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【短編】昨夜、春が壊れた。

 それは午前二時、誰もが微睡みの底に沈んでいる時間だった。

 この惑星「ソクラテス」を管理するメインコンピュータ「アルキメデス」の奥深くで、たった一行のコードが、まるで静かな湖面に投げられた小石のように波紋を広げた。

 機構プログラムの一端に生じたバグは、修正される間もなくシステム全体へと波及し、一つの季節を丸ごと飲み込んでしまった。

 地球を模したこの移民惑星において、季節とは天体運動の結果ではなく、アルキメデスによって与えられる演算結果であり、守られるべきプログラムだ。それが、不格好なエラー音さえ立てずに消失した。

 研究者たちの足音や怒号が響く管制セクションとは対照的に、宇宙が見える展望デッキは静まり返っていた。

 ノゾミとヒカリは、冷たい強化ガラスの向こう側に広がる暗闇を眺めていた。そこには無数の星々が、まるで誰かがぶちまけた砂糖菓子のように散らばっている。

「ねえ、春がなくなったってことは、もう『春のパン祭り』も開催されないのかな」

 ヒカリが、手すりにもたれかかりながら言った。彼女の指先は、実体のない星の位置をなぞっている。

「どうだろう。シールを集める楽しみがなくなるのは、ソクラテスの住民にとって最大の損失かもしれないね。白いお皿が届かない春なんて、ただの長い余白だよ」

 ノゾミは短冊のような細い声で答えた。彼女の声は、真空を伝わる振動のようにどこか無機質で、それでいて繊細な響きを帯びていた。

 昨夜までは、確かに春の気配があった。

 人工芝には淡いピンク色のホログラムが舞い、空調は肌を撫でるような柔らかな微風を再現していた。花や虫が色めきだち、人々は薄手のコートを羽織って、来るべき夏への予感を楽しんでいたはずだった。

 けれど今、展望デッキの気温設定は冬のそれへと引き戻されている。アルキメデスが季節の欠落を埋め合わせるために、暫定的な冷気を送り込んでいるのだ。

「春服、買わなくてよくなっちゃったね。先週、駅前のモールで買ったばかりのミントグリーンのカーディガン、一度も袖を通さないままクローゼットの肥やしだよ」

「効率的ではあるよね。衣替えの手間が省けるし、花粉症の薬も売れなくなる。経済のバランスは、きっと夏が無理やり埋めることになるんだろうけど」

「ノゾミはいつもそう。感情より先に数字の話をする。もっとこう、胸の奥がキュッとするような喪失感とかないわけ?」

 ヒカリは唇を尖らせた。その表情は、失われた季節への未練というよりは、お気に入りの玩具を壊された子供のそれに近かった。

 バグは残酷だ。そこにあったはずのものが「なかったこと」にされるだけだ。

 心の中にあったはずの小さな暖炉の火が、誰かのうっかりした靴音によって踏み消されたような、そんな乾いた手触り。

「春がなくなるとさ、何が一番なくなると思う?」

 ヒカリが問いかける。

「風情、とか?」

「もっと具体的だよ。例えば……卒業式。サクラが咲かない卒業式なんて、ただの解散式じゃない。お別れの切なさが、湿っぽくならないのはいいかもしれないけど」

「確かに。春は、何かを終わらせて、何かを始めるための『執行猶予』みたいな季節だったから。それがなくなると、私たちは唐突に、終わる間もなく次の場所に放り出されることになる」

 展望デッキの向こう側、漆黒の宇宙に浮かぶ惑星ソクラテスの地平が見える。巨大な球体。自分たちが生きている場所が、アルキメデスという箱の中のシミュレーションに過ぎないことを、こんな夜には痛いほど実感させられる。

 研究者たちは今頃、バックアップファイルを必死に漁っているだろう。けれど、一度壊れた「春」が、以前と全く同じ手触りで戻ってくる保証はない。戻ってきたとしても、それは精巧に書き直された、どこか他人行儀な春に過ぎないのだ。

「いいよ、もう。夏が来れば、全部暑さで誤魔化せるから」

 ヒカリはそう言って、展望デッキの冷たい空気を深く吸い込んだ。

「かき氷を食べて、セミの声を聞いて、日焼け止めを塗って。そうすれば、春を忘れたことすら忘れる日が来るよ。人間って、そういう風にできてるんでしょ?」

「そうだね。忘れることは、この惑星で生き抜くための最高の機能。私たちは、上書きされることに慣れてる」

 二人の少女は、しばらく黙ったまま、終わりのない暗闇を見つめていた。足元から伝わる重苦しい振動が、アルキメデスの復旧作業が難航していることを告げている。

 窓の外、遠くの恒星が瞬いた。それは春の光でも、夏の予感でもなく、ただ数十万年前の、既に死に絶えた光の残滓だった。

 クローゼットに眠るミントグリーンのカーディガン。

 集められることのなかったパン祭りのシール。

 言い出せなかった、春特有の柔らかい告白。

 それらはすべて、バグという名の不可視の穴に吸い込まれ、二度と誰の手にも触れられることはない。

 ソクラテスの夜は更けていく。夏を迎える直前の、ひどく冷え切った、名もなき季節の断片の中で。

(了)


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