Ⅰー45.(文献篇6)クリスチアン・G・アピー『ベトナム:すべての側から語られた決定版オーラル・ヒストリー』(2003年)(1)
(文献篇6)クリスチアン・G・アピー『ベトナム:すべての側から語られた決定版オーラル・ヒストリー』(2003年)
Chiristian G. Appy, Vietnam : The Definitive Oral History Told From All Sides, Great Britain : EBURY PRESS, 2003. 全574ページ
はじめに
ベトナム戦争研究者として有名な著者の2003年に出版されたオーラル・ヒストリー。本書の最大の特徴は、アメリカとベトナム(南北ともに)の双方の各方面にわたる135人にも及ぶ包括的な聞き取り調査の結果だということである。
著者はハーヴァード大学とMIT で歴史学の准教授を務めた後、マサチューセッツ大学で教鞭をとっていた。本書以外の編著書としては、編著『冷戦構築:アメリカ帝国主義の政治文化、1945ー1966(冷戦とその後における政治と文化)』(2000年)、単著『労働者階級の戦争:アメリカの戦闘兵士たちとベトナム』(2000年)、単著『アメリカの清算:ベトナム戦争と私たちのナショナル・アイデンティティー』(2015年)がある。ちなみに、本書は2004年に『愛国者:すべての側から思い出されるベトナム戦争』というタイトルでリプリント版が出されている。
本書は6部構成となっている。第1部:イントロダクション、第2部:始め(1945ー64)、第3部:エスカレーション(1964ー67)、第4部:ターニング・ポイント(1968ー70)、第5部:終結(1970ー75)、第6部:遺産(1975ー)と時系列順になっている。各部と各話者の語りには著者の解説がつけられている。それでは以下で本書の内容を紹介していきたい。

著者名の下の紙は図書館印を隠すためのもの。
序文
5年前にアメリカとベトナムの両国で350人にインタビューした。ウェストモーランド将軍やヴォー・グエン・ザップ将軍のような有名人も含まれているが、本書のインタビュイーの大部分は無名人。ベトナムでのインタビューは「越米友好協会」に斡旋してもらった。
ベトナム戦争関連本は夥しい数が出版されているが、カテゴリーに分けられており、多様な個々人の経験が結び付けられていない。本書ではそれらを包含し、戦争の全体像を見られるように努めた。
現在ベトナム人の3分の2は戦後生まれで、若い世代は戦争の犠牲を尊重しない、と嘆く人もいる。しかし家族の伝統が歴史意識の最も有力な運び手となるであろう。ベトナムは、5つの国連常任理事国のうち3つを敗北させた唯一の国であり、かつてグローバルな紛争の中心地であった。
*
ベトナム戦争が進行するにつれ、多くのアメリカ人は南ベトナムが民主主義国家でも独立国家でもなく、アメリカの援助に依存した、腐敗した不人気の体制だと信じるようになった。1960年代末までに、ベトナム戦争はアメリカ史で最も不人気な戦争となり、大規模な反戦運動が起きた。
南ベトナムを支援したベトナム人の多くは、かつてフランス側についたカトリックであった。ベトナム戦争で南ベトナム人20万人以上が死亡した。戦争終結後、75万人以上がアメリカに渡った。彼らは戦争に負けただけではなく、故郷を失った。
*
1964年に米軍はラオスへの爆撃を始めた。カンボジアへの爆撃は1969~1973年に実施され、1970年にはカンボジア領内に侵攻した。
約30万人の中国人と数千人のロシア人が北ベトナムに駐在していた。
*
インタビューに応じてくれなかった主な人には、マクナマラ、キッシンジャー、グエン・ヴァン・ティエウなどがいる。戦争の語りには、「死者の沈黙」、「言葉にならない沈黙」があるが、一党独裁国家のベトナムでは「他の沈黙」もあった。
オーラル・ヒストリーのいい点は、個人の経験と見方を広く取り入れることができる点である。もちろん記憶は部分的、選択的で、時には誤っている。したがってできるだけ裏をとる必要がある。また本書のインタビュイーはすべて実名で記載されている。
すべての側のインタビュイーに共有されていたのがパトリオティズムである。もっとも、すべての人が同じようにパトリオティズムを考えているわけではないが。

本書のリプリント版
第1部:イントロダクション
◆司令官
・Bernard Trainor:「ダナン市長が二重スパイだと判明した」
70歳の退役中将。1965年、在越米軍の数は2万3千人から約20万人に。
彼は、1961年以来続けられてきた秘密戦争の一部として、南ベトナムが
北ベトナム海岸を攻撃する小規模な最高機密プログラムの任命を受け
た。1970年、歩兵大隊の指揮官を務める。翌年、米軍海兵隊の大半は
撤退。
・Dang Vu Hiep:「あれだけのヘリがあれば、恐ろしく強そうだ」
北ベトナムの退役将軍。1945年、ベトミンに参加。抗仏戦争後、5年間
ソ連に留学。1964年9月、中佐として、ホーチミン・ルートを経由して
南部へ。中部高原での戦闘に従事。
◆戦争の英雄たち
・Roger Donlon:「私たちはあらゆる点で腕の中の赤ん坊だった」
ベトナム戦争でアメリカの軍事の最高勲章(Medal of Honor)を受章し
た最初の人。グリーンベレーの大尉。南ベトナム北部のラオス国境地方
で活動。1964年7月の敵軍攻撃に対する応戦ぶりで受章。
・Tran Thi Gung:「私は7日間トンネルの中で張り付いた」
サイゴン近郊の村のクチの女性ゲリラ。
◆代償を払う
・Ta Quang Thinh:「彼らは私を北に戻る全行程を運んだ」
彼は1965年に北ベトナム軍看護師として南部に出征。1967年にタイニン
省で負傷。ハノイ郊外の療養所にいる。出征前に結婚した妻が一年に一
度訪れる。
・George Watkins:「あの砂はおそらく私を救った唯一の物」
米軍第196軽歩兵旅団兵士。1968年4月、クアンチ省で地雷を踏み、両
足・両目を失う。現在、ヴァージニア州で姉(妹)と暮らす。
・Phan Xuan Sinh:「すべての私の先祖はここに埋葬されている」
1969年、南ベトナム軍に徴兵。1971年にトゥードゥック軍事アカデミー
を卒業し、第51連隊の偵察部隊のリーダーになる。1972年、地雷で右足
を失う重傷を負う。1990年にアメリカに渡る。
◆ベトナムはどこ?
・Jo Collins:「私はヨーロッパに行くものとばかり思っていた」
彼女は『プレイボーイ』誌の「年間のプレイメート」だった。1965年、
同誌は終身定期購読を申し込んだ人に対し初号をプレイメートに配達さ
せるというプロモーションを始めた。第173空挺旅団のある小隊が集団
で申し込んだ。それで彼女はベトナムに飛んだ。
・Deirdre English:「どのようにして私の国が戦争に臨むことができたの
か、そして私はそれについて知らない」
1960年代末、1970年代初、彼女は反戦運動に参加。10年後、特に女性史
について多くの記事を書くようになったが、ベトナム戦争は彼女の政
治・社会観を形成した中心的出来事だった。

第2部:始まり(1945ー64年):「歴史は if でつくられていない」
ベトナム戦争は、敵意の開始を示す最初の侵攻あるいは戦闘はなく、戦争を公式に始める大統領の告知も議会の宣戦布告もなかった。いつ、どのように始まったかは分かりにくい。
・Henry Prunier:「これらは社会のくずの農民ではない」
1945年7月、米国OSSの7人から成る「鹿チーム」の一員として、イン
ドシナ北部のジャングルにパラシュート降下した。ベトミンによる反日
抵抗運動を支援するのが任務であった。1995年、OSSの元メンバーの代
表団が訪越した時、ヴォー・グエン・ザップ将軍に再会した。
・Vo Nguyen Giap:「人類史で最も残虐な紛争」
1929年に反植民地活動で3年の刑を宣告される。1938年に『インドシナ
における民族解放の問題』を出版。1944年、34人で反植民地軍を結成。
1954年、30万人以上の軍隊を率いてフランス軍に勝利。アメリカ戦争で
はレ・ズアンなどがより実権を握った。
1990年代なかばの「ハノイ対話」では、ザップとマクナマラは戦争観を
異にした。マクナマラ「私たちは、未来においてこのような悲劇を避け
るために、教訓を引き出す必要がある」。ザップ「教訓は重要であるこ
とは同意する。しかしながらあなたがその戦争を悲劇と呼ぶのは間違っ
ている。あなたがたにとっては悲劇かもしれないが、私たちにとって戦
争は高貴な犠牲である。私たちはアメリカと戦いたくはなかった、しか
しあなた方は私たちにほかの選択肢を与えなかった」
◆「私たちを悪からお守りください」
抗仏戦争で、1954年までに戦費の80%をアメリカが負担。フランスは約50万の兵士を動員し、35億ドルのアメリカの援助を受けていた。フランス軍の兵士は、ベトナム人兵士、他の仏領植民地からの兵士、外国人傭兵が主だった。ディエンビエンフーの戦いでベトミン側の兵力は5万5千人。フランス軍の危機を前にペンタゴンは米軍の直接介入と原爆投下を検討するも、批判が強く断念。戦後のジュネーブ協定では南北分断が決められたが、それには中ソも妥協した。
この協定により、およそ90万人の北部人が南部へ、およそ20万人の南部人は北部に移住した。南部のジェム政権は、1956年までに年に2億7000万ドルの援助をアメリカから受けた。北部では土地改革がおこなわれ、8千人が処刑され、政治的結束に大きな打撃となった。
・Daniel Redmond:「インドシナで戦争に勝った医者」
1954年、約100万人の南部移住者を北部から移送する米海軍の任務に
従事。ベトナム滞在中、彼は海軍軍医Thomas A. Dooleyと会う。この
軍医はベトナム難民についての本『私たちを悪からお守りください
(Deliver Us from Evil)』を執筆。同書および同軍医の発言は、ベト
ナムへのアメリカの関与が共産主義の迫害を受けている農民たちのた
めの道徳的義務だと多くのアメリカの若者に吹聴した。ケネディ大統
領が1961年に平和部隊(Peace Corps)を創設した時、愛国主義と自
己犠牲のモデルとして同軍医の名前が引き合いに出された。
・Rufus Phillips:「彼らが私をリンチする前に私はフランス人ではない
と言ってくれ」
1951年にCIAに入る。3年後、ベトナムに赴任し、フィリピンの左翼
鎮圧で功績があり心理戦争の達人といわれたエドワルド・G・ランズ
デールのチームで1954年から1955年に働く。1950年代後半はラオス
に入り、1962年にベトナムに戻る。1965~1968年はコンサルタント
として何度も渡越。
・Ngo Vinh Long:「もし彼らが地図を作成しているなら、戦争を準備
している」
16歳の時の1959年から1962年まで軍事地図作成のための南ベトナム探
査に従事した。1964年、南ベトナムの学生として米国ハーヴァード大
学に留学。ベトナム戦争反対の言論活動をする。ベトナム戦争終結
後、在米のベトナム難民から非難され、1981年にはハーヴァード大学
にて人身攻撃された。
ハーヴァード大学で反戦運動をする一方で、アメリカの対ベトナム政
策で重要な役割を果たしたサミュエル・ハンチントンやヘンリー・キ
ッシンジャーと研究活動をした。
◆「タイヤを蹴って、火を照らす」
1956年、「ベトコン」が蔑称として南部の新聞などで使用される。
1961年末、ケネディ大統領は、アメリカのさらなる介入がないとジェム政権は危ういとの報告を受け、軍事「顧問」を800人から3000人に増員。1962年までに1万1千人、一年後には1万6千人。1963年11月1日、ジェムはクーデタで暗殺される。3週間後、ケネディ大統領も暗殺される。彼はベトナムからの撤退を考えていたのか、あるいは介入拡大を考えていたのかが議論になるが、介入とエスカレーションを鈍化させる政策を採っていたことは明らか。
・Richard Olsen:「それは『テリーと海賊たち』のようだった」
1962年、軍事「顧問」の一人としてベトナムに派遣されたパイロッ
ト。アメリカは戦争には直接には関与しないというこの時期のフィク
ションを保つため、パイロットは発砲を公式的には禁じられていた。
・Malcolm Browne:「あなたは焼けている肉を嗅ぐことができた」
1961年、AP通信の記者としてベトナムに行く。1963年、僧侶ティッ
ク・クアン・ドゥックが焼身自殺した時、現場にいた唯一のジャーナ
リスト。彼の撮った写真が世界中の新聞の一面を飾った。
1994年、彼はベトナムを訪れ、かつての仏教運動指導者ティック・チ
ー・クアン(Thich Tri Quang)に会ったが、クアンは軟禁状態におか
れていた。
・Le Lieu Browne:「次から次へとクーデタがあった」
1950年代、フランスとロンドンに留学。1959年にベトナムに戻り、ジ
ェム政権の情報省に検閲官として勤務。後にMalcolm Browneと結婚。
・Paul Hare:「私の雄鶏は闘いに負けた」
1964年、24歳のチュニジア駐在の外交官だったが、ベトナム赴任を命
じられた。ベトナムの4つの省に駐在し、「平定」工作に従事。1969
年まで滞在した。
◆「裸の王様」
ベトナム戦争は「マクナマラの戦争」ともいわれた。彼は1961~1968年に国防長官だった。1995年に出版した回顧録の中で、アメリカの介入は「ひどい間違いだった」と述べた。1965年に既に彼は、この戦争には勝てないと密かに個人的には結論を下していた。しかし公にはしなかった。戦時中の政策決定者たちは戦争への個人的懸念を隠していた。マクナマラは回顧録の中で、アメリカの失敗の多くはインテリジェンス不足だとした。しかしより正確には、政策決定者が冷戦思考と結びつき、ベトナムの知識を十分には活用しなかったことである。冷戦思考の真ん中には、共産主義はソ連と中国によってコントロールされた国際運動だとの見方がある。
中ソは、特に1965年から1975年まで、大量の軍事的・経済的援助を北ベトナムに供与してきた。ソ連はその十年間で少なくても50億ドル相当を供与し、約3千人の軍事顧問・技術者を送った。中国の援助はソ連の援助が少なかった1960年代前半にとりわけ重要で、1965~1970年に30万人以上の中国兵が支援のため北ベトナムに入った。モスクワと北京は、ワシントンのリーダーたちが想像したように、ハノイをコントロールしたのではなかった。共産主義者の同盟は一枚岩ではなかった。サイゴン政権打倒の駆動力はほぼベトナム人から生まれたものであった。アメリカの政策決定者たちは、南ベトナムの共産ゲリラは単にハノイの共産主義者の手先であり、ハノイは北京やモスクワの手先だと見ていた。ワシントンは、ベトナムの現実を理解することを第一優先とは見なしていなかった。
政策決定者たちは、成功の見込みがないままに、ベトナムへの介入を拡大し続けたが、それは最終的な勝利の自信があったからではなく、敗北の恐れからである。アメリカの指導者たちは、アメリカが軍事力を強めていけば、敵の戦闘意志をくじき、少なくても交渉でアメリカに有利な結果を導くことができると考えていた。
・Paul Kattenburg:「ペルーによかった事は、ベトナムにもよい」
1950年代からのベトナム専門家で、当初はゴ・ディン・ジェムの熱心
な支持者。1963年、国務省のベトナム作業チームの長としてベトナム
に渡り、ジェムとも面談する。同年8月、ベトナムから戻り、国家安
全保障会議に出席。同会議ではジェム政権を支持し続けるかどうか話
し合われたが、ジェムを支持せずクーデタすることを選択。彼は、ワ
シントンのハイレベルの会議でベトナムからの撤退を提案した最初の
人。
・Evelyn Colbert:「公の楽観主義と矛盾する異見は無視された」
1962~1974年、国務省情報調査局東南アジア課に勤務。
・Chester Cooper:「少年よ、アメリカ人のように話しなさい」
1953~1963年まで、CIAの東南アジア情報分析官。それから3年間、
国家安全保障会議でのMcGeoge Bundy の副官。1966~1968年は、
Averell Harriman の特別補佐官として交渉による解決に尽力する。
・Sergei Khrushchev:「ベトナム人は彼ら独自の考えをもっている」
ソ連のフルシチョフ首相(在位1953~1964年)の息子。1961年、ケ
ネディー大統領就任の2週間前、フルシチョフ首相は「解放の正義の
戦争と人民蜂起」支持を表明。冷戦のエスカレーションとケネディー
政権には受け止められる。
息子のセルゲイは1991年からアメリカ在住し、父親についての著作を
出版。父親の任期末期には北ベトナムの指導者との関係は疎遠にな
り、ソ連の援助は大幅に少なくなった。
「楽園の島」
・John Singlaub:「私達は寛大な贈り物で彼らみんなを送り帰した」
1966~1968年、彼は北ベトナムに対する秘密戦争に従事。米軍最大の
地下部隊であるSOG(Special Operations Group から後に Studies and
Observation Group)の指揮官だった。1961~1968年、CIA と SOGは
千人以上の北ベトナム人を拉致して教化し、北ベトナムとラオスにス
パイを送り込み、海岸沿いの駐屯地を攻撃した。
・Luyen Nguyen:「彼女は2番目の夫を見つけ、私を待った」
彼は、アメリカが極秘裏に北ベトナムに送り込んだ約500人の南ベト
ナム兵士のうちの一人。ほとんどのコマンドは捕えられ殺されたか、
二重スパイになった。この工作は1961~1968年におこなわれた。彼は
1966年に北ベトナム兵士に捕まえられ、21年間投獄された。1990年、
彼と妻はアメリカに移住した。

第3部:エスカレーション(1964ー67)
◆「戦争へのルート」
のべ300万人の米兵が1961~1972年(?)にベトナムに向かった。最初は軍隊の艦船や航空機で移動したが、1966年までには多くの兵士は、民間航空機で移動した。かれらはベトナムについてほとんど何も知らなかった。
ホーチミン・ルートは踏破に3~6か月を要した。ルート上で亡くなった人はアメリカの戦死者(5万8193人)より多いと思われる。1959年から小規模の北ベトナム軍がここを通って南下し始めた。1964年には南下する北ベトナム軍は1万2000人になった。1965年は3万3千人。1966~1971年に約60万人の北ベトナム軍がホーチミン・ルートを南下した。1970年代初には、北ベトナムの兵員数は米軍を上回った。
エスカレーションの時期、米軍の介入の増大は北ベトナムを上回った。1964年末は2万3000人、1965年は18万5000人、1966年は38万5000人、1967年は46万5000人、1968年は53万6000人だった。
ホーチミン・ルートの改良・拡幅は1965年に始まった。数万人の北ベトナム人がルート上で働いた。またラオス人労働者、ロシア・中国・北朝鮮の技師もいた。戦争末期には北ベトナムからロックニン(Loc Ninh)までの石油パイプラインが開通していた。ホーチミン・ルートの道路網は全長で1万マイル以上に及んだ。
重い貨物はカンボジアのシハヌークビル港に運ばれた(1970年に停止)。ソ連・東欧諸国からの物資の大半はハイフォン港に運ばれ、中国の物資は道路と鉄道で運ばれた。
・Vu Thi Vinh:「チュオンソンのジャングルは私たちに生命を与えた」
数万人の北ベトナムの若い女性が、チュオンソン山脈で道路建設など
に従事した。彼女らは青年突撃隊に所属していた。同隊は1965年に創
設。ヴィンは両親の反対を押し切り、年齢を詐称して15歳で同隊に参
加。「私たちはとても若かったので何も知らなかった。しかし私たち
の愛国主義はとても強かった。私たちは喜んで戦争に行った」
・Nguyen Thi Kim Chuy:「私たちは妖怪のような白い眼で髪なしで家
に帰った」
彼女は青年突撃隊で4年間チュオンソンのジャングルで働いた。
・Helen Tennant Hegelheimer:「私は彼らの妻であり、姉妹であり、
ガールフレンドだった」
1966年と1967年、彼女は米軍兵士輸送を請け負った民間航空会社の客
室乗務員だった。日本の横田基地で乗員交替した。
◆「あなたは私に第3次世界大戦を始めてほしいのか」
北ベトナムは1961年以来、米軍の秘密軍事作戦 Operation Plan 34Aのタ
ーゲットになっており、北ベトナムの島嶼と海岸を急襲していた。1964年8月、トンキン湾事件がでっちあげられ、米議会でトンキン湾決議が出されて、宣戦布告なき米軍の大規模な介入が始まった。ジョンソン大統領は公式的な宣戦布告の必要性を避けたかった。同年、ジョンソンは大統領選で対立候補のゴールドウォーターからはベトナムに対し弱腰だと批判されていた。大統領選で地滑り的勝利をおさめ、ジョンソンは1965年初、ローリングサンダー作戦(北爆)を開始し、海兵隊をダナンに派兵した。同年6月にはB52が南ベトナムでの爆撃を始めた。同年7月には5万人の派兵を公表し、同年末までにさらに10万人が追加された。ジョンソンは、中ソとの対決が拡大することを恐れた。北ベトナム全域で空爆することを拒否し、1965年では北緯20度以南に限定した。次の3年間にジョンソンは派兵を50万人まで増やした。この時期、表向きは楽観的であったが、彼は内心では不安をつのらせていた。
・James Thomson:「これは狂った欺瞞的な政策決定だ」
1961年にChester Bowles 国務次官の下で働き始め、その後、ジョンソ
ン大統領の安全保障第一顧問の McGeorge Bundy の特別補佐官とな
る。1964~1966年、ベトナム政策に従事。
・Seth Tillman:「私たちは明日にでもこの戦争を止めることができ
る」
1961年、フレチャー・スクールで博士号取得し、上院外交委員長のフ
ルブライト上院議員の下で働き、演説草稿作成などに携わる。1977年
まで同委員会のスタッフを務める。1960年代なかばまでに、フルブラ
イトはベトナム戦争に批判的になる。
・Charles Cooper(1):「彼は新兵訓練所の海兵隊員よりもFワード
を自由に使っていた」
1946年、海軍に入る。1965年、統合参謀本部のメンバーだったマクド
ナルド提督の副官となる。統合参謀本部は、大統領に説明するための
地図を作成するよう命じた。同年11月、彼は大統領への説明に出席。
・Walt Whitman Rostow:「北ベトナムの都市ヴィンを人質に取れ」
ケネディ、ジョンソン政権内のタカ派の一人。1950年代、MITの経済
学者として、第三世界の「近代化論」を唱える。ケネディ政権では国
務省に入り、1966~1968年にはジョンソン政権で国家安全保障顧問
に。ベトナムの戦況について多くの人が悲観的になる中、彼は楽観的
であった。1969年、学究生活に戻る。1971年、ニクソン大統領は
1967年にロストウが進言していたことに近いことをした。ホーチミ
ン・ルートを遮断するために南ベトナム軍をラオスに送り込んだ。
◆中部高原
ベトナム戦争で成功したかどうかを測る目安は、誰が最も敵を殺したかや誰が最も土地を支配しているかではなく、誰が普通のベトナムの人々に最も政治的・道徳的正当性をもっているかである。
中部高原は南ベトナムの人口1700万人のうち5%を占めるのみであった。しかし北ベトナムはここが全国支配のための鍵になるとの軍事的考えをもち、1960年代なかばまでに数千人の北ベトナム軍がホーチミン・ルートを通って入った。1964年、北ベトナムは南ベトナムの分断をねらって1965年10月に中部高原を攻撃する計画を練った。
一方、米軍は中部高原に第173空挺師団と第1騎兵師団の2個師団を配置していた。1965年11月、在ベトナム米軍司令官ウェストモーランド将軍は、プレイクの西にあるイアドラン渓谷にて北ベトナム軍3個連隊を撃破する命令を下した。これは北ベトナム正規軍との最初の大規模な激突だった。戦闘は1か月続き、米兵は300人以上戦死した。米軍側の主張では、北ベトナム軍は3千人以上が戦死した。ウェストモーラン将軍は勝利を宣言し、消耗戦を通じて共産主義者を撃滅することによって戦争に勝利できる確証をえた。それは戦争の純軍事的解決をめざし、敵勢力を多数殺すことが勝利につながるというアメリカの傾向を助長した。ウェストモーランドの目標は、領土を掌握し確保することではなく、ハノイが継戦意志を失うか、損耗を補えないスケールで敵兵を殺すことであった。そして彼は「索敵・撃滅(サーチ・アンド・デストロイ)作戦」を実施した。米軍は戦闘後に敵兵の死体の数を数えた。
北ベトナムにとってイアドランの教訓は、長期の大規模な戦闘はなるべく避けるということであった。接近・速戦・撤退が彼らの戦術であった。大きな戦闘は、1968年のテト攻勢、1972年、1975年におこなわれているが、戦闘の大半は小規模なものであった。
ワシントンは戦争の軍事的解決を追求し、ハノイは南ベトナムの村人の政治的支持を確保することに注力した。
・Dennis Deal:「ああ、もしこれに立ち向かうなら、とても長い一年
になりそうだ」
1965年11月、最初の戦闘としてイアドランの戦いに参加。第1騎兵師
団のある大隊の約450人は2千人余りの北ベトナム軍3個連隊に包囲
されてしまった。この戦闘はハリウッドの映画「We Were Soldiers」
にもなった。
・Ward Just:「それは霊的なものの近くに近づいた」
ワシントンポスト紙の記者。1966年6月、第101空挺師団の42人から
成る小隊に従軍取材。中部高原ダックトーのジャングルで索敵中に北
ベトナム軍に発見され攻撃される。12人が殺され、19人が負傷。彼も
負傷し、ヘリコプターでかろうじて救出される。
・Le Cao Dai:「時折、私はスタッフが自転車のペダルをこいでいる
間、徹夜で手術した」
1966~1974年、中部高原で最大のジャングル病院を切り盛りした医
師。同病院はスタッフは約400人、患者は1000人以上いた。敵に見つ
からないように、数か月ごとに、病院は場所を変えた。
戦後、彼は枯葉剤被害者の研究と支援に尽力。
(続く)
