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チャック・パラニューク 『ファイト・クラブ』 : やっぱり「自傷的な変態クラブ」

書評:チャック・パラニュークファイト・クラブ』(ハヤカワ文庫)

本作については、デイヴィッド・フィンチャー監督による「映画版」を先に見てしまったので、ミステリ小説で言うところの「メイン・トリック」的なものについては、すでに承知していた。
したがって、本書を読む上でポイントとなったのは、それを知った上で読んで、それでも面白い作品になっているか、ということであった。

で、その点について言えば、知っていて読むと、前半は「作者の手つき」が見えて、いささか退屈なのだが、テーマが迫り上がってくる後半は、小説として楽しめるものになっていた、と言えよう。

つまり、謎の男タイラー・ダーデンの正体が分かってからでも、十分に面白い小説になっているということだ。
一一と言うか、タイラー・ダーデンの正体が分かって以降の残りの三分の一は、いかにして彼の暴走を阻止するのか、阻止できるのかという、サスペンスフルな展開となっていて、本作は、タイラー・ダーデンの正体がすべてであるような作品ではなかったのである。

したがって「映画を見たから、原作小説を読んでも仕方がない」と思っている方には、いやいや、原作はまた別物だから、読んでみてほしいと、そう伝えたい。

あえて言うなら、映画版は、タイラー・ダーデンの正体を知って驚けば(あるいは「ブラピ、カッコいい!」と言っていれば)、それで済むような娯楽作品だったが、この原作小説の場合は、そうした娯楽性がメインなのではないのだ。
本作の本来の狙いとは、言うなれば「タイラー・ダーデンのような人物を生んでしまうような社会」とはどういうものであり、それをどう考えどう対処すべきなのか、というような「問い」の提示なのである。

一一だが、じつのところ、その焦点とすべき「著者の思い」を読み取れた読者がどれほどいるのかは、いささか疑わしい。

と言うのも、本書ハヤカワ文庫版には、著者自身が後年になってから書いた「著者あとがき」が収められているのだが、そこに書かれているのは、世間の反響に対する、著者の「当惑」なのだ。

要は「えっ、そんなふうに額面どおりに受け取っちゃうの? いや、そんなつもりで書いたんじゃないよ。表面だけを見るんじゃなくて、もう少し考えてよ」ということなのだ。
平たく例えて言えば「戦争の悲劇を描いた戦争映画の、戦闘シーンだけを見て、戦争に憧れるような観客に対する、作り手の当惑」みたいなものなのである。

そんなわけで、本稿では、映画版のメインである「何が現実か」みたいな部分については、さほど問題にはしないから、いわゆる「メイントリック」的なものについても、重きを置かない。
したがって、いわゆる【ネタバレ】的なものにも軽くは触れると思うので、それが嫌な人は、ここで読むのを止めていただきたい。

ただし、あえて言わせていただくと、そんな読み方しかできない読者というのは、作中においてタイラー・ダーデンに心酔したような、ちょっと頭の弱い、お寒い連中と大差がない、ということである。

実際のところ、著者が本作で描いたタイラー・ダーデンとは「心貧しき人々のカリスマでしかないのだ。
陳腐な言い方にはなるけれども、タイラー・ダーデンとは、所詮「現代社会のアドルフ・ヒトラーみたいなものなのである。

その証拠に、パラニューク「著者あとがき」の中で、こう書いている。

『 同じころ、ビル・モイヤーの番組を眺めていたら、ストリートギャングとは、父親のいない家庭で育った若者たちが互いに助け合いながらおとなの男になろうとしている集団だと言っていた。メンバーに命令や課題を与える。規則や規律を課す。結果を出せば報いる。軍隊の新兵訓練係の軍曹と同じだ。』(P308)

つまり、フロイト的に言えば、父親の不在によって、確たる「超自我」を築けなかった「不安な人たち」が、父親の代わりとなってくれそうな人物に、喜んで絶対服従することで、安心と居場所を見つける、というようなことだ。
言い換えれば、自立できない人間の、人への「依存症」である。

作中のタイラー・ダーデン崇拝とは、そうした性格のものであり、当然のことながら、著者自身は、そうした「現代的な精神病理」を批判的に描いている
だが、実際にそうした現代的精神病理に冒されている人というのは、そこまで読み取ることもできずに、単純に、作中の「スペース・モンキー」たちと同様、タイラー・ダーデンを崇拝し、自分たちの「ファイト・クラブ」を作って喜んでいるしまう、というようなことにもなってしまった。

だから著者が、そんな読者からのファンレターをたくさんもらって、心底うんざりさせられたというのは、しかし、著者の描いたものが「現代社会の精神病理」であった以上、避けられないことではあったのであろう。

そんなわけで、本稿では、映画版の方ではメインになっていた「驚きの仕掛け」の方ではなく、あくまでも原作者がその小説作品において描きたかったこと、描いたことについて、論じたいと思う。

 ○ ○ ○

本作の「あらすじ」については、アメリカ文学研究家で翻訳家の都甲幸治による、本書所収の解説文「自分の人生を取り戻せ一一『ファイト・クラブ』解説」から、あらすじ紹介の、部分を引用しておこう。

『『ファイト・クラブ』の主人公は人生に飽き飽きしている。仕事に恵まれ、おしゃれなマンションで独身生活を楽しんでいるものの、こんな生活を自分で望んでいたのかどうかさえわからない。やがて彼は極度の不眠に陥る。医者に行っても、どんなに薬を飲んでも、まったく症状は改善しない。そこで彼が見つけたのが難病患者の互助グループだった。自分も患者だと嘘をついた彼は、参加者と苦しみを分かち合い、感情を吐き出し、抱き合って泣く。互助グループに参加した日だけは彼は安らかに眠れた。しかし同じく患者を騙る女性マーラが出現したおかげで、彼はこの喜びを奪われてしまう。
 だが主人公はタイラーとの偶然の出会いを通じて、誰にもじゃまされない、自分たちだけの互助グループを作ることになる。それがファイト・クラブだ。男たちは素手でひたすら殴り合い、傷つき、自己を破壊し、時には死に近付くことで強烈な生の感覚を味わう。
「ファイト・クラブを知ったあとでは、テレビのフットボール中継など、最高のセックスを楽しめばいいのにわざわざポルノ映画を鑑賞するみたいなものだ」(68頁)。この喜びを知った主人公はやがて、現実社会のルールを無視し始める。彼にとっては仕事も、家も、何もかもが無価値な、過去の遺物でしかない。
 けれども、彼の自由の感覚はそう長くは続かなかった。ファイト・クラブは初め、タイラーと主人公二人だけの探求の場所だった。しかしだんだんと会員が増え続け、クラブはその性格を変えていく。肥満治療で除去された人間の脂肪が材料の石鹸を財源として、ファイト・クラブはタイラーを頂点とする巨大組織にまで膨れ上がる。現在の世の中を破壊し尽くすことでしか良い世の中はやってこない、というタイラーの思想から、誰の自由をも奪うカルト的な組織(※ スペース・モンキー)が生れてしまう。しかも主人公とタイラーとはある思わぬ理由で、強く結びついていた。果たして主人公はファイト・クラブの呪縛から逃れることができるのだろうか。』(P322〜324)

これは、だいぶ整理された「あらすじ」で、実際の物語の冒頭部は、もっとわかりにくい

というのも、「語り手」である主人公は、不眠によって精神を病んでおり、その思考はかなり混乱している
そしてそれが「一人称」で語られるのだから、主人公の物の考え方や置かれた客観的な状況といったことが、すべてにおいて曖昧であり「わかりにくい」のだ。
一一で、当然ここに、ある種の仕掛けがあるというのは、「新本格ミステリ」なんかを読んできたような読者には、あまりにも見え透いたものであり、映画版を見ていなくても、物語の三分の一も読めば、それが意味する真相だけなら、早々に検討がついてしまうものでしかない。

実際、作中には、

『一本の映画を上映するのに二台の映写機を使う旧式の映画館では』(P32)

とか、

『毎晩、この男は座って《エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン》を読みふけってばかりで』(P60)

とか、

『まるでイギリス産ミステリ小説のようだ。』(P 123)

といった、読者への「目配せ」がなされている。
だから、ミステリー小説ファンではなく、ミステリ読者なら、「ああ、やっぱりな」となるのだ。

そんなわけで、だからこそこの原作小説は、「それだけ」の作品などではない

肝心なのは「どうして、タイラー・ダーデンのような人間が生まれてしまったのか?」「どうして、タイラー・ダーデンのような人間が、カリスマとなってしまい、危険なカルト集団が拡大することになってしまったのか?」という問題なのである。

で、その解答は、さほど難しいものではない。「解説」の中で、

『主人公は人生に飽き飽きしている。仕事に恵まれ、おしゃれなマンションで独身生活を楽しんでいるものの、こんな生活を自分で望んでいたのかどうかさえわからない。』

と整理されているように、要は、私たちが「高度消費社会」の中で、スポイルされてしまっている、ということなのである。

本作中では、ホテルでウェイターの仕事をしているタイラーによる、スープの中に自分のペニスを突っ込んでから客に出したり、料理に性液を混ぜ込んだりといった、イヤガラセの描写がなされる。
また、映画の上映技師としては、ロマンス映画やディズニーアニメなどに、見ている人は気づかない一瞬だけ、ペニスの映像を混ぜ込むなんてこともしているのだ。

なんでこんな馬鹿げたことをするのかと言えば、それは、タイラー自身、この高度消費社会を丸ごと憎んでいるし、ましてやそんな社会における上流階級として、気取ったりふんぞり返ったりしている奴らを憎んでいるからである。

しかしながら、こうした「行為」が許されないのは当然としても、こうした「怒り」自体は、十分に理解できるものではあろう。だからこそ、ダーデンの反社会的な「イヤガラセ」は、作品の中で支持者をどんどん増やしていったし、作品の外、つまり映画を見た者や原作の読者にさえ、崇拝者を生むに至ったのだ。

つまり、程度の差こそあれ、じつは私たちの中にも、タイラー・ダーデン的な「反社会的な憎悪」が潜んでおり、それを理性や良識で、抑え込んでいるに過ぎないのである。

だが、当然のことながら、理性や良識が十分にある人ばかりではないし、精神的に弱ってしまって「タガがゆるむ」場合もあるから、作中と同様に現実においても、タイラー・ダーデンに憧れて「ファイト・クラブ」ごっこを始める者もいれば、「コンビニ店員がアイスの冷蔵ケース内で寝転ぶ写真」「寿司チェーン店の醤油差しを舐める行為の動画」などが、SNSにアップされたりもするのだろう。

彼らは、単に「目立ちたい」というだけで、ああしたことをやっているのではなく、どこかで「この社会に一泡ふかせてやりたい」という欲望をもっているのだ。だからこそ、あのような「挑発的」表現になってしまうのだし、そうした感情の背後には「今の社会の中では、何者でもあり得ない自分」という、劣等感だの被害者意識だのが伏在している
だからこそ、ああした「イヤガラセ」の形式を採ってしまうのだ。

解説者の都甲幸治は、パラニュークの言葉を引用して、次のように書いている。

『 パラニュークは言う。「我々は良い人間になるように育てられてきました。だからこそ、僕らの子ども時代のほとんどは周囲の期待に応えることばかりに費やされてしまいます。
 両親や教師やコーチの期待に応え、そして上司の期待に応える。こうして我々はどうして生きていくかを知るために、自分の外側ばかり見ているんです」(DVD Journal インタビュー)。そんな人の顔色を見るだけの生活が楽しいわけはない。』(P317〜318)

そう。現代社会は「建前のキレイゴト」を、ぎゅうぎゅうと押しつけてくる。
それを、納得させてくれるのではなく、「それに従って当然。それに従わない者は社会から排除するぞ」と脅しつけてくるような窮屈な社会だからこそ、子供たちは、それに納得したからではなく、ただ従うしかないからこそ、それを丸呑みにして、疑問を覚えないよう、自分の理性を「麻痺」させているのだ。

だから、意識の上では、自分がそれに苛立っているという事実には、なかなか気づけない。
それに気づくためには、社会に対する問題意識が持ち、そこから合理的に社会批判の根拠を見出し、そこで初めて「自分は、怒っても良かったんだ」と、気づくことも出来るのである。

だが、そこまで進める人は、多くない。
多くの人は、自分の中に抱えている「怒り」の存在に気づかない。
しかし、その存在に「気づかない」ことと「存在しない」こととは同じではないから、その抑圧された「怒り」は、気づかないうちに蓄積され、変形されて、社会に回帰してくるのである。

だからそれは、ある機会に、突然表面化する。
どういう機会かと言えば、それは「ふざけた」時だ。
冗談でありジョークであり、おふざけというかたちで、それは表面化する。

なぜ、そうした、やってはならないことが、そういうかたちであれば、比較的簡単にやれてしまうのかと言えば、それは、当人としては「本気ではない」つもりだし、ましてや「悪意などない」と思っているからだ。
「ただ、ちょっとウケるかなと思って…」という感情において、それは自身に許されてしまう。

「悪気はなかった」「故意はなかった」のだから、過失ではあれ、犯罪ではないという、そんな「感情」において、当人も気づかないうちに、抱え込まれていた社会への憎悪に、形式が与えられるのである。

『 タイラーが騒乱プロジェクトを創設したのはその朝のことだった。
 タイラーは、ぼくが闘っている本当の相手は何かと訊いた。
 社会のくずであることと歴史の奴隷であることに関してタイラーがいつも言っているとおりの気分だった。自分が恵まれなかった美しいものをすべて破壊したかった。アマゾンの熱帯雨林を焼き尽くしたかった。フロンを空に噴射してオゾン層を破壊したかった。スーパータンカーの放出バルブを全開にしたり、海底油田の蓋を取り除いたりしたかった。ぼくには買って食べるゆとりのない魚を全部殺し、ぼくが行けることのないフランスのビーチを絞め殺してしまいたかった。
 全世界をどん底に突き落としたかった。
 あの若者に拳を振り下ろしたとき、ぼくが本当にしたかったのは、種の保存のためのセックスを拒絶して絶滅の危機に瀕しているパンダや、海岸に乗り上げる根性なしのクジラやイルカの眉間に、片端から弾丸を撃ちこむことだった。
 絶滅とは考えないでもらいたい。ダウンサイジングだと思ってくれ。
 人類は過去数千年にわたってこの惑星を痛めつけ、叩き壊し、踏みつけてきた。そしていま、歴史は、ぼくに過去の全人類の尻拭いを押しつけようとしている。スープの空き缶は洗って潰さなければならない。汚れたエンジンオイルは一滴たりとも無責任に垂れ流してはならない。
 そのうえぼくは、自分がまだ生まれてもいなかった時代に出された放射性廃棄物や地中に投棄されたガソリンタンクや埋め立てに使われた有毒汚泥のつけを払わなくてはならない。』(P175〜176)

この「被害者感情に由来する破壊衝動」がやろうとしていることが何なのかというと、簡単に言えば「加速主義」である。

どうせダメになるものだったら、蛇の生殺しみたいになるのはごめんだから、いっそダメ元でぶっ潰して、やり直しをした方がマシだ。一一という感情である。

だからこそ、

『「想像するがいい。ロックフェラーセンターの廃墟を囲む湿り気の多い谷間の森でヘラジカを狩る日を」』(P214)

などという表現も出てくるのだ。

こうした「破壊願望」は、今の世界の現実に由来するものであって、決してフィクションの中だけでのものではない

だから私たちが気づかなければならないのは、私たちが、本作の主人公と同様に、

『人生に飽き飽きしている。仕事に恵まれ、おしゃれなマンションで独身生活を楽しんでいるものの、こんな生活を自分で望んでいたのかどうかさえわからない。』

というような状態に、多かれ少なかれ置かれているという現実であり、そのために、自分の中にある「怒り」に気づけないでいる、という事実である。

その「怒り」に気づけないからこそ、私たちは、やれ「オリンピック」だ、「万博」だといった、わかりやすすぎるくらいにわかりやすい、目の前にぶら下げられた「エサ」に、手もなく踊らされてしまう。
酔っ払って踊ってでもいないと、先のことなど考えた日には、やってられない、ということなのである。

しかし、私たちは、私たちの中にある「当然の怒り」に気づき、その上で理性を働かせて、真の敵を討たなければならない

そうしないかぎり、自分で自分を痛めつけるような生き方に、現実逃避するしかないのだ。

「ファイト・クラブ」とは、やはり「闘えない人たち」の生んだ、倒錯的な現実逃避の「夢想」なのである。


(2025年6月20日)


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