クリストファー・ノーラン監督 『インソムニア』 : 悪夢的な〈心理の迷宮〉
映画評:クリストファー・ノーラン監督『インソムニア』(2002年/アメリカ映画)
『フォロウィング』、『メメント』に続く、クリストファー・ノーラン監督の長編第3作。
『バットマン ビギンズ』の前の作品で、ノーランがまだ、「知る人ぞ知る」存在でしかなかった時代の作品だと言えるだろう。
のちの作品を含めて言えば、本作は、比較的ノーランノーランしていない部類の作品だと言えるだろう。一一どういうことか。
ノーランの作品というのは、過去(記憶)が切り刻まれて、パズルピースのように現在というベースの上に並べられるといった感じの、複雑な構成を採るものが多い。
だから最初のうちは「このカットは何を意味するんだろう?」などと思わされたりする。だが、推測を重ねながら難解な物語を追っていくと、そうしたすべてのピースが、ラストで「ひとつの絵」を完成させて、なるほどそうだったのかと、感心させられる。一一そんな作品が多いのだ。
その「最たるもの」と言うか、やりすぎ感すらあったのが、(私がこれまで見た範囲で言うと)『メメント』だということになるだろう。
『メメント』は、「パズル映画」とでも呼ぶべき、きわめて技巧的な、複雑な作りの作品だったのである。
だが、本作『インソムニア』は、そうしたノーランの「パズル趣味」「複雑な構成趣味」が比較的前面には出なかった作品で、本作の中心となるのは「複雑な人間心理」である。
「物語構成」中心の技巧的な作品ではなく、主人公の揺れ動く「心理」の機微を描いた、「心理サスペンス」作品なのだ。

無論、ノーランらしい「パズルピースの配置」的な要素もあるにはあるのだが、それがメインではない。
言うなれば、ノーランは本作で、主人公の「心理」を、複雑な「パズル」として提出しているのである。
「彼は、その時々、何を考えていたのか?」と、そう観客に問うているのだ。
それにしてもなぜ、本作は、ノーランらしくない「心理サスペンス」色の濃厚な作品になったのか?
それは本作が、「リメイク作品」だったためである。
オリジナルである同題ノルウェー映画の、リメイク作品。
リメイクである以上は、一定程度、オリジナルを尊重し、敬意を示した作品でなければならない。その上でなら、個性を出すこともできると、そんな縛りのある作品だったのだ。
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本作では、違法捜査の嫌疑がかけられ、内務監察部の調査対象となっている、ニューヨーク市警の敏腕刑事ドーマーを、アル・パチーノが演じている。

ドーマーか違法捜査に手を染めたのは、事実だ。
ただ、彼の違法捜査とは、そのままでは無罪になるしかなかった凶悪な殺人犯を、有罪にするための、「証拠の捏造」ということであった。
惨殺された少年のことを思えば、ドーマーはどうしても、その犯人が許せなかった。そんな彼の正義感が暴走した結果の、違法捜査であった。
ドーマーは決して、私利私欲に駆られた「悪徳警官」などではなかったのである。
ただ、内務監察部の調査は、すでに彼の身辺にまで迫っており、そんな立場の彼は、言うなれば「一時左遷」的なものとして、相棒のハップ・エックハート(マーティン・ドノヴァン)と共に、白夜のアラスカの町ナイトミュートで発生した「少女殺害事件」の、応援捜査員として派遣される。
しかし、ドーマーにそうした事情のあることを知らない地元警察の若手女性警官エリー・バー(ヒラリー・スワンク)は、著書さえある有名刑事の応援派遣を、大歓迎して受け入れる。


ドーマーが中心となって動き出した「少女殺人事件」の捜査の過程で、ドーマーは犯人を、犯行現場である山小屋におびき寄せることに成功する。
だが、地元警官のミスで、犯人に張り込みを気どられ、濃い霧の中に逃げられてしまう。
真っ白な濃霧の中、必死に犯人を追うドーマーたちを、霧に姿の霞んだ犯人が、逃げながら銃撃してくる。
そして、そうした追跡劇のさなかに、ドーマーは、相棒のハップを誤って射殺するという事故をひき起こしてしまうのだ。


だが問題は、それ以前にあった。
ハップがドーマーに「内務監察部に聴き取りに応じて、貴方の違法捜査を、そのまま報告するつもりだ」と告げていたのである。
それまでは、敏腕刑事の陰に隠れた存在でしかなかったハップは、ドーマーのせいで、自分まで職を失う必要はないと、そう判断していたのだ。
だが、ドーマーにとって、ハップのこの選択は、背信であり、裏切りでしかなかった。
ドーマーがどうして「証拠の捏造」などということに手を染めたのか、その理由をハップは重々承知していた。だからこそ、彼もそれを黙認していたのである。
それなのに、自分の身が危うくなると、ハップは自分だけが助かろうと、裏切りを決断し、そうドーマーに告げていた。
そしてそのことにドーマーは、長年の相棒を「売るのか」と、ハップに激怒していたのである。
一一だから、霧の中で、犯人と思しき人影を銃撃し、倒れたその人影に近寄り、それがハップであったと気づいた時のドーマーの反応は微妙なものであった。
たしかに「誤射」だった。
だが、彼の銃弾は、明らかにハップに致命傷を負わせていた。つまり、すぐに治療しなければハップが死ぬというのは、ベテラン刑事であるドーマーの目には明らかだった。
銃弾に倒れたハップは、彼を助け起こそうとするドーマーに怯えながら、息も絶え絶えに「わざと俺を撃ったんだな」と言う。
そんなハップに対し、ドーマーは「そうじゃない」と言い訳しながらも、すぐに助けを呼ぼうとはせず、結局ハップは、その場で息絶えてしまう。
そして、それを見届けるようにしてドーマーは、大声あげて助けを呼び、集まってきた地元警官たちに「ハップが撃たれた」と、曖昧に嘘をついたのである。
つまり、ドーマーは、基本的には「正義漢」なのだが、それが過ぎて、「証拠の捏造」に走ってしまった「犯罪者」でもある。
しかし彼には、「刑事としてのプライド」もあれば、「証拠を捏造してまで有罪にした、極悪犯罪者を無罪放免にするわけにはいかない」という強い気持ちもある。
また、ハップを撃ってしまったのは、あくまでも「過失」であって、「口封じ」のために、故意に撃ったわけではない、というのも事実である。
だが、彼がハップを撃ったという事実を認めたら、内務監察部がドーマーの言い分を信用するという保証など、どこにもない。
だから、ドーマーは、つい嘘をついてしまった。
「黙っていれば、決してバレはしない。それで万事片づく」という「悪魔の囁き」に、彼は耳を貸してしまったのである。
一一しかし、その日から彼は「不眠」に悩まされるようになる。
そしてそんな彼のところへ、さらなる「悪魔の囁き」の如き、少女殺害犯からの電話がかかってくる。
「私は、君が同僚を誤射したところを見ていたんだ。あれは確かに誤射だった。不幸な事故だったんだ。だから、君は何も悪くない。しかし、それは私も同じなんだ。私も彼女を殺そうと思って殺したんじゃない。あれは事故だったんだ。だが、それが表沙汰になったら、私は破滅することになる。だから、手を組まないか?」
一一そう誘ってきたのである。

無論、正義漢であるドーマーは、当初は、これを拒絶し、犯人を捕まえようと捜査を続け、ついに犯人が、被害少女がファンであったミステリ小説家のフィンチ(ロビン・ウィリアムズ)であることをつきとめる。


だかフィンチは、彼を追い詰めたドーマーに対して、
「私を捕まえるということは、君自身、同僚殺しの嫌疑が掛けられて、身の破滅を招くことにもなるということだぞ。そして、君が有罪にした、許すまじき凶悪犯を放免することにもなる。本当に、それでも良いのか? 私たちのやったことは、何も悪意があってのことではなく、事故でしかなかった。それなのに、それでも君は、私を罰したいというのか?」
と、言葉巧みに説得し、またドーマーとのやりとりの録音をちらつかせることで、ついにドーマーを屈服させてしまう。
しかし、そんなドーマーの様子の変化に、彼に憧れる女性警官のエリーは気づき、やがて事件の真相に迫って、一人でフィンチとの対決に赴いてしまうのだ。
以上を、「Wikipedia」での「ストーリー」として紹介すると、次のようになる。
『白夜のアラスカの田舎町ナイトミュートで、17歳の少女が撲殺される事件が発生し、応援としてロス市警からドーマー刑事と相棒のハップ・エッカートが派遣される。一方、ロサンゼルスでは、内務監察部による、過去のドーマーの捜査に対する調査が進んでいた。エッカートは、内務監査部から証言を求められていた。手がかりを残さない(※ 少女殺害)犯人をおびき寄せるためドーマーは罠を仕掛け、犯人を山小屋におびき出すことに成功する。しかし、深い霧の中での追跡で、彼は犯人と誤ってエッカートを射殺してしまう。だが、警察での取調べで、ドーマーは、自分がエッカートを撃ったとはいわず、撃たれたエッカートを発見したと証言した。このエッカートが死亡した事故については、地元の刑事エリ・バーが調査することになった。自責感と日の沈まない白夜に悩まされ、不眠症に陥ったドーマーのもとに、犯人が電話をかけてきた。自分が犯した少女殺しと、ドーマーのエッカート射殺について取引をしようというのだ。ドーマーはやむなく犯人と直接対決するために、犯人が会合場所として指定したフェリーへ向かうのだった。フェリーのなかで、犯人とドーマーは、今後について話あうのだが、犯人は、殺された少女のボーイフレンドのランディ・ステッツを犯人にしたてあげよう、と提案する。ドーマーは、それには反対するが、フェリーのなかでの会話を、犯人が隠しもったマイクロテープレコーダーに録音されてしまう。』
(Wikipedia「インソムニア」)

以上からわかるとおり、ハップの誤射殺以来、ドーマーの心は揺れ動いており、彼自身、自分の気持ちがわからなくなりかけていた。
そこへ不眠症が追い打ちをかけ、フィンチの誘惑までが加わって、彼を取り巻く世界は、まるで「悪夢」の様相を呈していくのだ。
そんなわけで、本作の「結末」自体は、さほど重要ではない。
本作が描こうとしたのは「結論」ではなく、ドーマーの揺れ動く心であり、自分自身でさえ、完全には了解しかねる「複雑な心理」なのだ。
「あの時の俺には、本当に殺意は無かったのか? 少なくとも、ハップがこのまま死んでくれたらと思ったのではないのか?」
「俺は、あの憎むべき犯罪者を放免したくないから嘘をついたのか? それとも、結局は自分可愛さの保身のために嘘をついたのか?」
そんな「解答の与えられない疑問」につきまとわれる、心理の悪夢的な迷宮世界を描いたのが本作なのである。
ドーマー自身にも判じかねる彼の「本心」など、もちろん誰にも判じかねるまま、この物語は幕を閉じることになる。
「もう、そんなことは考えたくない。ただぐっすりと眠りたいんだ」と、そう言わんばかりに。
したがって本作は、「心理」中心という意味では、ノーランらしくない作品ではあるのだけれど、「複雑で難解な謎」を中心とした迷宮的世界を描いた作品という点においては、やはり「クリストファー・ノーランの世界」であることに、なんら変わりはないのである。

(2025年8月3日)
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