SNS時代の私刑――人はなぜ、謝罪した他人を許せなくなったのか?
一人の人間が、ライブ会場で取った行動が批判された。
その行動には、配慮を欠いた部分があったのかもしれない。
本人も批判を受け、謝罪した。
本来なら、そこで一つの区切りがついてもよかったはずだ。
しかし、SNSの世界では終わらなかった。
動画は切り抜かれ、国境を越え、過去の投稿が掘り起こされ、知らない人までが批判に参加する。
いつしか議論の対象は「その行動は適切だったのか」ではなく、
「この人間をどこまで叩いてよいのか」
へと変わっていく。
SNS時代に生まれた、新しい「私刑」の姿である。
■ アメリカ公演で起きたこと
今回話題となった日本人女性は、韓国の人気グループの熱心なファンとしてSNS上でも知られた存在だった。
SNS上で拡散された動画や投稿では、アメリカ公演の際、ステージから近づいてきたメンバーのSUNOOに花束を渡しながら、自身が特に応援していたNI-KIを呼んでもらおうとするようなやり取りがあったとされる。
さらに、メンバーによって用意した花束が異なっていたとの投稿も掘り起こされた。
これが一部のファンには、
「SUNOOをNI-KIに近づくための仲介役として扱った」
ように映った。
批判が起きること自体は理解できる。
アイドルとファンの世界には、独特の距離感とマナーが存在する。まして他のメンバーを自分の「推し」に近づくための手段として扱ったように見えれば、不快に感じるファンが出るのも不思議ではない。
問題は、その後だった。
数秒の映像がXやTikTokなどを通じて拡散する。
日本語圏だけではない。
英語圏、韓国語圏へと批判が広がり、過去の行動まで掘り返される。
一つの行為に対する批判が、いつの間にか一人の人間そのものに対する攻撃へ変わっていった。
■ 「行為を批判する」と「人間を罰する」は違う
ここには、非常に重要な境界線がある。
たとえば、
「その行動はSUNOOに失礼だったと思う」
これは批判である。
しかし、
「こんな人間はファンをやめろ」
「二度とライブに来るな」
「消えてほしい」
となれば話は変わってくる。
批判対象が「行為」から「人格」へ移っているからだ。
そしてSNSでは、この境界線が驚くほど簡単に消える。
なぜなのだろう。
■ 5Whys――なぜSNSでは謝罪しても許されないのか
Why 1 なぜ炎上するのか
人は「ルールを破った人間」を見ると怒りを感じる。
これはある意味、社会を維持するための正常な心理でもある。
ルール違反を誰も咎めなければ、共同体は成立しない。
Why 2 なぜ大勢が参加するのか
SNSでは批判のコストが極端に低い。
目の前の人間に直接、
「あなたは最低だ」
と言うには心理的抵抗がある。
しかしスマートフォンなら数秒で書ける。
相手の表情も見えない。
Why 3 なぜ批判が過激になるのか
普通の批判では目立たないからだ。
すでに1000人が、
「それは良くない」
と書いている場所で注目されようとすれば、
「最低だ」
「絶対に許せない」
と表現を強くする誘惑が生まれる。
怒りのインフレーションである。
Why 4 なぜ過去まで掘り返すのか
人間は、一度誰かを「悪い人間」と認識すると、その判断を裏付ける材料を探し始める。
心理学でいう確証バイアスに近い。
「今回だけではない」
「昔からこうだった」
という証拠を集めることで、自分たちの攻撃を正当化できる。
Why 5 なぜ謝罪しても終わらないのか
ここがSNS時代の最大の問題なのだと思う。
炎上が一定規模を超えると、
「被害を受けた人」と「罰を与える人」が一致しなくなる。
本人と直接関係のない数万人が裁判官になる。
しかも刑期を決める人はいない。
だから終わらない。
■ 昔の「村八分」とSNSの違い
人類の歴史を振り返れば、集団による制裁そのものは新しくない。
村社会にも村八分があった。
学校にも仲間外れがある。
会社にも社会的制裁がある。
だがSNSには決定的な違いがある。
共同体の大きさに上限がない。
昔なら100人の村で嫌われても、隣町へ行けば人生をやり直せた。
SNSでは違う。
日本で起きた炎上を韓国の人が見る。
韓国で拡散された動画をアメリカの人が見る。
さらに翻訳され、別の国へ流れる。
人類史上初めて、
一人の人間を世界中の知らない人間が同時に裁ける社会
が生まれたのである。
■ SNSが作った「終身刑」
法律には刑期がある。
会社の懲戒にも期間や程度がある。
学校の処分にも終わりがある。
なぜなら近代社会は、
「罪を犯した人間にも社会へ戻る機会を与える」
という思想を持っているからだ。
ところがSNSには刑期がない。
謝罪しても検索結果は残る。
投稿を消してもスクリーンショットが残る。
数年前の発言も掘り起こされる。
そして新しい炎上が起きるたびに、
「この人、前にもやっていた」
と再び持ち出される。
つまりSNSでは、
一度の失敗がデジタル上の前科として半永久的に保存される。
これはかなり恐ろしい社会構造である。
■ 「正義」は人を残酷にする
さらに厄介なのは、攻撃する側が必ずしも悪意を持っているわけではないことだ。
むしろ本人は、
「間違ったことを批判している」
「推しを守っている」
「被害者のために声を上げている」
と思っていることが多い。
だから止まりにくい。
自分が誰かを傷つけているという感覚より、
「自分は正しいことをしている」
という感覚の方が強いからだ。
人間は悪意だけで残酷になるのではない。
正義を確信したときにも残酷になれる。
歴史を振り返れば、この構造は決して新しくない。
SNSは、それをスマートフォン一台で可能にしただけなのかもしれない。
■ もちろん「炎上した側にも責任がある」で終わらせてはいけない
ここで誤解してはいけない。
SNSで誹謗中傷されたからといって、最初の行動がすべて正当化されるわけではない。
不適切な行動は批判されてよい。
影響力のある人なら、なおさら自分の行動に責任を持つ必要がある。
しかし、
責任を問うことと、社会的に抹殺することは違う。
この線を越えた瞬間、正義だったはずの批判は別の暴力になる。
■ そして今回、最も慎重でなければならないこと
今回報じられた悲劇について、
「SNSの誹謗中傷が原因だった」
と第三者が断定することも避けるべきだろう。
人の死に至る事情は複雑である。
外部の人間には分からない事情もある。
因果関係を単純化することは、かえって本人の人生を一つの物語へ押し込めることになりかねない。
ただし、一つだけ社会として考えるべきことはある。
もし相手が明日いなくなったとしても、自分は今日書いた言葉を「正当な批判だった」と言えるだろうか。
これはSNSを使うすべての人に向けられた問いだと思う。
■ これから起こり得る3つのシナリオ
第一は、SNS事業者による誹謗中傷対策がさらに強化される社会だ。
第二は、実名・匿名を問わず発信者責任がより重くなる社会である。
そして第三は、技術的な規制だけでは解決できず、私たち自身が「批判の作法」を学ぶ社会だ。
私は第三が最も重要だと思う。
なぜならAIが発達すれば、翻訳も拡散も検索もさらに容易になるからだ。
これからの炎上は、もっと速く国境を越える。
今日、日本語で書いた一言が、数分後には英語、韓国語、中国語、タイ語で読まれる。
SNSに国境がなくなった以上、私たちの言葉の責任にも国境はなくなる。
■ 「許す」という社会インフラ
人間は失敗する。
若者も失敗する。
大人も失敗する。
経営者も政治家も芸能人も、そしてSNSを使う私たちも失敗する。
だから文明は長い時間をかけて、
反省する。
謝罪する。
償う。
そして、やり直す。
という仕組みを作ってきた。
ところがSNSは、「やり直す」という最後の部分だけを失いつつあるのではないか。
これは決して芸能人やインフルエンサーだけの問題ではない。
いつか自分が失言するかもしれない。
家族が炎上するかもしれない。
子どもが若さゆえの失敗をするかもしれない。
そのとき私たちは、
一度失敗した人間が永遠に裁かれる社会
に暮らしたいだろうか。
■ 最後に
英国の詩人アレキサンダー・ポープは、18世紀にこう書いた。
“To err is human; to forgive, divine.”
「過つは人の常、許すは神の業。」
300年以上前の言葉である。
しかし、SNS時代ほどこの言葉が重く響く時代もない。
間違った行為を批判することは必要だ。
だが、謝罪した人間に永久に石を投げ続ける社会は、本当に成熟した社会なのだろうか。
スマートフォンの向こう側にいるのは、アカウントではない。
フォロワー数でもない。
炎上案件でもない。
一人の人間である。
SNS時代に必要なのは、もっと強い正義ではないのかもしれない。
正義をどこで止めるかを判断する知性なのだと思う。
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