ジョン・ワッツ監督 『スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』 : 重い王冠の行方
映画評:ジョン・ワッツ監督『スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』(2019年/アメリカ映画)
ジョン・ワッツ監督による「スパイダーマン」の2作目。「アベンジャーズ」の活躍を描く「マーベル・シネマティック・ユニバース」(MCU)に加わったスパイダーマンの世界を描くシリーズだ。
もっとも、本作は『アベンジャーズ エンドゲーム』で、アイアンマンや初代キャプテン・アメリカなどアベンジャーズ1期生とも呼ぶべきメンバーの多くが失われた後の世界を描いている。

本作の「あらすじ」は、次のとおり。
『夏休みに学校の研修旅行でヨーロッパへ行くことになったピーター(※ トム・ホランド)は、旅行中に思いを寄せるMJ(※ ゼンデイヤ)に告白しようと計画していた。最初の目的地であるベネチアに着いたピーターたちは水の都を満喫するが、そこに水を操るモンスターが出現。街は大混乱に陥るが、突如現れた謎のヒーロー、ミステリオが人々の危機を救う。さらに、ピーターの前には元「S.H.I.E.L.D.」長官でアベンジャーズを影から支えてきたニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)が現れ、ピーターをミステリオことベック(※ ジェイク・ギレンホールド)に引き合わせる。ベックは、自分の世界を滅ぼした「エレメンタルズ」と呼ばれる自然の力を操る存在が、ピーターたちの世界にも現れたことを告げる。』
(映画.com『スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』、※ は引用者補足)
本作の「ストーリー」については、「Wikipedia」の方でラストまでかなり詳しく紹介されているが、長くなるので、こちらでは、物語の発端だけを紹介した「映画.com」の当該ページから引用した。
本稿においても、「内容紹介」ではなく、あくまでも「作品論」を意図としているので、いわゆる「ネタバレ」もあると思っていただきたい。







さて、ジョン・ワッツ版の1作目『スパイダーマン ホームカミング』については、私はすでにレビューを書いており、そこでワッツによる「三部作」の展開の大筋をバラしている。以下のとおりだ。
『前述の河野書(※ 河野真太郎『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』)によれば、ワッツ版「スパイダーマン」の第2作目では、スパイダーマンは敵の策謀によって、世間に正体をバラされ、さらに「悪役」の濡れ衣まで着せられる。また、そうしたこともあって第3作目では、彼の存在自体が人々の記憶から消されてしまうという、つらい展開になるという。』
しかしこのネタ割りは、「ワッツ版三部作」を見て論じようと考えた理由が、河野書の「読み」に対する不満にあったためである。
つまり、河野の読みが、この「三部作」についての作品論として適切なものであったか否かを確認した上で、物足りなく感じた部分を論じようと、私は考えたのだ。だから、三部作の流れを、簡単にでも、あらかじめ紹介せざるを得なかったのである。
ところが、1作目の『カミングホーム』では、まだ河野真太郎が論じたテーマである『第1次 ドナルド・トランプ政権の「ポストトゥルースの時代」を反映した作品』というところまでは、制作年代的にも届いていなかった。そのため、前記の狙いについては、2作目、3作目のレビューに譲りたいと、次のように書いておいたのである。
『今さら(※ ワッツ版三部作を)見てみようという気になったのは、先日読んだ、河野真太郎『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』(集英社新書)の中で、ジョン・ワッツ版の3作が紹介されており、特に第2作と第3作が、第1次ドナルド・トランプ政権の「ポストトゥルースの時代」を反映した作品になっていると評されていたので、その点に興味を持ったためである。
河野はそこで、「ポストトゥルースの時代」つまり「真実後の時代=唯一の真実というものが見失われた時代」における「ヒーロー」とは、どのようなものであり得るのかということを論じている。
「真実」が見失われるということは「善悪」判断も見失われるということであり、そんな時代に「ヒーローは、正義を体現する存在であり得るのか」という問いに対して、河野は「それが困難になっている」と、まあ、たしかにその通りではあるものの、良くも悪くも「判断保留」を語るに止めていた。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/nd8623c39a57f
そして、そんな河野真太郎の「考察」に物足りなさを感じたので、ヒーローには一家言あるつもりの私は、「それならば」と、この「ワッツ版三部作」を見ることにしたのである。』
では、ワッツ版の2作目となる本作『スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』(以下『ファー・フロム・ホーム』または2作目と略記)では、上の課題について検討するだけの内容が語られていたのか?
たしかに語られていた。河野真太郎が本作を『第1次ドナルド・トランプ政権の「ポストトゥルースの時代」を反映した作品』と評する論拠となった「進化したディープフェイクで、スパイダーマンを騙す」という展開が、本作には描かれていたのだ。
しかし、それをして『第1次ドナルド・トランプ政権の「ポストトゥルースの時代」を反映した作品』とまで言うのは、いささか「大袈裟に過ぎるのではないか」というのが、私の率直な感想だった。
たしかに「今の時代」だからこそ、スパイダーマンを騙すための「偽映像」制作描写にリアリティを持たせることができている、とまでは言えるだろう。
だが、「悪者の偽情報によって、ヒーローが大衆から悪者だと誤解されて、逆境に立たされる」という展開は、昔から「よくあるパターン」のひとつでしかない。その意味では、仰々しく『第1次ドナルド・トランプ政権の「ポストトゥルースの時代」を反映した作品』などと評するほどのものとは思えず、単に、映画作品を、当たり前の作品論ではなく、時代論や状況論として語れば、そういう「社会批評」に慣れていない「読者大衆に感心してもらえる」と、そういったところを狙った、単なる「権威主義的な批評」なのではないかと、いささか意地悪な見方ではあれ、私にはそう感じられたのである。
じつさい、『時代論や状況論』として見た場合にも、河野の議論は「薄っぺらい」という印象が否めなかったのだ。
そんなわけで、私の評価としては、このシリーズを『第1次ドナルド・トランプ政権の「ポストトゥルースの時代」を反映した作品』と評するのは、「ためにするもの」でしかないということになった。
したがってここからは、オーソドックな、あるいは正統派の「作品評」を書きたいと思う。
まず、最初に指摘しておくべきは、明らかに本作は、3作目の作られることを前提として作られている、ということだ。
というのも、「Wikipedia」に書かれているとおり、本作の『ポストクレジット・シーン』で、3作目において「大きな展開」のあることが暗示されているからである。
『ポストクレジット・シーン。フューリーに化けていたスクラル人・タロスは、マリア・ヒルに化けていた妻のソレンに苦言を呈されながら、電話でフューリー本人に顛末を説明する。宇宙船の中、いずこかのビーチのホログラムを鑑賞していたフューリーは、タロスの報告に立ち上がり、船内のスクラル人たちに「仕事の時間だ」と告げる。』
(Wikipedia 『スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』)
本作『ファー・フロム・ホーム』では、物語冒頭から、『アベンジャーズ エンドゲーム』に描かれた災厄を生き残ったニック・フューリーが登場するのだが、このフューリーは、本編中では終始、偽ヒーローであった「ミステリオ」ことクエンティン・ベックに欺かれていたことになっている。
本作で、スパイダーマンことピーター少年がベックに騙されてしまうのも、ベックを味方として紹介したのがフューリーだったというのが大きいはずで、必ずしもピーターの不用意さや「信じやすさ」を責めることはできないだろう。普通、あそこまでやられたら、誰だって信じてしまうからだ。

したがって、問題は、歴戦の勇者であるニック・フューリーが、小賢しい悪党のベックに騙されていたというのは、いささか無理があって、合点のいきかねるという点にあったのだが、上の「ポストクレジット・シーン」での種明かしのよって、その不自然さにも、完全に解消されたのだ。
つまり、フューリーが騙されていたのではなく、騙されていたのはフューリーの指示でフューリーになりすましていた(化けていた)スクラル人・タロスであったことが明かされるのであり、たぶん、フューリーは最初からベックが偽ヒーローであることを見抜いた上で、来るべき本番の『仕事』に備えて、遠くからピーターの成長を見守っていた、ということなのではないだろうか。つまり、あえてベックを泳がせていた。

この「フューリーがすべて見抜いた上で、ベックを泳がせていた」という解釈は、いまひとつ自信はないのだが、まあ、フューリーの実績からすれば、そう考えるのが妥当であろうし、だとすれば、この「ミステリオ事件」では、被害者や犠牲者は「一人も出ていない」はずである。
では、実際にどうであったか? そんな細かいところまでは見ていなかったので、確たる自信は無い。だか、かと言って、確認のためにもう一度見ようとまでは思わないので、気になる方は各自でご確認いただきたい。
さて、では本作では、いったい何が描かれたのであろうか?
一一私の見たところ、それは「ピーターの更なる成長」である。
前作の内容は「ヒーロー的な活躍に憧れて無茶をする子供だったピーターが、挫折経験を経てヒーローの自覚を持つようになる」物語だったと、おおむねこのように評した。
では、本作では、ピーターは「完全に一人前のヒーロー」になっているのかと言えば、決してそうではない。
というのも、本作でのピーターは、ヒーローとしての活躍よりも「当たり前の青春」を求める少年に変わっていたからである。
つまり、父と慕ったアイアンマンことトニー・スターク(※ ロバート・ダウニー・Jr.)の自己犠牲的な死をすでに経験していた本作のピーターは、ヒーローとは、きわめて「つらい生き方を強いられる」ものだということもまた、すでに学んでいる。
だから、そんな彼が「普通の人間」として生きたいと感じるようになっていたとしても、なんの不思議もないのである。

だが、彼は本作で、トニー・スタークから、彼を「後継者」だと認める証拠としての遺品たる「特殊なサングラス」を譲られるのだが、そのサングラスをピーターに手渡した、ハッピーことハロルド・ホーガン(※ ジョン・ファヴロー)から、
『王冠を戴く者は、安眠できない。』
という、スタークの言葉を伝えられるのである。
つまり、トニー・スタークの後継者になったからには、安眠できるような「平和な人生は歩めない」ものと覚悟しなければならない、ということだ。

これは、いくらかの経験を積んだピーターが、ヒーローとして生きることに対して、やや腰が引けていたこの時期に、まるで狙い澄ましたかのように「釘を刺す」ものだったと言えるだろう。
つまり、「普通の人生を歩みたい」という気持ちが湧いてきた反面、すでにトニー・スタークの後継者に選ばれたからには、後へは退けないという気持ちも、ピーターにはあるのだ。
そのため、本作のピーターは、その2つの生き方のはざまで「迷っている」段階なのだ。まだ「ヒーローとしてのつらく厳しい人生」を歩む覚悟が定まっていないのである。
したがって、本作でニック・フューリーが、遠くでピーターを見守りながら、何を意図していたのかと言えば、それはたぶん、彼にアイアンマンの後継者としての覚悟を決めさせることだったのではないだろうか。
またそのために、ベック=ミステリオを利用してピーターに試練を与えることで、次なる大きな展開への準備を整えさせた…。
その意味では、本作でピーターが、トニー・スタークの「後継者」である証しであるサングラスを、騙されたとはいえベックに渡してしまい、最終的にはそれを取り戻す、という展開は、「普通の人生を歩みたい=後継者としての重い王冠を手放したい」という思いと「ヒーローとしてのつらい人生を歩む=重い王冠を戴く」という思いとの葛藤を、そのままなぞった展開になっていると言えよう。もちろん、ピーターが最後に選んだのは、後者であった。


しかし、このように考えると、本作はそうした重い内容のわりには「妙に明るい」物語になっているのではないかと、そう訝しむ人も少なくないだろう。
その通り。たしかに本作のピーターは、最終的にMJとの恋が実ることに象徴されるように、とにかく「青春している」明るく楽しい、幸福なシーンが多いのだ。



しかし、これは、すでに紹介した3作目『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』における「あまりにもつらい展開」を前に与えられた、最後の「当たり前の人生」であり「青春の日々の思い出」となるものだったと、そういうことなのではないだろうか。
じっさいピーターは、第3作では、そうした「思い出」だけを胸に、孤独を生きる「ヒーローの道」を歩むことになるはずだ。
つまり、この三部作は、3作を通じて「普通の少年だったピーターが、孤独を生きる真のヒーローに成長するまでの物語」を描いたシリーズだと、そう言えるのではないだろうか。
また、この三部作が「旅」をテーマとしているのも、そうした「含み」があってのことではなかったか。
私のワッツ版「スパイダーマン」への評価は、すでにおおむね出揃ってしまったようだが、この「読み」がどの程度、この三部作の本質を射抜いているのかを、次なる3作目で確かめてみることにしたい。
(2025年3月6日)
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