。冬の海は綺麗だ。でも、綺麗なものほど残酷だと思うことがある。
「隣、いいですか?」
顔を上げると、男が立っていた。二十代後半くらい。黒いコートに、少し癖のある髪。知らない顔だった。
「ナンパなら他でやってください」
早苗が言うと、男は「あ、バレた」と笑った。その笑い方が妙に自然で、少しだけ調子が狂う。
「でも本当に、席空いてないんですよ」
店内を見ると、たしかに混んでいた。カップルと観光客で埋まっている。早苗は少し迷ってから、「どうぞ」とだけ言った。
男は「ありがとうございます」と頭を下げて座る。座るとき、椅子を引く癖がトモキに似ていた。ガタン、と少し大きな音を立てるところまで同じだった。
「よく来るんですか、ここ」
「たまに」
「海、好きなんですね」
「嫌いです」
自分でも少し驚くくらい、即答だった。
男は「そっか」と言って、それ以上は聞かなかった。その間の取り方が、また少し似ている。
ウェイターが来て、男はコーヒーを頼んだ。ブラックで、と付け足すところまで、変に引っかかる。
「なんか俺、嫌われました?」
「別に」
「その顔、別にって顔じゃないですよ」
早苗は少しだけ笑ってしまう。トモキもよく同じことを言っていた。沈黙が落ちる。けれど居心地は悪くなかった。波の音と食器の触れる音が、会話の隙間を埋めていく。
「海ってさ」
男が窓の外を見ながら言う。
「大事なもの、持っていくときありますよね」
早苗の指が止まる。
「……なんですか、それ」
「いや、なんとなく」
コーヒーが運ばれてくる。男は砂糖もミルクも入れずに口をつけた。そして苦そうな顔をする。
「……苦っ」
その口癖を聞いた瞬間、胸の奥が強く鳴った。
トモキも同じだった。見栄を張ってブラックを頼んで、結局「苦っ」と笑う。子どもみたいな人だった。
早苗は男の顔を見る。でも、やっぱり知らない顔だった。目元も、声も違う。ただ、仕草の断片だけが、記憶に触れてくる。
「……タカユキさん、でしたっけ」
「はい」
「私たち、どこかで会いました?」
「どうでしょう」
男は曖昧に笑う。その笑い方まで、少しだけ似ている。
風が吹く。テラスの向こうで、白い波が崩れる。トモキと最後に会った日も、こんな風が吹いていた気がした。
「人って、急にいなくなるんですね」
気づけば、そんなことを言っていた。
男は少しだけ黙ってから、「そうですね」と答えた。
「でも、急に現れることもありますよ」
その声が、妙に優しかった。
早苗は俯く。涙は出なかった。ただ、胸の奥に固まっていた氷みたいなものが、少しだけ緩む感覚があった。
そのとき、後ろから声がした。
「ごめん早苗! 電車乗り遅れた!」
晴子だった。大きく手を振りながら近づいてくる。早苗は慌てて顔を上げた。
「あ、晴子――」
言いかけて、止まる。
向かいの席には、誰もいなかった。コーヒーカップもない。椅子も、最初から空いていたみたいに静かだった。
「どうしたの?」
晴子が不思議そうに聞く。
「いや……ここに男の人、いなかった?」
「え? 最初から一人だったじゃん」
早苗は言葉を失う。波の音だけが聞こえる。さっきまで確かに誰かがいた場所に、潮風だけが残っている。
晴子はメニューを開きながら、「また海見てたの?」と笑う。
早苗は返事をしない。
窓の外を見る。冬の海は、何も知らない顔で揺れている。
テーブルの上には、自分の紅茶だけが残っていた。けれど、向かい側の席から、ほんの少しだけブラックコーヒーの匂いがした気がした。
早苗は小さく息を吐いて、カップに手を伸ばす。ーー潮風が髪を揺らす。
それはほんの少しだけ懐かしく、胸の中の黒い海にミルクを垂らした。
(了)
