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「死」を考えることは、どう生きるかを考えること。


今日、とあるトークイベントに参加した。

テーマは「ケア」。

そこで印象に残った言葉がある。

「ケアとは、医療や介護だけの話ではなく、
人は誰しも、人によりかかって生きる弱い存在
だということが前提に成り立っている」


そのあと、実践として
お寺で行われる「ものの供養」の話になった。

思い入れのある物を、手放すこと。
別れの手紙を書いて、魂抜きの儀式をして
その物をフラットな視点で見れるようにしてから
再利用について考えること。

その延長に、
自分たちの「終わり」についても考える、
カジュアルな場所。

実際に、大阪のとあるお寺で
そんなワークショップが開かれた話を
聞いた。

私はいま、急性期病院で、
がん患者さんと関わることが多い。

医療の進歩は目まぐるしく
病状が進んでも、
次の治療、その次の治療と、
できることが増えていく。

それはとても大切なことだ。

でもその一方で、
治療についてはたくさん話し合うのに、
人生の最後をどう生きるか、
そんな問いをゆっくり話す時間は
全然足りていないような気がする。

死について考えることは、
どこか縁起が悪くて、
タブーのような空気さえある。

だから気づけば、死について十分に話せないまま、病院で最期を迎える人もいる。

今日、お寺でのワークショップの話を
聞きながら、思った。

病気になってからではなく、
もっと元気なうちから、
もっと日常の中で。

死について話せる場所が
あったらいいのではないか、と。

でも、それは「死ぬ準備をする場所」ではない。

死について考えることは、
どう生きるかを考えること。

今日あらためて、そう感じた。


今、大切にしたいものは何だろう。
誰と時間を過ごしたいだろう。

人生が有限だと知っていたら、
今日という一日をどう生きたいだろう。

そんなことを、お茶を飲みながら、
時にお酒をたしなみながら、
ゆるやかに話せる場所。

医療者だから話すのではなく、
患者だから話すのでもなく、

一人の人として、
「生きること」を話せる場所。

そんな場を、いつかつくってみたいと思った。

まだ何も形にはなっていない。

でも今日、その小さな種を
ひとつ受け取った気がする。

だからまずは、
この気持ちを忘れないように
書いておこうと思う。

今日参加したイベントは
デリカデッサンというスタジオで開催された。
私の好きな、京都のデザイナーの
平野拓也さんが主催する、
事務所の一角で行われたイベントだった。

なぜ、看護師である私が、
デザイナーである平野さんのことを
知ることがあったのか、
それはまた今度、書こうと思う。

まずは、今日。
美味しいお酒を飲んで、
疲れた体を癒しながら、
このnoteを書いている。

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