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「ウツワが大きい・ウツワが小さい」って、そもそも何なの? ―― 場の揺れに耐えるための感情資本について ――

1. 「ウツワ」とは、何を指しているのか

「ウツワが大きい人」
「ウツワが小さい人」

こういう言い方があります。

小さなことで怒らない人は、ウツワが大きい。
少し軽く扱われただけで不機嫌になる人は、ウツワが小さい。
人の粗さを受け止められる人は、ウツワが大きい。
少しの不公平に耐えられない人は、ウツワが小さい。

なんとなく意味はわかります。

たぶん、ここで言われているのは、単なる性格の良し悪しではありません。

もっと近いのは、感情の許容量です。

どれくらいの揺れを受け止められるか。
どれくらいの不満を、すぐ返さずに持てるか。
どれくらいの非優遇を、すぐ人格否定として処理せずにいられるか。

そういう容量のことを、私たちは「ウツワ」と呼んでいるのだと思います。

ただ、この言葉は便利なぶん、少し曖昧です。

ウツワが大きいとは、何が大きいのでしょうか。

我慢強さでしょうか。
優しさでしょうか。
鈍感さでしょうか。
余裕でしょうか。
それとも、場の中で発生する感情支出を、一時的に抱えられる資本のことでしょうか。

私は、最後の見方がかなり大事だと思っています。

ウツワとは、単に怒らない性格のことではない。
場の中で発生する感情会計をどれくらい読めるか。
そして、場の揺れで感情破産しないだけの心理的バッファを持てるか。

そのあたりに関係するものではないかと思います。

もちろん、もともとの性質は関係します。

軽く扱われることに傷つきやすい人もいる。
外部評価に強く反応する人もいる。
感情の波に飲まれやすい人もいる。
払ったものがすぐ返ってこない状態に耐えにくい人もいる。

そういう性質が、ウツワの形成にそのまま関係することは多いと思います。

ただ、それだけで終わらせると、少しもったいない。

ウツワを「生まれつきの余裕」や「人間の大きさ」だけで見ると、場の中で何が起きているのかが見えにくくなります。

この論考では、ウツワを人格の立派さではなく、場に参加するための感情資本として考えてみます。

2. 「軽く扱われた」と感じる場面は、たしかにある

少し後回しにされた。
発言を拾われなかった。
別の人が優先された。
自分への返事だけ薄かった。
あの人には甘いのに、自分には厳しい。

こういうことは、普通に傷つきます。

「そのくらい気にするな」と言われても、気になるものは気になる。
自分だけ薄く扱われたように感じる場面は、たしかにあります。

まず、そこは否定しないほうがよいと思います。

ただし、ここで止まると、話が少し単純になります。

なぜなら、場の中で人がどう扱われるかは、いつも一対一の公平な取引として決まっているわけではないからです。

自分はこれだけ気を遣った。
だから、自分にも同じだけ丁寧に返してほしい。

この感覚は自然です。

しかし、場は「払った分だけ、払った相手から返ってくる」モデルでは動いていません。

ここを知らないまま場に入ると、かなり苦しくなります。

3. 場には、社会インフラとは別に感情インフラがある

場には、インフラがあります。

たとえば、当番制。
役割分担。
司会。
議事録。
会費。
スケジュール。
連絡網。

こういうものは、比較的わかりやすいインフラです。

誰が何を担当しているのか。
誰がどの作業を引き受けているのか。
どこに負担が発生しているのか。

ある程度、目に見えます。

もっと広く見れば、社会も一つの場です。

私たちは、社会という大きな場の中で暮らしています。
その場を成立させるために、さまざまなインフラがあります。

たとえば、ゴミ収集があります。

私たちはゴミを出します。
すると、誰かがそれを集めてくれます。

収集されなければ、街はすぐに汚れていきます。
臭いも出る。
衛生も悪くなる。
人が安心して暮らせる場ではなくなっていく。

だから、ゴミを収集する仕事は、社会という場を下支えしています。

しかし、ゴミを収集する人が、毎回一人ひとりから直接感謝されているわけではありません。

私たちは、その仕事に支えられている。
でも、その支えを日々強く意識しているわけではない。
きちんと機能しているほど、むしろ見えにくくなる。

場の感情インフラも、これに似ています。

誰かが言い過ぎたときに、場を少し戻す。
初めて来た人が話しやすいようにする。
不機嫌をそのまま伝播させない。
軽い失敗を、すぐ恥にしない。
発言が浮いた人を、完全には孤立させない。
対立が起きそうなところで、少し言葉を丸める。

こういう働きは、役割表には載りません。

しかし、これがないと、場は場として成立しにくくなります。

コミュニティで考えると、わかりやすいかもしれません。

会場を押さえる人がいる。
日程を調整する人がいる。
連絡を回す人がいる。
会費を集める人がいる。

それでも、新しく来た人が話に入れなかったらどうでしょうか。
常連だけで盛り上がっていたらどうでしょうか。
誰かのミスが、ずっといじられ続けたらどうでしょうか。
発言の強い人だけが、場を支配していたらどうでしょうか。

物理的には集まっている。
予定もある。
連絡網もある。

でも、それはもう、参加したい場ではなくなっていきます。

感情のやり取りが発生する場は、見えないところで誰かに下支えされています。

その人がいなければ、場は荒れる。
誰かが黙る。
誰かが来なくなる。
誰かが安心して話せなくなる。

場が場として意味を持つには、そこにいる人が、ある程度安心して参加できる必要があります。

その安心は、自然発生しているように見えます。
しかし実際には、誰かが維持しています。

感情インフラとは、その見えにくい維持のことです。

4. 感情インフラは、払った分だけ返ってくるものではない

ただし、この感情インフラは、払った分だけ本人に返ってくるものではありません。

誰かが場を荒らさないように言葉を丸めた。
誰かが初参加の人を拾った。
誰かが不機嫌を飲み込んだ。
誰かが対立になりそうな言葉を少し和らげた。
誰かが浮いている発言を、完全に孤立しない形で受け止めた。

そのおかげで、場は壊れずに済む。

しかし、その人に向かって、毎回きちんと感謝が返ってくるわけではありません。

むしろ、うまくいったときほど何も起きません。

誰も怒鳴らなかった。
誰も黙り込まなかった。
誰も退場しなかった。
誰も恥をかかされなかった。
誰もその場を嫌いにならなかった。

ただ、場が普通に続いた。

この「普通に続いた」という状態を作るために、誰かが見えないコストを払っていることがあります。

けれど、その支払いは観測されにくい。

何かが起きれば、原因は見えやすい。

誰かが怒った。
誰かが傷ついた。
誰かが場を壊した。

しかし、何も起きなかったことには、原因が見えにくい。

誰かが怒らずに済んだ。
誰かが傷つかずに済んだ。
誰かが発言を続けられた。
誰かがまた来ようと思えた。

そういう「起きなかったこと」は、成果として数えられにくい。

だから、感情インフラの維持費は見えにくい。

払った分が目に見えなくても、誰かはコストを負担しています。

ここを見落とすと、

自分は払ったのに返ってこない。
自分だけ軽く扱われている。
自分ばかり損をしている。

という感覚が強くなります。

もちろん、本当に損を押しつけられている場もあります。
返ってこない場もあります。
特定の人にだけ維持費を払わせる場もあります。

それは、離れたほうがよい場かもしれません。

ただし、感情インフラが払った本人に直接返ってこないこと自体は、場の異常ではありません。

感情インフラは、場全体を成立させるための支払いだからです。

その支払いは、場の安定として現れる。
発言しやすさとして現れる。
また来てもよいと思える空気として現れる。
信用として、あとから回ってくることもある。

返ってこないのではなく、返り方が一対一ではない。

ここを読めないと、場の感情会計をかなり誤解してしまいます。

5. ウツワが大きい人は、高い固定資産税を払っている

ここで、ウツワが大きい人について考えてみます。

ウツワが大きい人は、社会的には求められます。

場を壊さない。
人の粗さをすぐ裁かない。
不機嫌をそのまま返さない。
若手や弱い立場の人が話せる余白を作る。
対立しそうな場面で、少し引き受ける。

こういう人がいると、場は安定します。

だから、周囲からは評価されやすい。
頼られやすい。
大事にされやすい。
発言も拾われやすい。

社会的には、かなり価値があります。

しかし、本人にとってそれが得かどうかは別です。

ウツワが大きい人は、大きな家を持っている人に似ています。

大きな家は便利です。
人を呼べる。
物を置ける。
いざというときに避難場所にもなる。

しかし、その分、掃除も管理も必要になります。
固定資産税も高くなります。

ウツワが大きい人も同じです。

誰かの不機嫌をすぐ返さない。
粗い発言を、そのまま衝突にしない。
初めて来た人が話しやすいようにする。
場が荒れそうなところで、少し引き受ける。
誰かの失敗を、すぐ恥にしない。

これは、場の固定資産税です。

しかも、この支払いは見えにくい。
うまくいったときほど、何も起きないからです。

誰も怒鳴らなかった。
誰も黙り込まなかった。
誰も退場しなかった。
話し合いが、なんとなく続いた。

それは、自然にそうなったように見えます。
しかし実際には、誰かが場の揺れを受け止めていたのかもしれません。

もし、その支払いがまったく埋め合わされなければ、ウツワが大きい人だけが損をします。

だから場は、どこかでその損を埋め合わせようとします。

その人の発言を少し拾いやすくする。
その人の都合を少し汲む。
その人の粗さを少し流す。
その人に裁量を渡す。
その人を場の中で少し厚く扱う。

これは、外から見ると優遇に見えます。

もちろん、本当にただの贔屓もあります。
好き嫌いによる優遇もあります。
派閥や権力による不公平もあります。

それは分けて考えたほうがよい。

ただし、すべての優遇が、単なる不公平とは限りません。

場に多く支払っている人がいるなら、その損を少し埋め合わせるために、場がその人を厚く扱うことはあります。

6. 優遇と非優遇は、波のように現れる

問題は、優遇が発生すると、同時に非優遇も発生することです。

誰かの発言を先に拾えば、別の誰かの発言は後回しになります。
誰かの都合を汲めば、別の誰かの都合はそこまで汲まれません。
誰かの粗さを流せば、別の誰かから見ると「あの人だけ許されている」と見えます。

優遇と非優遇は、表裏です。

誰かが厚く扱われる場面では、誰かが相対的に薄く扱われます。

ただし、優遇と非優遇は、固定されたラベルとして現れるとは限りません。

この人はいつも優遇される。
この人はいつも非優遇される。

もちろん、そういう場もあります。
それはかなり歪んだ場です。

しかし、多くの場では、優遇と非優遇はもっと波のように現れます。

ある場面では、誰かの発言が優先される。
別の場面では、自分の事情が少し汲まれる。
今日はあの人の粗さが流される。
明日は自分の遅れが許される。
今回は誰かが支えられる側に回り、次回はその人が支える側に回る。

場の中では、厚く扱われる瞬間と、相対的に薄く扱われる瞬間が入れ替わりながら発生します。

波がある。

問題は、その波の一つひとつを、固定的な評価として読んでしまうことです。

少し後回しにされた。
だから、自分は軽く見られている。

誰かが先に拾われた。
だから、自分は大事にされていない。

誰かの粗さが許された。
だから、自分だけが損をしている。

こう読んでしまうと、場の中で起きている一時的な波を、自分への最終評価として受け取ってしまいます。

しかし実際には、それはその場面での濃淡にすぎないことがあります。

もちろん、波ではなく、ずっと一方的に薄く扱われ続けるなら、それは別です。
それは感情会計ではなく、単なる搾取や軽視かもしれません。

ただ、多くの場では、扱いの濃淡は固定ではなく、揺れとして現れます。

その揺れを読めるかどうかが、場に参加できるかどうかを分けます。

7. ウツワが小さいとは、短期精算しかできないこと

ここまで見ると、ウツワが小さいという言葉の意味も少し変わってきます。

ウツワが小さいこと自体は、本人にもある程度わかっている場合があります。

自分は細かい扱いに傷つきやすい。
少し後回しにされると、すぐ気になる。
誰かが優先されると、自分が軽く扱われたように感じる。
感謝が返ってこないと、損をしたように感じる。

そういう自覚がある人もいると思います。

ただ、自分のウツワが小さいことによって、どんな問題が発生しているのかは見えにくい。

単に「自分は傷つきやすい」とは思う。
単に「周囲が雑だ」とは思う。
単に「自分は大事にされていない」とは思う。

しかし、それによって何が起きているのか。

参加できる場が狭くなっている。
人から本音を言われにくくなっている。
少し扱いが薄くなるだけで、その場にいられなくなっている。
長期的には戻ってくるかもしれない信用を、短期の損失として切ってしまっている。
優遇と非優遇の波を、すべて自分への評価として読んでしまっている。

ここは、かなり見えにくい。

問題は、ウツワが小さいことそのものではなく、その小ささによって発生している損失を本人が会計できないことです。

ウツワが小さいとは、感情会計を短期でしか精算できないことです。

少し後回しにされた。
すぐに、自分は軽く扱われたと感じる。

発言が拾われなかった。
すぐに、自分は大事にされていないと感じる。

誰かが優先された。
すぐに、自分は負けたと感じる。

その場で返ってこない支払いを、すぐ損として確定する。
一時的な非優遇を、自分への最終評価として受け取る。
場の波を、波として持てない。

これが、ウツワの小ささとして現れることがあります。

これは、乱高下する市場に少ない資本で入るようなものです。

少し下がっただけで、耐えられない。
少し含み損が出ただけで、退場したくなる。
長期で見れば戻るかもしれないのに、その前に感情資本が尽きてしまう。

場の側から見ると、一時的な波でしかない。
しかし本人の中では、すぐに確定損になる。

こうなると、参加できる場がどんどん狭くなります。

8. ウツワを大きくする理由は、それほどない

ここまで書くと、ではウツワの大きな人になればよいのか、という話になりそうです。

しかし、私はあまりそうは思いません。

個人目線で見れば、ウツワの大きな人になる理由は、それほどありません。

ウツワが大きい人は、場を広く受け止められます。
誰かの不機嫌をすぐ返さない。
粗い発言を、すぐ衝突にしない。
場が荒れそうなところで、少し引き受ける。

それは、場にとってはありがたいことです。

しかし、本人にとっては負担でもあります。

大きな家を持てば、固定資産税が高くなります。
掃除も増えます。
管理する範囲も広がります。

ウツワも同じです。

大きければ大きいほど、他人の感情や、場の揺れや、言葉にならない負担を抱え込みやすくなる。

それを美徳として称えることはできます。
しかし、本人にとって得かどうかは別です。

だから、ウツワは大きければ大きいほどよい、という話ではありません。

ただし、逆もあります。

ウツワが小さすぎると、社会生活に支障が出ます。

どの場にも、多少の優遇と非優遇の波があります。

家庭にもあります。
職場にもあります。
学校にもあります。
友人関係にもあります。
趣味のコミュニティにもあります。

常に自分が丁寧に扱われるわけではない。
常に自分の発言が拾われるわけではない。
常に自分の事情が最優先されるわけではない。

誰かが厚く扱われる瞬間もある。
自分が相対的に薄く扱われる瞬間もある。

そのすべてを「軽んじられた」と受け取ると、参加できる場が極端に狭くなります。

ウツワの大きい人と同じ場にいられる必要がある、という話ではありません。

ただ、どの場にも参加できないほどウツワが小さいと、社会生活に支障が出る。

ここまでは言えそうです。

9. 外部評価に依存しているほど、苦しくなる

ここで、もう一つ厄介なねじれがあります。

ウツワの大きい人は、社会的には評価されやすい。
頼られやすい。
大事にされやすい。
場の中心にいるように見えやすい。

すると、外部評価が自分の価値のほとんどだと感じている人ほど、ウツワの大きい人に憧れやすくなります。

あの人は大事にされている。
あの人は頼られている。
あの人は多少の粗さも許される。
あの人は場の中で厚く扱われている。

そう見えるからです。

しかし、ウツワが小さいままその場に入ると、かなり苦しくなります。

その人が少し厚く扱われる。
その人の発言が先に拾われる。
その人の粗さが流される。
その人の都合が汲まれる。

それを見るたびに、自分が軽く扱われたように感じる。

でも、その厚遇の裏には、その人が払っている固定資産税があるかもしれません。
その人が普段から場を支え、感情インフラを維持し、多くの見えない損を引き受けているのかもしれません。

そこが見えないと、ウツワの大きい人は「ずるく優遇されている人」に見えます。

そして、自分は「不当に薄く扱われている人」に見える。

この状態になると、かなりつらい。

憧れている相手がいる。
でも、その相手がいる場では、自分の非優遇感が刺激され続ける。
同じ場に存在することすら難しくなる。

これは、単に嫉妬深いとか、性格が悪いという話ではありません。

外部評価を強く必要としているのに、場の感情会計を読む資本が足りていない。
そのために、欲しい評価が流通している場そのものに参加できなくなる。

ここが、ウツワの小ささのかなり大きな損失だと思います。

10. ウツワの前に、感情会計のリテラシーがいる

ここまで考えると、ウツワが大きいか小さいかだけで見るのは、少し雑だと思います。

必要なのは、まず感情会計のリテラシーです。

感情労働は、払った分だけ直接返ってくるモデルではない。
感情インフラの維持費は、一対一では精算されない。
誰かが場を整えても、その見返りは本人にまっすぐ戻るとは限らない。
場の安定、信用、参加しやすさとして、回り道をして返ってくることがある。

これを知らないと、返ってこないものがすべて損に見えます。

そして、損に見えるたびに傷つく。
傷つくたびに、その場から退きたくなる。
結果として、参加できる場が減っていく。

もう一つ必要なのは、心理的バッファです。

場の扱いには波があります。
常に自分が厚く扱われるわけではない。
常に自分の発言が拾われるわけではない。
常に自分の事情が優先されるわけではない。

その高低差で、すぐ感情破産しないだけの余力がいる。

それは、何でも我慢することではありません。
本当に不当な扱いまで飲み込むことでもありません。

ただ、一時的な薄い扱いを、すぐに自分への最終評価として確定しないこと。
場の波を、波として見られること。
その場が本当に自分を搾取しているのか、それとも一時的な濃淡なのかを見分けること。

ウツワが大きいか小さいかは、その後の話です。

ウツワの前に、リテラシーがいる。
場の感情会計を読む力がいる。
そして、感情の乱高下で破産しないだけのバッファがいる。

11. ウツワとは、場のために一時的な感情支出を許容できる容量である

では、あらためてウツワとは何なのでしょうか。

ウツワが大きいとは、何をされても怒らないことではありません。
何でも受け入れることでもありません。
自分を軽く扱う人に、無限に耐えることでもありません。

ウツワとは、場のために、一時的な大きな感情支出を許容できる容量のことです。

いま怒りを返せば、自分の感情会計はすっきりする。
しかし、場は壊れるかもしれない。

いま不満を出せば、自分の損は回収できる。
しかし、別の誰かが話せなくなるかもしれない。

いま相手の粗さを裁けば、自分の正しさは示せる。
しかし、場全体の流れは止まるかもしれない。

そういう場面で、すぐに短期精算せず、一時的に感情支出を引き受けられる。

それを「ウツワ」と呼んでもよいのだと思います。

ただし、これは美徳である前に、資本です。

支出できるだけの余力がない人に、「ウツワを大きくしろ」と言っても無理があります。
資本がない人に、大きな支払いを求めるようなものだからです。

そして、支払いどころを間違えれば、ただ搾取されます。

感情支出には、場を維持するための支出と、ただ押しつけられているだけの支出があります。
一時的に薄く扱われることと、継続的に軽視されることは違います。
場の波として発生する非優遇と、固定化された搾取は違います。

ここを見分けられないと、ウツワの大小以前に、場の会計を読み違えます。

だから、ウツワの話は、道徳ではなく会計の話として見たほうがよいのだと思います。

ウツワは、大きすぎれば固定資産税が高い。
小さすぎれば、場の波で破産しやすい。
そして、会計が読めなければ、支払うべき場と離れるべき場を間違える。

必要なのは、聖人のようなウツワではありません。

感情労働は、払った分だけ返ってくるモデルではないことを理解すること。
場の優遇と非優遇は、波のように現れることを知ること。
その波で、すぐ感情破産しないだけの心理的バッファを持つこと。

ウツワとは、人間の立派さではありません。

場に参加するための、感情資本なのだと思います。

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