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M・ナイト・シャマラン監督 『サイン』 : 宣伝上手の薄っぺらい映画

映画評:M・ナイト・シャマラン監督『サイン』(2002年/アメリカ映画)

いわゆる【ネタバレ】を問題にするほどの作品ではない
だが、それが気になる人は、本稿を読まない方がいい。

いわゆる【ネタバレ】が問題になるような「謎」についての「真相」が、あまりにも何の捻りもない馬鹿馬鹿しいものなので、本稿ではそれを、遠慮なく、この後すぐにバラすからだ。

本作は、アメリカの田舎町に住む元牧師グラハム・ヘスメル・ギブソン)の一家が所有するトウモロコシ畑に、ある日忽然とミステリーサークルが出現したことに始まる。

(トウモロコシ畑の中に、巨大なミステリーサークルを発見する)

ミステリーサークルとは、畑など出現する巨大な「謎の紋様」のことだ。
一時期は、世界各地で発見され、「宇宙人が残した、人類に対する何かのサイン(メッセージ)では」とか、「いや、あんなものは簡単に作れるから、人間による単なるイタズラにすぎないよ」などと騒がれた、『ムー』的な「不思議現象」のことである。

『妻の事故死を境に牧師を辞めたグラハムは、弟のメリル、そして二人の子供達と静かに暮らしていた。しかしその家族の前に様々な兆候(サイン)が現れる。愛犬の暴走、畑に出現したミステリーサークル、家の周りに出没する姿の見えない謎の存在。そしてサインは世界各地に現れるようになった。』

(Wikipedia「サイン」

もちろん、本作(の少なくとも前半)を牽引する「謎」とは、このミステリーサークルを描いたのは「何者なのか?」ということである。

それは「UFOで飛来した宇宙人によるものなのか、それもと人間によるイタズラか」ということなのだが、もう、この段階で、どっちが真相にしろ、その真相自体には、新味も意外性もないと言える。
だからこそ、「ネタバレ」など気にする価値のない作品なのだ。

ミステリーサークルの真相が、「宇宙人のしわざ」であろうと「人間のしわざ」であろうと、どっちにしろ「そのまんま」なのだから、その真相自体は、くだらない。

言い換えれば、本作では肝心なのは、「だれの犯行か?(フーダニット)」や「どうやったのか(ハウダニット)」ではなく、「なぜやったのか?(ホワイダニット)」という謎でなければならない。
その「動機」さえ面白ければ、「なるほど」と感心することのできる作品になったはずなのだが、本作の場合は、この「ホワイダニット」でもないのだ。

つまり、「なるほど」と納得でき、かつ「意表をついた真相」などではなく、まんま「宇宙人」が描いた「UFOの着陸ポイントを示す目印(サイン)」、だったのである。

ミステリーサークルを描いたのは「宇宙人なのか人間なのか」で引っ張っていき、その真相は「やっぱり宇宙人によるものでした」という、何の曲もないものだったのだ。

後半では、世界各地にUFOが大量に出現して、ミステリーサークルの描かれた場所に続々と着陸し、宇宙人が出て来て人間を攻撃し始めるのである。
一一まるで、冗談のように「出来の悪すぎる漫画」だ。

ただし、本作の売りは、この「宇宙人の侵略」を描くスペクタクルにあるのではない

と言うのも本作は、あくまでも主人公の元牧師グラハムの視点で描かれるので、世界各地にUFOが出現して人間を襲っている「らしい」というのは、テレビニュースのかたちで、グラハムら一家(グラハム、グラハムの弟、息子、娘の4人家族)に伝えられるだけなのだ。

まだ、宇宙人のしわざだとは確定しなかった段階で子供たちが察知していた「謎のサイン」などもあって、グラハムは宇宙人の襲来を確信する。
そして、宇宙人がトウモロコシ畑に降りてくるのに備えて、家に立て篭もるため、以降、家の外のことは、テレビニュースで知らされること以外は、何も描かれないのである。

(レシーバーに入ってくる不思議な音を捉えようと、車の屋根の乗ってレシーバーを空に差し上げる)

ちなみに、家から出て他所に逃げなかったのは、子供たちが、亡くなった母と暮らした家を捨てたくないと主張したからだ。

そんなわけで本作は、宇宙人の侵略を見せるスペクタクル映画ではなく、家の中に閉じこもった一家が、じわじわと押し寄せる(姿の見えない)宇宙人の脅威に怯える様子を描いた、心理サスペンスホラーとでも呼ぶべき作品なのだ。
つまり、いつものナイト・シャマランなのである。

(不思議な電波に捉えられないよう、アルミホイールで作った帽子をかぶる、メリルとグラハムの子供たち)

そして最後は、1体の宇宙人がヘス家の中にまで入って来て、グラハムと弟のメリルホアキン・フェニックス)と直接対決して、二人はこの宇宙人を物理的にやっつけ、撃退してしまう。
そしてその頃には、宇宙人の弱点が(なんと素朴にも)「水」だと判明したので、世界の各地で宇宙人は撃退され、人類は宇宙人による脅威を免れて、めでたしめでたしとなる。

だが、さすがにこれだけでは「三流以下のバカ映画」になってしまうので、そこはもうひと捻りが加えられている。一一そのひと捻りは何か?

本作の中で、しばしば口にされる言葉に、

人間には、二つのタイプがいる。不思議な偶然を、ただの偶然だと片づけてしまう人と、そこに偶然以上の何らかの意味を見出す人だ

つまり、平たく言えば「唯物論者と信仰者」ということである。

本作の主人公グラハムが、なぜ「元牧師」なのか。なぜ、この一家は、物語の冒頭から、何かに憑かれたような暗い顔をしているのか?

それは、グラハムの妻が散歩に出た先で、不幸な交通事故に遭って、悲惨な死に方をしたからである。

車と街路樹に挟まれ、下半身を完全に粉砕されて、絶対に助からない重症を負った。

しかし、奇跡的にもグラハムの妻は、その状態で、しばらくは意識を保ったまま生きていたので、急遽現場に呼び寄せられたグラハムは、瀕死の妻と最後の言葉を交わすことだけは出来たのである。

つまり、この事故があって、グラハムは信仰を捨てたのだ。
優しく曲がったところなどない妻が、こんな死に方をする理由なんてない。この世には神も仏もいないのだ一一と、そう確信して、グラハムは信仰を捨てたのである。

しかし、グラハムの妻が死の直前、朦朧とした意識の中で残した言葉、

グラハム、見て…。メリルは打って…

という言葉が、ラストの「伏線」になっている。

グラハムは、妻のこの末期の言葉を、意識の混濁によるものだと、当たり前に理解した。何かを思い出して、そのことを語ったのだろうと考えたのである。

(グラハムとメリルの兄弟。本作は基本的に「室内劇」なので、ほとんどずっと画面が暗い)

ちなみに「メリルは打って」というのは、グラハムの弟のメリルが、元はマイナーリーグのプロ野球選手だったことから来ている言葉だ。
メリルは、たまにどデカいホームランを打つスラッガーとして知られていたものの、いかんせん、何でもかんでもバットをブン回して三振ばかりしている選手だったために、解雇されてしまった人だったのだ。

で、この「グラハム、見て…。メリルは打って…」という妻の残した言葉が、のちのどんな「伏線」となっているのか。

それは、一体の宇宙人が、窓の板貼りを破って、とうとうヘス家の中に入って来た際のことだ。その人型宇宙人は、グラハムの喘息持ちの息子を奪い、抱き抱えたその子に瘴気を吐きかけて殺そうとした。

その時、手元に武器のなかったグラハムは、息子を助け宇宙人を撃退するための武器になる物はないかと部屋の中を見回すと、壁に、メリルが昔使っていた野球のバットが飾られているのが目についた。
それでグラハムは、その側に立っていたメリルに「あのバットで、宇宙人を思いきり打て!」と命じ、メリルは、強打者だったその実力を発揮して、みごと宇宙人を叩き殺すのである。

(窓から家に侵入してきた宇宙人に、バット1本で立ち向かうメリル。シャマランは、アルミホイール帽やこうしたシーンに「ユーモア」を込めたつもりなのだろうが、「信仰(意味)の回復」という後半のテーマからすれば、こうしたシーンは軽すぎて「ふざけている」という印象すら与えるものでしかない)

一一つまり、妻の残した「グラハム、見て…。メリルは打って…」という言葉は、この危機を予知してなされたものであり、グラハムには「周囲をよく見なさい」という助言であり、そしてメリルには「あなたはそれで打ちなさい」という指示だったというのが「判明」するのだ。

ちなみに、宇宙人から瘴気を吐きかけられたグラハムの息子が無事だったのは、宇宙人の襲来に備えて、一家で地下室に立てこもった際、うっかり喘息の薬を持ち込むのを忘れ、そのために息子は瀕死の状態で、意識を失っていたためである。

つまり、妻の残した言葉が、宇宙人退治を予見する助言であったかのようなものであったのも、息子が喘息の薬を地下室に持ち込むのを忘れて喘息を悪化させ、そのお陰で宇宙人の瘴気攻撃から助かったのも、すべては「偶然」と言ってしまえば、偶然にすぎないのだが、こうした経験をしたグラハムは、これを偶然だとは考えなかった

「それらはすべて、意味のあることだったんだ」と、そう考えられるようになった彼は、本作のラストシーンでは、牧師服を着て教会へと出かけていくのである。
つまり、グラハムは「信仰を取り戻した」のだ。

それで、めでたしめでたしのハッピーエンド。一一というのが、本作なのである。

したがって本作は、単なる「宇宙人による侵略もの」なのではなく、「世界の意味性の回復の物語」だと、そう理解できるように作られている
単なるB級映画ではないんだよ、というふうになっているのだ。

だが、はっきり言って、この程度のことで、「信仰の回復」だとか「世界の意味性の回復」だなどと言うのは、大げさにも程があろう。

なぜなら、この現実世界には、「無意味な死」が満ち満ちているからだ。
例えば「ナチスドイツによるユダヤ人虐殺」もそうだし、「イスラエルによるガザへの無差別攻撃による虐殺」もそうだ。
たまたま道を歩いていて、見も知らぬ人物に殺される「通り魔殺人の被害者」だってそうだ。

そこで殺された人々には、殺されるような理由などなかったのに、ただ殺されたのである。そこには、「神様」など存在しなかったのだ。

それに、グラハムのようにわざわざ牧師になるような人は、当然、こうした歴史的・現実的な事実を踏まえた上で、それでも神の存在を信じ、信仰し、牧師にまでなったはずなのである。
「そこにも、神の深いご意志が働いていたはずだと、私は信ずる」と。

それなのに、妻の「無意味な死」に直面して、「神も仏もいない」などと絶望するというのは、(一般信徒ならばともかく)あんまりな話なのである。

たしかに、現実には、そんな頼りない信仰心しか持たない牧師や神父など、いくらでもいるだろう。
だが、本作はフィクションなのだから、その主人公が、その「軽信」のゆえに、すぐに神を信じたり、疑ったり、また信じたりするようでは、お話にならない

だが、結局のところグラハムは、そうした「薄っぺらな盲信者」として描かれてしまっている。

そして、物語の上っ面しか見ない者は、シャマランの描いた表面的な「良い話」に騙されてしまうのだろう。
だが、普通に考えて、本作のグラハムの信仰は、あまりにも薄っぺらすぎて、感動に値いするようなものにはなっていないのである。

したがって本作は、「宇宙人の侵略もの」としては無論、「信仰(意味)の回復」という「人間ドラマ」としても、薄っぺらい。

こんな、いかにも薄っぺらい「人間ドラマ」が、「宇宙人の侵略物語」に付け足されたところで、本作は、評価に値するものになど、なってはいないのである。

つまり本作は、「信仰の回復」という「聞こえの良い話」を貼り付けることで、馬鹿馬鹿しい物語を「意味深い物語」であるかのように見せかけただけの作品であり、「無理に意味づけをしただけのB級映画」でしかない。

本作では、「神」の立場にいるシャマランが、意識的に作中の「サイン」を有意味化したけれど、現実においては、シャマラン映画に描かれたような、わかりやすい「神」など存在してはいない。

つまり本作は、「現実に拮抗する力」を持たない、所詮は安易な作り事でしかなく、その域を一歩も出ない凡作なのである。

言い換えれば、シャマラン自身は、本気で「神」を信じてはいないし、良い作品を作ればそれが人々を深く感動させ、長い目で見れば必ず高い評価が得られるはずだ、とも思っていない。
「映画の力」を、本気で信じてはいないのだ。

だから、こんな薄っぺらい、取ってつけたような、子供騙しの映画を作ってしまうのである。


(2025年12月7日)


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