土井裕泰監督・坂元裕二脚本 『花束みたいな恋をした』 : 花束みたいな恋?
映画評:土井裕泰監督・坂元裕二脚本『花束みたいな恋をした』(2021年)
菅田将暉と有村架純の主演による、純愛ラブストーリー映画である。

この作品を論じずして「恋愛のメンター(導師)」を名乗るわけにもいかないので、見ることにした。
一一というのは、もちろん冗談である。そうは思えないかも知れないが、断じて冗談なのだ。なにしろ私は、高倉健タイプの不器用な人間ですから…。
そんなわけで、『花束みたいな恋をした』を見た。
これまでの60数年の人生で、花束を贈ったことももらったこともない朴念仁ではあれ、恋くらいはしたことがあるのだから、恋愛映画を見たくらいで、「似合わねェー」とか言われたくはないし、言ってはならない。私は意外に、恋が似合う男なのだ!
ま、実際のところをお話しすると、先日、友人とLINEで「深田恭子が劣化した」という話をしていた。まったく、ルッキズムもフェミニズムもあったものではない。
無論、友人は野郎である。
私が、けっこう深田恭子が好きだったので、そんな話になった。
最近の深田恭子は痩せすぎで、顎が尖ってるとか、表情が無くなったとか、玉の輿を狙いすぎて、金持ちの「青年実業家」とやらにもて遊ばれて捨てられるという、最悪のパターンに完全にハマってしまっているとか、まあそんな話である。
私で良かったらもらってあげるのに、そういう妥協のできないところが深田恭子の敗因なのではないかとか、もう言いたい放題である。タレントとは、誠につらい商売だ。
ちなみに、私が好きな美女タレントとは、単純に「外見が好みのタイプ」というだけで、性格がどうとかいうことではない。
性格がわかるほどには興味はなく、ただ、よく撮れてる写真などを見ると、きれいだな可愛いなと思うだけの話だ。
で、深田恭子がもうダメなので、他に誰が良いだろうと、考えてみると、思いついたのが、多部未華子と、本作の主演女優・有村架純だった。
ちなみに、田中麗奈は、昔から好きだし今でも好きだ。うまく歳をとっていると思う。
そんな昔からのファンである田中麗奈は別にして、多部未華子と有村架純についてはどっちも、映画やドラマに出ているからといって、その出演作を見るというわけでもないのだが、テレビコマーシャルなどで見かけて、きれいだな可愛いなと思うだけである。
で、そんなことを考えていた時に、本作『花束みたいな恋をした』のことを思い出した。
公開当時かなりヒットした作品だと思うが、当時はまったく興味がなかった。
若い人が見る映画だし、そもそも私は「恋愛もの」は、映画にも小説にも興味がなかったのだ。
だが、ある時、たしか「読書に関する本」を読んでいると、そこで本作『花束みたいな恋をした』が言及されていた。
主人公の大学生で、イラストレーターを志す山音麦(菅田将暉)とサブカル女子である八谷絹(有村架純)の二人が知り合い、親しくなるきっかけとなったのが、本の好みの共通性だったという。

そのあまりの趣味の一致に、二人はすっかり意気投合して、すぐに仲良くなる。恋人関係までは一直線だった。


だが、フリーターとなった二人が同棲を始めて、生活のためにいよいよ就職しなければならなくなると、麦の方は就職活動や就職してからの仕事のために、イラストを描いている時間など無くなった。
さらには、それまでの趣味の読書なども出来なくなり、似合わないはずの自己啓発書や実用書ばかりを読むようになり、だんだん絹との間にも齟齬が生じてきて…と、そういうお話なのだと、その本に紹介されていたのだ。
本作を紹介したその本には、「読んでいる本(や見ている映画など)によって、二人の人間性や感情の変化が見事に表現されていて素晴らしい」というようなことが書かれていたので、私も読書家の端くれとして、本作『花束みたいな恋をした』に興味を持ったという次第である。
本作『花束みたいな恋をした』では、本については実在のものをそのまま使っていると紹介されていたのだ(なお、いくつか登場する映画は、架空のものだったようだ)。
で、そんな紹介をしていた本の方は、あまりはっきりとは思い出せないのだが、たぶん、ベストセラーになった、三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』ではなかったかと思う。『花束みたいな恋をした』の麦は、働き出して本が読めなくなった人だからである。
そんなわけで、私を本作『花束みたいな恋をした』に導いてくれた本ではあるのだが、私はこの本と言うか著者が大嫌いで、ボロクソにこき下ろしたレビューを書いているので、興味のある向きには、是非ご一読願えればと思う。
きっと、この本や三宅香帆が嫌いな人も少なくはないはずだからだ。
さて、肝心の『花束みたいな恋をした』での、麦と絹が意気投合するきっかけとなった本なのだが、それが何だったかもよく思い出せない。
だが、その前の二人の直接的な出会いのきっかけは、たまたま二人が終電に乗り遅れ、終電に乗り遅れた見知らぬ男女4人で、深夜喫茶かなんかで朝まで過ごしたことだった。
その店に、アニメ監督の押井守(本人出演)が来ているのに、麦と絹の2人だけがその人だと気づき、夜が明けて喫茶店を出ようとした際に、その話題で二人して盛り上がったというのが、最初のきっかけだったのだ。
麦曰く「神がいたの、あなたも気づいてましたよね⁈」と。

ともあれ、ここで押井守をセレクションするあたりも絶妙で、これが富野由悠季ではアニオタ寄りすぎるし、宮崎駿ではメジャーすぎ、かつファミリー向けでダメ。かといって、高畑勲では渋すぎただろう。
そうした意味で「世界のオシイ」は、麦と絹が大騒ぎするのに、微妙に的確な人選だったのである。
その後、二人がデートをするようになったごく初期に、絹が好きな作家の名前を列挙すると、麦が「わかるわかる、俺も好き!」みたいな感じで盛り上がるシーンが印象に残っている。

絹が列挙した作家(小説家名)は、たしか8人くらいで、全員知っている作家だったが、興味がないから読んでいない作家も半分くらいはいたはずだ。
そんな絹の読んでいる作家名で、私の記憶に残ったのは、私も読んでレビューも書いている今村夏子と佐藤亜紀、そして舞城王太郎なんかであった。
「なかなか面白いところを突いてくるな」と、脚本家に対して、そう思ったのだ。
だが、全体としては、今どきの女性作家が多い。そこそこマニアックでもあれば、それなりの人気作家という感じで、いわゆるコアなマニアックさではない。
日本文学史に出てくるような夏目漱石や森鷗外といった古いところから三島由紀夫といったあたりの国文学史的な作家名は挙がらないし、外国作家の名もなかった。また、ミステリやSFのジャンル作家の名も無かった。
それらも読んでいるという「設定」だったかもしれないが、絹の個性として挙げられる作家名は、そうしたマニアックな作家ではなかったのである。
つまり、いかにも「今どきの読書好き女子」という感じのラインナップで、本作での選書をした人物にはほとほと感心させられたのだが、作中の絹には特に感心はしなかった。
たしかに大学生としては、かなり読んでいる方だというのは間違いないけれど、全体に「サブカル女子的に、オシャレな流行作家好き」という感じもあったからである。
デートで雨に降られて、絹が初めて麦のアパートへ行った際、部屋に上がった絹が「素敵なお部屋ですね」なんて言いながら、まず麦の本棚をチェックしたところは、本好きあるあるで、私も、個々のタイトルまでは見えそうで見えないその本棚に並ぶ本に注目した。

たしか、本棚を見られた麦が「恥ずかしいから見ないでよ」というようなことを言い、それに対して絹が、満足したように「ほとんど私の本棚そのものだよ」と言うところも、微笑ましい。
もちろん若い麦のアパートの本棚なので、初版本コレクターであった私を唸らせるような本は一冊もないようだ。つまり、単行本は少なく、大判のものは漫画が多い。函入り本はなく、おじさんの本棚にはありがちな「全集」の類いもない。
並んでいるのが主に文庫本なのは、金のない若者としては当然のことで、仕方がない。
だが、そんな文庫が並ぶ段に1冊だけ、文庫より背の高い、少し厚めの新書本が挟まったいるのが、私の目を惹いた。

それは白背、帯の掛かる背の下部は黒色である。私は即座にそれが「講談社ノベルス」だと気づき、その読めそうで読めないタイトルから、それが森博嗣のS&Mシリーズ(N大助教授・犀川創平と女子学生・西之園萌絵コンビ)のどれかだと確信した。そして、このセレクションも見事だと感心した。
同じ「新本格ミステリ」から選ぶにしても、綾辻行人や京極夏彦では「濃すぎて」、麦のキャラクターには合わないが、森博嗣なら、一般性がありそれなりにオシャレでもあって、オタクくさくはならないからである。
また、森博嗣は、前述の押井守がアニメ化した『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』の原作者だが、「スカイ・クロラ」シリーズは中公ノベルスなので、装丁のフォーマットが違うから、そこに並んでいるのは、「スカイ・クロラ」シリーズではない。
ではなぜ、押井守つながりの「スカイ・クロラ」シリーズではなく「S&Mシリーズ」なのかと言えば、それは「スカイ・クロラ」はSF作品であり、多分に「哲学的」な重いテーマを扱っているから、麦には読みきれないだろうし、似合いもしないからであろう。
そんなわけで、噂どおりに本作は、登場人物のキャラクターを浮き彫りにするための、小道具としての本の選書が的確で、実に素晴らしい。
これは、そうとう幅広く読んでいる人でなければ、とうてい出来ないことだ。
つまり、仮にこの選書を脚本家の坂元裕二が脚本段階でしていたのなら、坂元の読書家としての力量は、麦や絹とは比較にならないほどのハイレベルだということになる。
またそうであるならば、たぶん坂元は、麦と絹の「趣味の一致」というものが、二人の将来を保証するものではないというのも、百も承知の上でやっていると、私はそう見た。

そもそも私は、かなり若い頃から「読書の趣味が合う」というのは、必ずしも良いことではないと感じてきた。
なぜなら、好きなればこそ、相手のその作家への「好き」具合が、物足りなかったり、的はずれだったりと感じることもよくあって、私の場合はつい「それは違うよ」みたいなことを言いたくなって現に言ったり、「つまんねえ知ったかぶりをするな」とか思ってしまうからである。
だから、彼氏彼女としてつきあうのであれば、読者の趣味なんてものは、むしろ違う方が良いと、そう思ってきた。
趣味が完全に違っていれば、それはもう文字どおりに趣味の問題として仕方のないことだし、その方がかえって、自分がチェックしないような作家を教えてもらうこともできるから、「今度、読んでみるよ」という話にもなるのである。
そんなわけで、若いから仕方がないとはいうものの、趣味が合って意気投合というこの二人の出会いは、最初からちょっと「まずいな」という感じではあった。
今がピッタリであれば、あとは齟齬が目につくようになっていくしかないと、そう考えたからである。
そして麦と絹の場合は、「生活」に対する考え方の違いが徐々に大きくなっていき、やがて別れることになるわけなのだが、私からすれば、実際のところそれは、出会った当初からすでに、二人それぞれに持っていた性格の発現でしかなく、余裕のある時には顕在化しなかったそれが、「生活」に追われるようになる中で、顕在化していっただけだと、私は斯様に考える。
また、この点についても、周到に「伏線」が張られている。
前述の、二人の出会いである終電を逃した他の男女を含めた4人て深夜喫茶で一夜を過ごしたその後、二人は押井守の話で盛り上がり、そのまま、また別のレストランだかに入って話を続ける。
そして、そこでまた盛り上がったのは、二人が、その時期たまたま開催されていた「大ミイラ展」のチケットを買っていながら、予定していた前日の日曜に、断れない「おつきあい」が入ったために「大ミイラ展」を諦め、そのあげく終電を逃したという不運でも一致していた、という奇遇があった。これは「不運ではなく、二人が運命的に出会いを果たすための、幸運だったのかも」というわけである。

そこで二人は後日、その「大ミイラ展」へ行くという口実で初デートをすることになる。
その帰りのレストランで、絹が展覧会の図録を広げて「このミイラ、すごかったね」とはしゃぐのだが、そこへウェイトレスが注文を取りにやってきた際、麦は、グロテスクなミイラの顔のアップ写真が掲載されたその図録を、あわてて閉じるようにするのである。
つまり、そうは言わないが、人に見られたら恥ずかしいという気持ちが、麦の方にはあったのだ。

そしてこれは、二人が別れを決めた後の、思い出話の中で、麦は「あの時は、変な娘だなと思ったよ。ミイラの写真で、大はしゃぎしてるんだから」というようなことを、笑いながら告白するのである。
つまり、絹は「好きなものは好きであり、周りの目なんか気にしない」というタイプなのだが、麦の方は、もう少し「社会的」で、あたりまえに周囲の目に配慮するタイプだったのである。
そして、この「社会性」の違いが、のちに顕在化して、二人を決裂されることにもなるのだ。
絹の方は、「苦しくても夢を追って生きること」に価値を見るタイプで、だからこそ、イラストレーターを目指して頑張っている麦が、ほかの当たり前の男とは違って、魅力的に感じられた。
もちろん麦自身も、イラストレーターになるという夢はあったけれど、しかし現実の二人暮らしの中で、親からの仕送りを切られるといったこともあって、やむなく「男として責任を持たなければならない」とそう決意し、自分の夢を追う前に、まずは「仕事のできる、自立した一人前の男」にならなければならないと、頑張ることになるのだ。


だが、そうした、なかば不本意で無理な生活を自身に強いていく中で、麦は、絹の期待する「夢を追うような生き方」に対し、徐々に反発を募らせることになる。
「そりゃあ、夢が叶うならそれに越したことはない。けど、その夢が実現するのはごく一部の人でしかないのだがら、夢を追うにしても、まずは足下を固めてからだ」となるのだが、そんな彼の考え方も、決して間違いではないのである。
つまり、どちらの考えも間違いではないけれど、両者の願いがともに満たされることは、現実には滅多にない、ということなのだ。
だから、そうしたお互いに対する不満が募り募って、まともな会話さえ無くなり、ついに両者がそれぞれに、もう別れようと決意して、話し合いをする際も、結局のところ麦の方は、
「でも、まだ二人でやれるんじゃないか。恋愛感情がそのままずっと続くような生活ではなくても、そんな感情が冷めたとしても、それでも、結婚して一緒に生活して、子供を作って育てていく中で、いつかは、いい夫婦だって言われるような二人になれるんじゃないか。実際、世の中の夫婦って、そんなもんだろう? それじゃあいけないんだろうか?」
というようなことを言うのだが、絹の決意は揺らがず、二人は別れることになるのである。
別れ話では、いつでも女性の方が、未練なくきっぱりしている、というパターンだ。

もっとも、お互いに泣きの別れ話をした二人だが、だからと言って、ともに勤め人で、金にも余裕のない二人が、すぐさま別居できるわけもなく、引越しまでの3ヶ月は、それなりに仲良く暮らしたというのが、双方の独白ナレーションをともなって描かれる。
つまり、案外さっぱりと、引きずることもなく二人は別れたように描かれるのだ。
一一だから、本作を見た人は、決して重い気持ちで本作を見終えることにはならないのである。
本作のラストシーンでは、そんな二人が、別れた2年後に、双方ともに新しい彼氏彼女を連れた状態で、たまたまレストランで遭遇することになる。
だが、相手の存在に気づいた後も、お互いに声をかけることはせず、ただ素知らぬ他人の顔で、ほぼ同時にレストランを出たあとは、それぞれ別の方へ去っていくその背中の肩越しに、片手だけを上げて、バイバイという合図を送るだけだし、そこでの「日記」風の心内語ナレーションでは、「今日、元カレ(元カノ)に遭った」という風な語られ方をする。
もう、「絹ちゃん」でも「麦くん」でもなく、実にさっぱりしたものなのだ。
実際、現実の恋愛とは、そんなものなのだから、観客の方も「そんなもんなんだよなあ」と納得するし、それで別れの重さを引きずることもなく、「純愛悲劇」を、エンタメとして楽しむこともできるように、本作は作られているのである。
だが、一一本作は、それだけの映画ではない。そんな「都合が良い」だけの作品ではないと、私は評価している。
なぜといって、実際のところ本作の脚本を書いたのは、当時五十を過ぎたおっさんなのだ。私のたった5つ年下なだけなのだ。
だから、いかに上手に誤魔化してはいても、麦と絹に、ひとこと言いたいことくらいはあっただろうし、その想いは本作に込められてもいたと、私はそう評価している。
そして、それを示すシーンは確かにあったのである(ちなみに、監督の土井裕泰も、私の2つ下なだけ)。

この映画の冒頭シーンは、二人が別れて2年後だかの、たまたまレストランで遭遇するシーンであり、つまりこのシーンが、ラストシーンにつながる。
前述のとおり、この時の二人は、お互いに新しい恋人とそのレストランにおとずれており、最初はお互いの存在に気づいていない。
で、二人それぞれのカップルとはまた別の若いカップルの客が入ってきて、その二人が、片方のスマホから、有線のイヤホンを片方ずつ分け合って、仲睦まじく音楽を聴いている様子が描かれる。
で、その様子を見て、麦は連れの彼女に、そして絹は連れの彼氏に、それぞれ「ああいう聞き方は音楽を冒涜するものだ。左右は別々の音が流れており、その二つが合わさって、ひとつの音楽を形成するように設計され録音されているというのに。あの二人は、同じ音楽を聴いてるつもりでも、実際には、微妙に違ったものを聞いているんだ」と、そんな講釈を力説するのである。
一一なんともまあ、皮肉に象徴的なセリフではないだろうか。
ともあれ最後は、この若いカップルに我慢ならなくなり、ひとこと言ってやろうと、席を立ったところ、麦と絹は、同時にお互いの存在に気づいて気まずくなる、というコメディ的なシーンだ。
だが、この冒頭シーンの持つ意味は、のちに明らかになる。
実は過去に、まだ親しくなったばかりの頃の麦と絹が、前記の若いカップルと同じような経験をしていたのである。
どちらだったか(たぶん絹だと思うが)、スマホから有線イヤホンで聴いていた音楽に他方が興味を持って、「なに聴いているの? 聞かせてよ」ということで、二人がひとつの有線イヤホンを、片方ずつ分け合い、顔を近づけながら仲良く音楽を聴いている。
なぜ「有線イヤホン」なのかと言えば、今のワイヤレスイヤホンでは、顔を近づけ合う必要もないから、ひとつのものを分け合っているという感じにはならないためである。

ともあれ、麦と絹がそうして音楽を聞いていると、突然、通路向かいの隣の席に座っていたおじさんが、二人に対して「余計なお世話だろうけどね、そういう音楽の聴き方は間違っているよ」と説教を始めて、二人はその見知らぬおじさんから、延々1時間も音楽のミキシングの話を拝聴させられ、せっかくのデートが台無しになったという経験を、かつてしていたのだ。
つまり、その当時には、イヤホンを分け合うのは、音楽を聴くためではなく、一体感を味わうための行為だというのを重々承知していたはずの二人なのに、社会に出て、別れを経験して数年経った頃には、そんな昔の感覚をすっかり失っていたというのが、前述の冒頭のシーンで示されていたのである。
したがって、二人のかつての「純愛」も、その時は確かに純愛であったからこそ、泣きの別れにもなったわけなのだが、しかし、そうした純な感情も、やがては摩滅していき、いつの間にか、あの時の「説教おじさん」に近づいてしまっていた。
あれだけ愛し合ったはずの相手のことも「元カノ・元カレ」という軽い言葉に還元できてしまうようになってもいたのだと、このラストシーンは、そう少々皮肉に描いているように、私には思えたのだ。
「この映画を見て、麦と絹の純愛ゆえの別れに、胸を締めつけられた若い君たち。でも、君たちも結局は、麦と絹同様、純な感情なんて忘れて生活をする、おじさんおばさんになってしまうし、もしかして、もうそうなっているんじゃないの?」
と、そう仄めかしているように思えるのだ。
そもそも、タイトルの『花束みたいな恋をした』の「花束みたいな恋」とは、単に「きれいな」という意味ではなく、じつは「根から断ち切られた上で、美味しいとこ取りできれいにまとめ上げられた花」であり、要は「今は美しいけれど、しばらくすると枯れることを運命づけられた花」だということなのではないだろうか。
もちろん、そうした「使い捨ての花束」にも、意味や価値はあるだろう。
しかし、原作脚本を書いた坂元裕二は、そうした「恋」というものを、決して全肯定していたわけでもないと私は感じたのだが、さて、この「おじさんの説教」的な作品理解は、いかがなものであろうか?

(2025年11月18日)
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(※ 上の『怪物』の脚本は、坂元裕二)
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