ゴリラは密室から発生する
エレベーターというのは不思議な箱だ。
扉が閉まった瞬間、「ここには今、世界で自分しか存在していない」という錯覚を人に与える。
この日も私は1人でエレベーターに乗った…つもりだった。
誰もいないと確信し、安心しきった私は全体重を預ける勢いで手すりにもたれ掛かった。
その瞬間
「グエッ」
聞き慣れない、しかし明らかに生き物由来の音がした。
視線を落とすと、そこにはか細いお婆さん。
私の背後、完全なる死角に、静かに、そして健在に存在していた。
これは完全に事故だった。
だが状況だけ見れば、私はエレベーター内で突然お婆さんを圧縮しにかかった大型哺乳類である。
血の気が引いた。
重力が全部こちらに味方しているのが、こんなに怖いとは思わなかった。
「だ、大丈夫ですか!?」
慌てる私に、お婆さんはにこりと笑い
「大丈夫よ〜」
こちらの寿命を縮めるほどの優しさで許してくれた。
なんだこの人間としての格の差は。
エレベーターを降りるまでの数秒間、私はもう何度も謝り、心の中では土下座を繰り返していた。
その後、私はふと想像してしまった。
お婆さんが家に帰り、夕飯の席でこう話す場面を。
「今日ねぇ、エレベーターでね……前から突然、ゴリラみたいな女がドーンって……死ぬかと思ったわ〜」
完全に近所の語り草である。
ゴリラ女、エレベーター出没。
幸い私は逮捕もされず、ニュースにもならずに帰宅できたが、この日以来、エレベーターでは必ず背後確認をするようになった。
エレベーターは密室ではない。
見えていないだけで、人は必ずそこにいる。
そして油断したゴリラは、いつか誰かを圧死させかねない。
今日も私は、人間として、静かに手すりから距離を取っている。
