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中国の旅(2)〜大連・旅順〜 二〇三高地を歩いて登る、「坂の上の雲」の聖地巡礼の旅

中国の大地に魅せられて。せっかく中国に住んでいるのだから、この国の素晴らしさをもっと深く知りたい。そんな思いから、中国各地の旅を始めることにした。

第一弾の西安・兵馬俑の旅の紹介に続き、
今回の第ニ弾の旅の舞台は、大連・旅順。主に司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に描かれた日露戦争の激戦地・二〇三高地などを訪れ、明治期の日本の足跡をたどることに。

小説 坂の上の雲

偶然だが、先日までNHKで再放送されていた「坂の上の雲」を毎週楽しみに観ていた。かって司馬遼太郎の小説本でも読んだことがあり、明治維新後の日本が世界の列強と肩を並べるために必死に突き進んだ時代の空気が、この作品を通じて伝わってくる。

戦争を美化するつもりはないが、未来に向かってひたむきに進む人々の姿には胸が熱くなるものがある。

この記事では、大連・旅順の美しい風景や歴史的建造物の様子を写真と共にご紹介する。

特に、日露戦争の激戦地である二〇三高地の様子は、当時の兵士たちの息遣いが聞こえてくるような臨場感あふれるものとなっている。

これは、ただの観光ではない。歴史の現場に立ち、その空気を肌で感じた旅の記録である。

記事の後半では、二〇三高地を含む旅順の歴史的背景や、各史跡が持つ現代における意義について、より深く掘り下げている。これらの情報は、大連・旅順の旅をより一層意義深いものにするであろう。

尚、この後半の記事は有料記事となっている。大連・旅順の歴史と文化にご興味のある方は、ぜひこの先の有料部分もお読みください。

大連到着 〜日本の面影を感じる街並み〜


5月の労働節の休暇を利用して、無錫空港から大連へ。2時間弱のフライトを経て到着すると、日本語ガイドが出迎えてくれた。コロナ禍の影響で日本人観光客がパタッと途絶え、久々のガイドの仕事だったそうだ。日本語がペラペラで助かる。

大連は中国東北部・遼寧省の南端に位置し、1898年にロシアが租借、1905年の日露戦争後は日本の租借地となった歴史を持つ。そのため、日本の影響を色濃く残した建築が今も多く見られる。

まずは中山広場を散策。旧満鉄本社ビル旧大和ホテルといった戦前の日本建築が現役で使われているのには驚かされた。

南満洲鉄道満鉄

満州の長春と遼東半島先端の旅順を結ぶ鉄道。
ロシアは東清鉄道のハルビンから大連・旅順を結ぶ支線を敷設していたが、日露戦争後のポーツマス条約でその支線の長春以南の営業権を得た日本が、1906年に南満州鉄道会社(略称が満鉄)を設立して運営した。
満鉄は日本政府が半分を出資する国策会社であり、鉄道の営業の他に沿線の行政権も持ち、石炭・鉄鉱石などの鉱業なども展開することのできる巨大な組織となっていった。
日本は満鉄の経営をテコに満州への進出を図り、1932年に満州国を作った。

世界史の窓
旧満鉄本社
旧満鉄本社跡 標識

旧ヤマトホテル

ヤマトホテルは、かつて南満洲鉄道(満鉄)が経営していた高級ホテルブランド。
1907年から1945年まで満鉄線沿線の主要都市を中心にホテル網を展開していた。ヤマトホテル以外の直営ホテルと合わせて満鉄ホテルチェーンと総称された。

Wikipedia
旧ヤマトホテル


その後、海沿いの星海広場へ。潮風を浴びながら海岸線を歩き、北大橋に向かって登っていき、大連の街を一望する。夕方には、ロシア統治時代の名残をとどめるロシア風情街を訪れた。夕食は海鮮料理を堪能し、翌日の旅順観光に備えて早めに休む。

星海公園の海岸
北大橋
ロシア風情街

二〇三高地 〜戦火の記憶をたどる〜


翌朝、日本語ガイドと合流し、車で約40分の距離にある旅順へ。まず向かったのは二〇三高地

この日は労働節と桜祭が重なり、通常なら中腹の駐車場まで車で行けるところ、通行規制がかかっていた。仕方なく麓から歩いて登ることに。

桜祭に集まった人混みをかき分けながら坂道を進むと、やがて登山者はまばらに。日本人でない限り、この山に登ろうという人は珍しいのかもしれない。

麓から二〇三高地への登り口

麓を振り返り、ふと、「かつてこの山を駆け上がった兵士たちは、どんな思いでいたのだろう」と考える。

二〇三高地の麓の眺め

山頂までの道は意外にも舗装され、整備されていた。

登り道
舗装されている道

途中、ガイドが乃木将軍の長男・乃木勝典が戦死した場所を案内してくれた。道から少し離れた場所にひっそりと碑が佇む。

慰霊碑

さらに登り、林を抜けると、山頂に到着。そこには当時の大砲のレプリカが設置され、砲口の先には旅順港が、はっきり見える。ここから砲撃し、旅順艦隊を壊滅させるために戦ったのかと思うと、何とも言えない気持ちになった。

二〇三高地から旅順港をのぞむ

艦隊を攻撃したのは、日式280ミリ榴弾砲で、1880年代に大日本帝国陸軍が開発・採用した榴弾砲である。

280ミリ榴弾砲
榴弾砲の後ろ姿

日露戦争の二〇三高地の攻防はこの旅順港にあるロシアの旅順艦隊をここから攻撃するために、多大な犠牲を払った。

爾霊山(203)の記念碑

苦難の末、旅順艦隊を壊滅した結果、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に日本海海戦で勝利し、ひいては日露戦争全体に勝利をもたらす大きな要因となったのである。大仰に言うと、日本の国家存亡を決めた戦いの跡地なのだ。

二〇三高地は、日露戦争の激戦地であり、多くの兵士たちの命が失われた場所だ。この地を訪れ、当時の様子を想像することで、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて感じた。


次項からは、水師営会見所、東鶏冠山堡塁、旧日露監獄など、旅順に残る他の史跡を巡り、日露戦争の歴史をより深く掘り下げていく。

これらの史跡は、日本の近代史を語る上で欠かすことのできない場所であり、多くのことを考えさせられる場所でもある。

より詳細な情報や考察にご興味のある方は、ぜひこれより先の有料部分をお読みください。

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