見出し画像

『髪符(はつふ)の境』(三つの符が合わさる時)

推理ダークホラー小説

『髪符(はつふ)の境』

あらすじ

呪術の世界が高齢化と断絶で痩せ細る令和。
物部流いざなぎ系の陰陽師・**美鏡(みかがみ)**は、裏社会で“金で式を飛ばす男”として名が通っている。堅物で他人を寄せ付けないが、祭文(さいもん)を「物語と契約と履歴の合本」として扱い、怪異を理詰めでほどく腕だけは確かだった。

ある日、仲介人から「高齢の札使いの女の始末」を依頼される。
同じ標的を狙うのは、獣使いマタギの肉札使い・竜(りゅう)。クマ皮を神格化して札とし、外さず獲物を殺す――失敗を知らぬ男だ。

だが標的の老女は、髪一本一本に呪文を刻む禁術「髪符」の使い手だった。髪は数万の呪符となり、空間そのものを札の海に変える。式も獣札も届かない。
美鏡は式王子と呼ばれる別格の式を伴い、老女の呪いを「強さ」ではなく「構造」として読み解こうとするが、そこにあるのは怨恨だけではない――“消された生”を証明し続けた人間の履歴だった。

美鏡が辿り着く答えは、祓いでも裁きでもない。
この怪異は“倒す”のではなく、終わらせるしかない。
そして事件は、いざなぎ流の記録から静かに消されてく。



登場人物プロフィール(外見・口癖)

美鏡(みかがみ)

  • 年齢:30代後半

  • 立場:物部流いざなぎ系陰陽師/裏社会の請負

  • 外見:痩せ型。黒髪を短く整え、肌は白い。目元が鋭く、まばたきが少ない。季節を問わず地味な和装寄りの服に、擦れた革鞄。指先に墨と薬の匂いが残る。

  • 性格:堅物、合理主義、他人に優しくないが残酷でもない。“線引き”を何より重視。

  • 口癖

    • 「それは、理屈が合わない」

    • 「壊すのは簡単だ。問題は戻し方だ」

式王子(しきおうじ)

  • 年齢:不詳(“年”という概念が薄い)

  • 立場:美鏡に伴う別格の式。命令ではなく合意で動く。

  • 外見:人の形を取ることもあるが、輪郭が確定しない。白い衣のような印象、髪は風の向きに逆らって揺れる。視線が合うと「見透かされる」より「正確に測られる」感覚。

  • 性格:無感情ではないが、感情を“道具”にしない。

  • 口癖

    • 「戻せ」

    • 「それは、壊しすぎだ」

竜(りゅう)

  • 年齢:40代

  • 立場:肉札使い/獣使いマタギ。クマ皮札で獲物を落とす。

  • 外見:大柄で骨太。日に焼けた顔、頬に古い傷。獣脂の匂いが抜けない。皮の手袋、首に骨片の飾り。視線が“狩り”のまま動く。

  • 性格:成功体験の塊。信仰と恐怖を混ぜて合理化し、負けを想定しない。

  • 口癖

    • 「今日はお前の番だ」

    • 「神は、皮に残る」

髪符の老女

  • 年齢:70代後半〜80代

  • 立場:髪符の禁術者。髪が数万の呪符になっている。

  • 外見:細く小さい。背中が丸いのに、座る姿勢だけが異様に崩れない。髪は異常な量と長さで、黒と白が混ざるが艶がある。指先が硬く、爪が短い(“刻む”生活の癖)。

  • 性格:怒りを外に出さない。祈らない。訴えない。ただ積み重ねた。

  • 口癖

    • 「……ここに居た」

    • 「消さないで」

裏の仲介人(仮名:柘植〈つげ〉)

  • 年齢:50代

  • 立場:依頼を流す窓口。正統派と裏社会の接合点。

  • 外見:小太りで愛想がいいが、目が笑わない。高価な靴、安い煙草。手帳を常に持つ。

  • 性格:責任を取らない。説明を削ることで相手を動かす。

  • 口癖

    • 「あなたなら、できますよ」

    • 「細かいことは後で」

正統派いざなぎ流の古参(仮名:相良〈さがら〉)

  • 年齢:60代

  • 立場:体系の維持者。事件を“記録から消す”側。

  • 外見:整った身なり、物腰が柔らかいが冷たい。

  • 口癖

    • 「名を残すな」

    • 「書けば、増える」


『髪符(はつふ)の境』

第一章 境の外側

 仕事は、いつも静かに始まる。
 音もなく、前触れもなく、だが確実に、こちらの生活の隙間に滑り込んでくる。

 その日もそうだった。

 雨が降っていた。
 正確には、降り出す直前の、空気だけが湿っている時間帯だ。私は事務所代わりに使っている古い平屋の縁側で、干しっぱなしにしていた祭文の控えを取り込みながら、嫌な予感を拭いきれずにいた。

 嫌な予感というのは、当たる。
 これは経験則だ。外れたことはほとんどない。

 玄関を叩く音は控えめだった。二度。ためらいがちに、だが用件があることだけは伝えてくる叩き方。私は戸を開ける前から、相手が誰か分かっていた。

 柘植だ。

 裏の仕事を回してくる仲介人で、正統派とも裏社会とも距離を取っている男。信用できない、というほどではない。だが、信用していい人間でもない。

「失礼します。」

 戸口に立った柘植は、いつも通り愛想のいい笑みを浮かべていた。だが目だけが笑っていない。あれは職業病だろう。

「雨、降りますよ。」

 私が言うと、柘植は曖昧に頷いた。

「ええ。長くはならないと思います。」

 ――長くなる。
 私はそう判断した。

 柘植は上がり框に腰を下ろし、鞄から一枚の紙を出した。コピー用紙だ。安い。だが、こういう紙に書かれた話ほど、ろくでもない。

「始末の依頼です。」

 直球だった。
 遠回しに言わないのは、彼なりの配慮だろう。

「高齢の札使いが一人。場所は山沿いの集落。名前は――。」

「要らない。」

 私は遮った。

 名前を聞いたところで、後で消える。
 この手の仕事では、それが普通だ。

 柘植は一瞬だけ眉を上げ、それから頷いた。

「分かりました。要点だけ。
 関わった人間が、消えています」

「死んだ?」

「いえ。記録から、です。」

 私は手を止めた。

 死ぬ、というのは単純だ。
 だが、記録から消えるというのは、ややこしい。

「戸籍、写真、記憶。全部です。完全に、とは言いませんが……薄くなっていく。まるで、最初から居なかったみたいに。」

 私は祭文の束を脇に置き、柘植を見る。

「高齢の札使い、だったな。」

「ええ。」

「どこの流れだ。」

「不明です。正統派ではない。」

 それだけで、嫌な輪郭が浮かび上がる。

 正統派でない札使い。
 高齢。
 記録の欠落。

 私は、まだ名前も顔も知らないその女の姿を、ぼんやりと思い描いた。

「他に?」

「もう一人、動いています。」

 柘植は一拍置いて言った。

「竜です。」

 その名を聞いた瞬間、胸の奥で小さく何かが鳴った。

 獣使いマタギ。
 肉札使い。
 クマ皮を神格化し、札として使う男。

 失敗しないことで有名だが、それは裏を返せば、失敗を学ばないということでもある。

「取り合いか。」

「ええ。正確には、先に獲った方の勝ちです。」

 私は息を吐いた。

「ずいぶん雑な話だな。」

「裏は、いつもそうです。」

 柘植は立ち上がり、深く頭を下げた。

「あなたなら、できます。」

 その言葉が、何より信用ならなかった。


第二章 式王子

 柘植が帰った後、雨が降り出した。
 屋根を打つ音を聞きながら、私は奥の部屋に進み、低い棚の前に立つ。

 そこに、式王子が居る。

 普段は、居ない。
 正確には、「見えない形」で在る。

「聞いていたな。」

 私が言うと、空気がわずかに歪んだ。
 人の形を取るほどではない。ただ、そこに“在る”と分かる程度の気配。

 式王子は、私の式だ。
 だが、命令では動かない。

「……また、境の話だ。」

 声がした。若いとも老いたともつかない、温度のない声。

「そうだ。」

「壊すか?」

 私は首を振った。

「まだ決めていない。」

 式王子は、それ以上何も言わなかった。
 沈黙は、反対でも賛成でもない。

 私は知っている。
 この式が、本当に口を出す時が、どんな時かを。

 だからこそ、今はまだ、何も言わないのだ。


第三章 髪の女

 集落は、山の影に沈んでいた。
 昼間だというのに、妙に暗い。道が、覚えのない方向へ伸びている気がする。

 私は歩きながら、足元を数えた。
 一、二、三。
 途中で、数が曖昧になる。

 これは、札だ。

 しかも、空間に効いている。
 個人ではない。範囲型。

 家はすぐに見つかった。
 古く、小さく、だが壊れてはいない。
 門の前に立っただけで、私は確信した。

 ――ここに、居る。

 戸を叩く前に、向こうから開いた。

 老女が立っていた。

 小柄で、背が丸い。
 だが、異様に姿勢だけが崩れていない

 そして、髪。

 量が多すぎる。
 年齢に似合わない艶。
 白と黒が混ざり合い、一本一本が、こちらを見ているようだった。

「……誰ですか。」

 声は、弱々しい。
 だが、揺れていない。

「話を聞きに来た。」

 私が言うと、老女は少し考え、それから頷いた。

「ええ。……ええ。
 入ってください。」

 私は敷居を跨いだ。

 その瞬間、背後で何かが閉じる感覚がした。

 境だ。

 私は、ようやく確信した。

 これは、
 倒す話ではない。

 終わらせる話だ。


第四章 数の抜け落ち

 老女の家に入ってから、私は意識的に呼吸を数えていた。

 一、二、三。
 四、五。

 六で、息が止まる。

 止まったわけではない。
 数えようとした意識が、抜け落ちる。

 私は一歩、畳の上を進んだ。
 足音が、二つ鳴った気がした。

 私の足は一つだ。
 もう一つは――私ではない。

 視線を落とすと、畳の縁に、細い影が走っている。
 影というより、線だ。黒く、細く、規則正しい。

 髪。

 老女の背後で、髪が床に触れている。
 いや、触れているのではない。縫い留められている

 一本一本が、畳の目に沿って、意味を持って配置されている。

「……随分、丁寧ですね。」

 私が言うと、老女は曖昧に笑った。

「数が多いから。
 雑には、できません。」

 数。

 私は喉の奥で、その言葉を反芻した。

 数は、秩序だ。
 だが、数が狂うと、秩序は音もなく崩れる。

「これは、いつからだ。」

「さあ……。」

 老女は首を傾げる。

「数えなくなってから、でしょうか。」

 答えになっていない。
 だが、嘘でもない。

 私は畳に座った。
 正面に老女。背後に髪。

 この位置関係で、分かる。

 この家は、呪具だ。
 老女は中心であり、同時に重し。

「あなたの札は、人を殺さない。」

 私が言うと、老女は少しだけ目を見開いた。

「……ええ。」

「消す。
 正確には、“無かったことに近づける”。」

 老女は否定しなかった。

「在ったものを、戻しているだけです。」

 その言葉で、確信が一つ固まる。

 これは怨嗟の呪いではない。
 履歴の修正だ。


第五章 肉札の論理

 家の外で、獣の匂いが濃くなった。

 私は立ち上がらずに言った。

「来たな。」

 返事はない。
 だが、床下で空気が動く。

 次の瞬間、障子が破られた。

 竜だ。

 大柄な身体。皮の手袋。
 肩から下げた包みの中で、クマ皮札が息をしている。

「先客か。」

 竜は私を一瞥し、老女を見る。

 その目が、獲物を見る目だった。

「どけ。
 それは、俺の番だ。」

 老女が、かすかに笑った。

「番、ですか。」

 竜は答えない。
 代わりに、皮を広げた。

 部屋の空気が、重く沈む。
 神の残り香。血と脂と、恐怖。

 だが――

 効かない。

 クマ皮札は展開されるが、呪力が定着しない。
 髪の線が、静かにそれを弾く。

 竜の顔に、初めて困惑が走った。

「……妙だな。」

「妙じゃない。」

 私は言った。

「理屈が違う。」

 竜が睨む。

「何を知ったふうな口を――。」

「それは、奪った力だ。」

 私は続ける。

「だが、こちらは違う。
 自分を札にしている。」

 竜は理解しない。
 理解しないからこそ、次をやる。

 皮を、もう一度広げた。

 その瞬間、クマ皮が反転する。
 内側が、竜に向いた。

 私は息を吸った。

「――それ以上、やるな。」

 だが遅い。

 皮は“獲物”を探していない。
 持ち主を見つけた。

 竜は、初めて後ずさった。

「……違う。
 俺は、選ばれて――。」

 選ばれた、という言葉が出た瞬間、すべてが決まった。

 信仰上のミス。

 神は、選ばれたと思った者を、必ず裏切る


第六章 境を燃やした者

 竜が引きずられるように外へ消えた後、家の中は不自然なほど静かになった。

 老女は、疲れた様子もなく、ただ私を見ていた。

「……あの人も、消えますか。」

「記録からは、薄くなる。」

 私は正確に答えた。

「完全には、消えない。
 だが、戻れない。」

 老女は頷いた。

「それで、十分です。」

 私は、背後に視線を投げた。

「どう思う。」

 空気が、わずかに揺れる。

 式王子の声がした。

「境界を、自分で燃やした人間だ。」

 老女は、聞こえないはずの言葉に、微かに目を伏せた。

「……戻る場所を、残しておくべきでしたか。」

「いいや。」

 私は首を振った。

「あなたは、間違っていない。
 ただ――。」

 言葉を選ぶ。

終わらせ方を、持たなかった。

 老女の髪が、初めて大きく揺れた。

 それは、怒りではない。
 安堵だった。

「……終わるんですか。」

「ああ。」

 私は鞄から、紙を一枚取り出す。

 祭文だ。

 祓いではない。
 裁きでもない。

 記録の締め

 私は息を吸い、読み上げる。

第七章 祭文――記録の締め

 紙は、薄い。
 だが、薄い紙ほど燃えやすく、燃えれば形が残らない。

 私は紙を畳の上に置き、指先で端を揃えた。墨の匂いがまだ残っている。書いたのは今朝だ。書く前に迷い、書いた後でも迷った。迷いのない祭文は、祓いには向いても、この相手には向かない。

 老女は正座したまま、私を見ていた。
 その目には期待がない。疑いもない。あるのは、ただの確認だ。

 ――終わるのか。

 私は息を吸った。
 雨の匂いが、家の隙間から入り込んでいる。畳の下の土の匂い。髪の匂い。人の匂い。いくつもの匂いが混ざって、どれも特定できない。

 式王子は、姿を取らない。
 空気の密度だけが、わずかに増した。

 私は読み上げる。声を張らない。祭文は怒鳴るものではない。読み上げることで、事実を確定するためのものだ。


■祭文(さいもん)

聞け。
名を呼ばれぬ者よ。

ここに至るまで、
お前は歩いた。 失われ、
書き消され、
誰の記録にも残らず、
それでも在り続けた。 最初に刻んだのは、呪いではない。
「ここに居たことを、なかったことにしないで」
その一言だった。 次に刻んだのは、
忘れられた名。
返らなかった声。
戻らなかった日々。 それらは罪ではない。
ここに至る理由だ。 だが――
お前は線を越えた。 自らを札とし、
戻る場所を断ち、
境を燃やした。 その時点で、
お前は役目を誤った。 記す。 お前は、在った。
苦しんだ。
消されかけた。 それは確かだ。 だが――
在り続ける義務は、
誰にも与えられていない。 よって、ここに定める。 お前の記録は、ここまで。 髪に刻まれた言葉は、役目を終えた。
境は閉じる。
戻らぬが、迷わせもしない。 名なき者よ。
もう、在り続けなくてよい。

 読み終えた瞬間、何かが音を立てたわけではない。
 光が走ったわけでもない。

 ただ、畳の目が――ひとつ、揃った。

 私は自分が、いつから畳の目を数えていたのか思い出せなかった。数える必要があると感じていた。その必要が、今、消えた。

 老女の髪が、ゆっくりと沈む。
 床に縫い留められていた線がほどけるのではない。線が線であることを、やめていく。

 髪は髪に戻る。
 ただの毛だ。生活の中で抜け落ちるもの。掃いて集めれば塵になるもの。呪符ではなくなる。

 老女の肩が、わずかに落ちた。
 それだけで、十分だった。人は、肩一つで年齢を取り戻す。

「……終わったの。」

 声が、少しだけ幼く聞こえた。
 私は頷く。

「終わった。」

 老女は目を閉じた。
 そのまま眠るように倒れることはない。倒れる必要がない。倒れるほどの芝居を、彼女はもうしない。

「……ここに居た。」

 老女は、最後にそう言った。
 口癖ではなく、最初の言葉の繰り返しだった。

 私は否定しない。

「居た。」

 言ってしまうと、それは契約になる。
 私は契約を結んだ。彼女が居たことを、私だけは知っている、という契約だ。

 式王子が、初めて姿を取った。
 それは人の形に近い。だが輪郭は、濡れた紙のように曖昧だ。

「壊しすぎなかったな。」

 式王子が言う。
 私は返事をしなかった。返事をすれば、その言葉に縛られる。縛られたくないのではない。ただ、縛られるべき言葉ではないと思った。

 その代わり、私は立ち上がり、鞄を持った。

「行く。」

 老女は目を閉じたまま、頷いた。
 それは許可ではない。確認だ。こちらが立ち去れば、境が閉じる。閉じた境の内側に、彼女は残る。だが、それでいい。

 私は戸口で振り返った。
 髪が床に散っている。散り方が、普通だった。

 普通の光景は、時に恐ろしい。
 普通であることが、ここまでの異常を証明するからだ。


第八章 薄くなる

 外に出ると、雨が止んでいた。
 空気だけが濡れている。世界は何事もなかったように続いている。

 集落の道を歩いても、今度は足数を数えなくて済んだ。
 数えなくていいことが、むしろ気味が悪い。人間は慣れる生き物だ。異常にも、正常にも、すぐ慣れる。

 車に戻る途中、柘植から着信があった。
 私は出ない。出る必要がない。終わったことは、終わった。

 だが、柘植はしつこい。二度、三度。私は観念して出た。

「終わった。」

 私がそう言うと、柘植は少し黙った。相手の沈黙には、たいてい意図がある。彼の沈黙は、値踏みの時間だ。

「……竜のほうは。」

「終わった。」

「亡くなった、という意味で?」

「記録が薄くなる。」

 柘植は息を飲んだ気配がした。

「あなたは……大丈夫ですか。」

 私は笑わなかった。質問が愚かだからではない。愚かだが、当然の質問だ。彼は仕事の後に、仕事の後始末をする人間だから。

「分からない。」

 正直に答える。
 祭文が閉じたのは、老女の境だ。私の境ではない。私は外に出た。外に出た者は、外の規則に従う。

「ただ、今のところは大丈夫だ。」

「そうですか。」

 柘植は安堵したふりをした。ふりで十分だ。ふりが社会を回す。

「……例の女の件は、もう流しません。」

「流すな。」

 私は念を押した。

「書くな。語るな。名前を作るな。」

「ええ、分かっています。」

 分かっている、という言葉ほど信用ならないものはない。だが柘植は生き残りが上手い。生き残りが上手い人間は、たいていこの手の禁忌にも敏感だ。

 電話を切った後、私は車のルームミラーを見た。
 そこに映る自分の顔が、少しだけ見慣れない。

 目元の影が薄い。
 頬の線が曖昧だ。
 ――気のせいかもしれない。

 私は手帳を取り出し、自分の名前を書いた。
 美鏡。
 書ける。読める。意味が繋がる。

 私は指でその文字をなぞった。
 紙がざらつく。ざらつく感触があるうちは、大丈夫だ。

 次に私は、今日の日付を書いた。
 数字が並び、並びが意味を持つ。

 よし、と心の中で呟いた。
 呟いた言葉が自分の中で反響する。反響があるうちは、まだ境界のこちら側だ。

 式王子は助手席に座っているふりをした。
 ふり、というのは正確ではない。居る。ただ、他人には見えない。居るのに見えないものが、この世界には多すぎる。

「薄くなるかもしれない。」

 式王子が言った。

「それでも?」

 私が問い返すと、式王子は、少し間を置いた。

「薄くなるのは、残ったからだ。
戻したものは、戻した分だけこちらに触れる。」

 私はハンドルを握り直した。

「触れさせない。」

「無理だ。」

 即答だった。
 無理だ、という言葉は残酷だが、正確だ。私は正確な言葉を嫌わない。嫌わないが、従うとも限らない。

 山道を下りながら、私は考えていた。
 老女は、終わった。終わったのに、まだここに触れている。触れている限り、何かが残る。残った何かが、次の怪異の種になる。だからいざなぎ流は、書かない。語らない。名を残さない。

 だが、私は知ってしまった。
 知ったことは消せない。消せないからこそ、扱い方が問われる。

 壊すのは簡単だ。
 問題は、戻し方だ。

 私は、その言葉を自分の中で繰り返した。
 いつからそれが自分の口癖になったのかは、もう分からない。


第九章 消される記録

 数日後、相良が訪ねてきた。
 正統派の古参。記録を管理する側の人間。

 雨は降っていない。
 だが、相良が来るときは、いつも空気が湿る気がする。湿るのは空気ではなく、人間関係だ。

「美鏡。」

 彼は私の名を呼んだ。
 それだけで少し驚いた。正統派は、私を名で呼ぶことを避ける。名は繋がりを作るからだ。

「珍しいな。」

 私が言うと、相良は小さく笑った。

「消すためだよ。」

 それは冗談の形をしていた。
 だが冗談ではない。

 相良は座る前に、部屋を見回した。祭文の控え、紙、筆、古い道具。視線が、私の生活を値踏みする。生活を値踏みする人間は、だいたい長生きする。

「例の件は終わった。」

 私が言うと、相良は頷いた。

「終わった。だが、終わり方が問題になる。」

「終わり方は、終わり方だ。」

「だから問題なんだ。」

 相良は淡々と言う。

「お前は、名前を結んだ。
 名なき者を、名なきまま終わらせた。それ自体は正しい。
 だが、お前の中に“記録”が残った。」

「残るのは当然だ。」

「当然だから消す。」

 相良は懐から紙片を出した。私の手帳ではない。いざなぎ流の紙だ。古い繊維の匂いがする。

 そこには一行だけ書かれていた。

 ――境を誤り、役目を越えた者あり。以後、同様の積み重ねを禁ず。

「これだけだ。」

 相良は言った。

「事件も、女も、竜も、お前も――ここには無い。」

「書かないのか。」

「書けば、増える。」

 相良は私を見た。

「お前はもう、分かっているはずだ。
 怪異は倒して終わらない。終わらせ方を誤れば、次の怪異になる。」

 私の言葉を、相良が言った。
 私は少しだけ腹が立った。腹が立つのは、図星だからだ。

「私を消すのか。」

 相良は肩をすくめた。

「消せるなら消す。
 だが、お前はしぶとい。
 しぶとい者は、消しきれない。だから扱う。」

 扱う。
 その言葉は、私のやり方と同じだった。信仰ではなく、手続き。正しさではなく、管理。

 相良は立ち上がり、戸口で振り返った。

「美鏡。
 式王子は、お前を止めるためにいる。
 止められないなら、お前はいつか壊しすぎる。」

 私は返事をしなかった。
 返事をしないのは、拒絶ではない。返事は契約になる。私は契約を増やしたくなかった。

 相良が帰った後、私は机に向かい、空白の紙を一枚置いた。
 書こうとした。だが、書けなかった。

 書けば、増える。

 その理屈は分かる。
 分かるから、怖い。

 私は紙を裏返し、何も書かずに引き出しにしまった。
 何も書かない、という選択は、逃げではない。少なくとも私はそう思いたかった。

 式王子が、背後で小さく言った。

「壊しすぎるな。」

 私は目を閉じた。
 その言葉だけは、契約ではなく、戒めとして胸に落ちた。

第十章 山が覚えている

 竜のことを、誰も語らなくなった。

 それは不自然なほど急だった。
 山の麓の集落で「獣使いのマタギがいた」という話題は、数日前まで確かに存在していたはずだ。だが、名が出ない。顔も出ない。話題に出そうとすると、誰もが一拍遅れて、別の話を始める。

 私は山に入った。
 用事があるわけではない。ただ、確かめる必要があった。

 クマの足跡が残っている。
 だが、それは古いものだ。新しいものではない。

 皮の匂いがしない。
 獣脂の匂いもしない。

 だが、山の空気は、どこか重い

 私は立ち止まり、耳を澄ました。
 風の音の奥に、低い呼吸音がある気がした。

 ――違う。

 呼吸ではない。
 待っている音だ。

 竜は、ここで“番”を迎えた。
 だが山は、それを裁きとは思っていない。山にとっては、ただの循環だ。

 神罰でもない。
 復讐でもない。

 信仰の読み違いが、自然に回収されただけだ。

 私は山を出た。
 振り返らなかった。

 振り返れば、何かが“続いてしまう”気がした。


第十一章 欠けた記録

 事務所に戻ってから、私は奇妙な違和感を覚えるようになった。

 鍵の位置を間違える。
 使い慣れた道具の名前が、すぐに出てこない。

 致命的ではない。
 生活に支障が出るほどでもない。

 だが、確かに欠けている

 私は手帳を開いた。
 過去数週間の記録を辿る。

 依頼。
 移動。
 祭文。

 老女の件は――無い。

 書いていないのだから当然だ。
 だが、空白の位置が、はっきり分かる。

 私はペンを持ち、書こうとした。
 だが、式王子が、何も言わずにそこに立った。

 止めているわけではない。
 だが、見ている

 私はペンを置いた。

「これが、代償か。」

 独り言のつもりだった。

「代償ではない。」

 式王子が言う。

「接触だ。
境を閉じた者は、必ず境に触れる。」

「戻れない?」

「戻れる。
ただし、同じ場所には。」

 私は頷いた。

 それでいい。
 同じ場所に戻る必要はない。

 同じ場所に留まり続けることこそが、老女を怪異にした。


第十二章 反論しない理由

 私は、ふと思った。

「なぜ、今回は止めなかった。」

 式王子に向けた問いだ。

 あの時。
 祭文を読む前。
 もし「やめろ」と言われていたら、私は従ったかもしれない。

 式王子は、少し考えた。

「止める理由が、無かった。」

「壊しすぎる可能性はあっ。」

「あった。」

「なら。」

「だが、お前は壊さなかった。」

 私は息を吐いた。

「結果論だ。」

「違う。」

 式王子は、はっきりと言った。

「お前は、倒さなかった。
終わらせただけだ。」

 その違いは、紙一枚ほどだ。
 だが、その紙一枚が、境になる。

「だから、反論する必要が無かった。」

 私は、それ以上聞かなかった。
 聞けば、また契約になる。


終章 書かなかった一枚

 夜。
 私は机に向かい、白紙を一枚出した。

 書こうと思えば書ける。
 老女のこと。
 髪符の構造。
 祭文の言葉。

 だが私は、書かない。

 代わりに、紙を折った。
 折り、さらに折り、小さく畳む。

 それを、引き出しの奥に入れた。

 書かなかったという事実だけが、そこに残る。

 式王子は、何も言わない。
 言わないという選択が、彼の答えだ。

 私は灯りを消し、横になった。

 眠りに落ちる直前、ふと思う。

 ――あの老女は、救われたのだろうか。

 答えは出ない。
 出ないままでいい。

 救いを定義した瞬間、
 また誰かが境を燃やす。

 私は目を閉じる。

 明日になれば、また仕事が来る。
 境を誤った誰かの、後始末だ。

 壊すのは簡単だ。
 問題は、戻し方だ。

 その言葉を、私はもう口にしない。
 言葉にすれば、また記録になる。

 だから、胸の内にだけ置いておく。

 ――境は、静かに閉じている。

 それでいい。






いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集