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片羽の蝶は、トイレに行く

数年前に、がんを患ったことがある。

甲状腺がん。喉ぼとけの下にある蝶々みたいな形をしたやつにポッコリとがんのヤツができていた。幸い初期に見つかったので、手術で甲状腺の半分をとってもらってことなきを得た。今は、すっかり傷もわからなくなり、半年に一度「変わりないですね〜」「ですね〜」と、片羽になってしまった私の蝶々を、お医者さんと一緒に観察している。平和なものだ。

入院していたのがちょうどコロナ禍のど真ん中で、入院生活は退屈なものだった。私は生粋のかまってちゃんなので、ケガや病気で人に愛情を向けてもらえることに至福の喜びを感じるタチなのだが、この時期面会が許されたのは夫のみ。しかもロビーで荷物を受け取るだけというなんとも刹那的な逢瀬だった。

見舞いという恩恵にあずかれない私は、入院中の自分の様子を自撮りでパシャパシャ撮りまくり、家族に送りつけてアピールするという積極性を見せたが、あまり心配されなかった。私のスマホに、顔色の悪い変顔写真が増えただけである。やはり見舞いは会ってなんぼなのだ。


そんな入院生活だったので、人生的には割と大きなこの出来事について、あまり印象に残っていないのだけど、唯一強烈に覚えているのが、術後の数時間だ。

麻酔から覚めた私は、喉にメスが入りたてホヤホヤなのでもちろん喋ることができない。仰向けのまま、ただただ口内に溜まっていく唾をかろうじて飲み込むという苦行の中にいた。うっかりすると気道が塞がってしまいそうで、なんとも言えない恐怖感があり、誰かに心配してほしいのだけど、話し相手もいなければ、いたとて言葉が発せない。声を失くした人魚姫の気分。思うようにならない身体と、押し寄せる心細さにじっと身を委ねるばかりだ。

なにも抗わずにスッと目を閉じてしまえば楽になれるだろうに、そういう時に限って意識はギンギンに覚醒する。普段まるで気にもならないこと、例えば、唾を飲み込んだ時のゴクリと動く喉ぼとけの感覚とか、廊下から漏れ聞こえる話し声の話題はなんだとか、お尻の定位置がなんとなく定まっていないとか、そういうどうでもよい物事に意識が支配されていく。

無性に動きたい、無性に叫びたい。何もできないとわかるほど、欲求が膨らんでいく。全細胞自意識過剰。坐禅を組んだ時のお坊さんというのは、こんな感じなんだろうか。湧き上がる煩悩を無にできたら、確かに悟りが開けそうだ。

なんか違うことを考えようとして、ふと自分の体に新たな欲が芽生えていることに気づく。あれ…これはもしかして……。


トイレに行きたい。

意識した途端、猛スピードで尿意がやってきた。先ほどまでの恐怖心なんぞどこかへすっ飛んで、そこからの私はただひたすらに、尿について考える。尿・尿・尿…。何をどう頑張っても消えてくれず、メキメキと存在感を見せつけてくる欲求。その名は尿意。

どうしよう、耐えられるか。誰か呼ぼうか。いや、トイレごときで忙しい看護師さんのお手を煩わせてはいけない。この後に及んで、遠慮しがちな日本人気質が邪魔をする。想像の中で盛大におもらしをして、その後のいたたまれなさにゾッとして、私はたまらずナースコールを押した。

「ア……カハ……コ……ギ……ケッ……カハ…」

これは尿意を我慢する人魚の精一杯の悲鳴だ。コギケ……ゴギケ……と何度か訴えて、看護師さんから「あぁ、トイレですね」のお言葉を引き出すことに成功する。通じた。相手が王子なら、ここでめでたくハッピーエンドかもしれない。だが、そんなおとぎ話のような展開にはならないのが現実なのである。

「オムツはいてますからねっ、大丈夫ですよ」

そうおっしゃって、王子は去った。私はオムツを履いていた。な〜んだ、オムツか。オムツ?何?トイレは?

そこから私の対戦相手は、尿意からオムツに変わった。所詮紙でできたパンツだ。こいつがすべてを受け止められるのか?そんなわけはない。私の膀胱は今MAXまで貯水しているのだ。物理的にそんなスペースがこの紙切れにあると思えない。オムツが破裂したら結局おもらしじゃないか。そもそも私は本当にオムツを履いてるのか。

ひとつ疑わしいことがあると、すべてが疑わしくなってくる。信じるか、信じないか。信じるしか、ない。そこまで意を決して、それでもなお、私は抵抗していた。ベッドの上で、オムツに、尿を出すということに、自分でも驚くぐらいの抵抗感があることを知った。最後の敵はなけなしのプライド。

頭ではわかっている。何も恥ずかしいことはない。私はれっきとした病人であり、手術したてホヤホヤの絶対安静状態であり、尿意を我慢できない人魚であり、オムツを履いている。答えはひとつ。オムツに己を解放すべし。そんなことは、わかってる。そのために履いてんだし。

でも身体が言うことを聞かない。私の膀胱が拒絶する。ぜってーこんなとこで出してやらんよ、と言わんばかりに門が開かない。

いけ、今だ、行け!頑張れ!
どんだけエールを送ってもダメ。

3、2、1、GO……!
カウントダウンで煽っても不発。

意思と身体がまったく一致しない。めっちゃくちゃ漏れそうなのに、出し方がわからん。これまでどうやってトイレしてたんだっけ?トイレも、呼吸も、話すことも、こんなに難しいことだっけ。私は今までどれだけ無自覚に生きてきたんだろう。極限状態の中で、哲学めいた問いまでが頭を駆け巡った。

ただそれと同じだけ、自分の身体が生きようとしていることを実感した。喉の隙間をかろうじて通り抜ける空気を逃してたまるかと全呼吸器官が必死だったし、我慢の限りに耐え忍ぶ膀胱がイキタイと叫んでいた。私はあのベッドの上で、これまでにないほどの生命力を、自分自身に感じていたのだ。

ハリウッドが絶対映画化しない束の間のドラマティック。私はジェットコースターのような葛藤の中にいた。その時間はどれぐらいだったのだろう。永遠のようにも感じられたし、実際にはほんの数分間のことだったのかもしれない。そして物語には、必ずクライマックスが訪れる。喉に流れ込んだほんの少しの唾にむせて、腹筋がゆるんだその瞬間、私のプライドを、私の命が凌駕した。解放。みなまで言うまい。全身の力が抜けて意識のすべてが放出されていく。じんわりとした温もりを下半身に感じて、私は確かに幸せだった。


退院してからしばらくこそ、スピードワゴンの小沢さんみたいな囁き声で生活していたが、皮膚がひっついて、声が戻り、私の病気は今ほとんど誰にもわからない。私自身ですら、つい忘れてしまいそうになるが、生粋のかまってちゃんの私は時々こうして話したくなる。

私は今日もトイレに行く。水を飲んで、出して、また飲んで。空気中を漂う酸素を目一杯に吸い込んで、二酸化炭素を吐き出している。昨日の夜更けに食べたポテチが胃にもたれている。寝不足の目は今日もギンギンだ。さっき口にした言葉に後悔して、明日の休みに心が躍っている。毎日嫌なことはあるが、それと同じだけ楽しみなこともある。

ままならない身体、生きててなんぼの日々すら、
すぐに忘れてしまうから。

片羽の蝶がここにいる。
私は今日も、トイレに行く。

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