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赤いマニキュア
障害のあるお子さんを育てる母親がネットで話題になっていた。
子どもは意思疎通が難しく、動きも激しい。
一日中つきっきりの生活について、さまざまな意見が飛び交っていた。
その画像も少し流れていたのだが、私の第一印象は「きれいなお母さんだな」ということだった。
きれいめのスーツを着て、イヤリングを着け、赤いマニキュアをしていた。
想像される育児の大変さと、その身ぎれいな感じにギャップがあった。
なぜ母親が身ぎれいにしているだけで違和感があったのだろうか。
もっと疲れた雰囲気で、普段着で、化粧をする暇もないと思っていた。
苦労をしている人は疲れ切っているだろう、と思っていた。
でも、それは私が勝手に「障害児育児はこうだろう」と頭の中で決めつけた母親像に過ぎなかった。
テレビの取材のためだったのかもしれないし、身なりを整えることがその人の日々を保つ方法だったのかもしれない。
理由なんて、いくらでも思いつけた。
第一、ひとは好きなときに好きなような格好をしていていい。
私は、「苦労している人は苦労して見えるはず」と思っていたのだ。
よく考えれば、それは障害児の母親に限った話ではない。
貧しい人はどこか質素な格好をしているはず、着古したセーターとか、色褪せたバッグとか。
忙しい人はおしゃれをしていないはず、ノーメイクで、髪もまとめただけで。
「内面や状況はそのように外見に表れる」と、頭のどこかにあった。
偏見というのは、もっと大げさなものだと思っていた。
誰かを嫌ったり、差別したり、そういうものだけを指すのだと。
でも実際には、「苦労している人は苦労して見えるはずだ」という、名前もつけていなかった思い込みが、私の中にあった。
気づいたのは、母親ではなく、自分の中の「母親像」を見たからだった。
