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ほんやくコンニャクは夢を見るか

twitterの自動翻訳機能は、まさに「ほんやくコンニャク」だ。

世界中のtweetが母語で読めるようになり、多様なつぶやきが流れてくるようになった。
AIはこういうふうに使われるべき、という見本のようで楽しい。

ただ、最初は穏やかに食べ物の話で盛り上がっていたにもかかわらず、ヘイトと誹謗中傷の泥仕合に移行するのに大して時間はかからなかった。
言語が違えば文化が違う。
文化が違えば前提が違う。
罵倒とクソリプばかりのタイムラインを眺めていると、やっぱり分かり合えないのか、と思う一方、言葉が通じる相手でも意味が通じるとは限らないのは国内でもよくあることで、その意味では通常運転だとは言える。

通常運転といえば、どうしてこうなんだろうというような理不尽は何も国内に限ったことではなかった、というのが可視化されたのもいいことだ。

たとえば、このtweetのように。

このtweetへの共感は、言語を超えてたしかに届いた。
世界中に同じことを考える人がいる、という実感はある。
でも、もしこれが最初から日本語で書かれていたら、同じように伝わっただろうか。
翻訳された「内容」は届いても、言葉が選ばれた質感や、行間に漂うものは、原文にしかないのではないか。

このwaveに乗り遅れないように、とのことなのか、noteも同様の実装をするようだ。

初めから海外の人に読まれることを望んでいるtweetは、投稿される日本語が不自然なことが多い。
たぶん、日本語で作成して、それを外国語に翻訳したものをさらに日本語に翻訳してから投稿していると思う。
翻訳されたら自然なのかもしれないけれど、母語としては不自然だ。
主語で始まり述語で終わる文を丁寧に言い切るような感じ。
多少省略しても通じるのが日本語だし、それがらしさとも言える。

noteも生成AIの隆盛で文章をAIからそのままそっくり持ってきてる人がいる(別にそれが悪いとは思わない)。
ただ、そういった文章には少し違和感があるのですぐわかる。
多言語対応になったら、自分がここに書く言葉も、同じように質感を失って誰かに届くのだろうか。
翻訳されたとき、このエッセイはまだ私の文章だろうか。