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つくみず 『シメジ シミュレーション 05』 : 宇宙の孤独と他者

書評:つくみずシメジ シミュレーション 05』(KADOKAWAMFC キューンシリーズ)

『シメジ シミュレーション』の完結巻である。

第1巻の刊行以来、各巻それぞれ、刊行からさほど間を置かない時期に逐次レビューを書いて、その内容をあれこれ考察してきた。

(第1巻より)

だが、前巻の刊行前に長年勤めた職場を退職して隠居生活に入り、通勤ということをしなくなったため、ほぼ毎日だった書店への立ち寄りも、月に1度程度になってしまった。またそのせいで、新刊が刊行されてもすぐには気づかず、購入が遅れレビューもさらに遅れがちになってしまった。まあ、読みたいものは色々とあるから、どんな本でも購入後すぐに読むというわけには、なかなかいかなかったのである。
特にこの第5巻などは、その刊行に気づいたのが、刊行後半年以上過ぎてからだったし、さらに「最終巻」ということもあって、購入後もしばらく寝かせていたら、このレビューを書くのは、刊行後1年以上経った今となってしまった。

そんなわけで、前巻のレビューを書いたのがおよそ2年前だから、何を書いたのか詳しいことはもはや記憶にない。だが、第4巻までの4冊はすでに手元にないことだし、あえて自らのレビューを読み返すこともせずに、本巻を読んで考えたことを書いてみようと思う。

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第1巻を読んだ段階で、私はこの作品世界を、主人公シメジ(※ 作品中では「しめじ」と平仮名表記されるが、ここでは読みやすいように、タイトルの方に合わせてカタカナ表記とする)の「夢の世界」であり、そこに登場して親友となる「まじめちゃん」は、シメジの夢の中における「理想の友達像」ではないかと考えた。

というのも、まじめちゃんの登場の仕方というのが、不思議な迷宮的世界の中で巨大なカニに襲われた、シメジの前に突然現れて、シメジを救出する「勇者」みたいな感じだった(はずだ)し、まじめちゃんの性格が、ひきこもりのシメジとは真逆と言って良いだろう、のんきで細かいことにはこだわらない、およそ極楽とんぼなものだったからである。

しかし、巻が進むにつれて、この作品世界を単に「シメジの夢」とするには、色々と手が込みすぎており、それほど単純なものではないと感じられるようになってきた。

さらに、それまでは、自宅で何やらよくわからない研究をしている様子のシメジの「お姉ちゃん」が、第3巻あたりでは、じつはシメジのために「この世界を作った」というようなことが示唆される。
しかし、第4巻ではそこに「もう一人のお姉ちゃん」が現れて「この世界」を破壊しようとし、同巻の最後では「この世界」が決定的な破局を迎えたかのような描写がなされる。

しかし、その後にもシメジとまじめちゃんの二人は、ひと気のない世界に二人揃って放り出されており、世界と共にすべてが消滅したというわけではなかった。
では、果たしてこの、残された世界こそが、現実の世界なのだろうか?

一一と、そんなところで、この最終巻(第5巻)となるのである。

結論からいうと、この世界の真相については、はっきりとした説明がなされる。だが、その真相自体は、特別に新奇なものでも驚くべきものでもない。SF小説には「よくあるパターン」だと言っても良いだろう。したがって、本作の場合は、そうした「世界の真相」自体が問題なのではない。

本作の描いた世界とは、結局のところ「自分の思いどおりになる世界」なのだ。その意味で、「夢」に似ているようで、やはりぜんぜん違う。「夢」は思いどおりにはならないからだ。

しかし、「夢」との共通点はというと、その「思いどおりになる世界」であっても、そこに登場するイメージは、覚醒時の「記憶」であり、その「解釈」であり、その上での「再構築」であって、完全に「無」から新たに作り出されたものではない、という点だろう。
そのため、この特殊世界の登場人物の多くは、現実世界での知り合いである、実在する教師や学友だと推定される。そして、その例外らしいのは、まじめちゃん他数名のようなのだ。
「夢」というのは、現実そのままではないけれども、しかし、自身の「経験」や「記憶」を、その「素材」とするしかないのである。

(よみかわ先輩)

そんなわけで本作は、現実世界に堪えがたいものを感じていたシメジという少女が、「自分の思いどおりになる世界」を与えられた際に、そこにどんな世界を作るのか、それをシミュレーションした世界の物語なのである。

だが、面白いことに人間というのは、「理想の世界」というものを、持っているようでいて、意外に持ってはいない。
例えば「大金持ちになりたい」「世界一の権力者になりたい」「オリンピックで金メダルを取りたい」「モテモテになりたい」「美形になりたい」など、いろいろとあるのだが、しかしそれが「何でも思いどおりに叶ってしまう世界」で実現してしまった場合、人はそれで満足して、「もはや何も求めることはない」という境地になれるかと言えば、一一無論そんなふうに、なれはしない。

そうした夢は、ほぼ叶わないから「夢みられ(続け)る」のであって、叶ってしまえば、それはもう「当たり前の現実」でしかなく、「夢みられるべき夢」ではなくなってしまうのである。
だから、そうした世界に投げ出された、(人間社会を生きにくいと感じている)シメジならば、一体どんな世界を「夢見る=創造する」のだろうか、というのが、本作の狙いなのだ。

したがって、当然のことながらシメジ自身も、その「答」を知らないまま、その「いくらでも作り変えることのできる世界」の中で試行錯誤としての「放浪」を続けることになる。

ただ、シメジの場合、問題の焦点はハッキリしている。それは「人間関係」であり、要は「大切な人(他者)との繋がり」というものを、最終的に「求める」のか否かだ。
仮に「求める」のであれば、それはどんな「関係」なのかということなのである。

シメジにとっては、まじめちゃんが、考え得るかぎり「最高の友達」だというのは、間違いない。
けれども、「最高の友達」だとしても、それは所詮「他者」でしかないから、「最高の友達」が手に入ったら、それで完全に満足できるのか? ということになる。一一なぜなら、「手に入ったものは、すでに夢でも最高のものでもない」というのは、すでに書いたとおりだからである。

(第5巻に登場する「神様まじめちゃん像」のアクリルスタンド)

したがって、「他者」に異和を感じているシメジは、いったんはまじめちゃんを拒絶してしまう。
しかし、独りになると、やはりまじめちゃんを求めずにはいられなくなる。そんな中で、まじめちゃんと再会を果たすことができたシメジは、まじめちゃんとの関係において、一体にはなれないものとしての「他者」の、存在意義を見出すことになるのである。

その瞬間 私たちは
ほぼ完全に一つになり

…やがて
分かれた

私たちは
お互いの輪郭を
感じた

とても長い時間をかけて
私たちは単純な一つの
動機まで遡り…

それを
見つけたの
かもしれない

私たちに
輪郭を与えて
いる何か…

なぜ
私たちが
いるのか

シメジが見つけたものとは何なのか。

それについては、私なりの解釈がないわけではない。
けれどもそれは、読者個々が考え、見いだすべきものだろう。

だが、シメジの最後の言葉が、

みんなに
会いにいこう

というものであるかぎり、シメジがもとの立場でなくなったことだけは確かだ。

「他者」とは、ときに私を傷つける存在であるけれども、だからこそ「私」が生きている「意味」でもあり得るのであろう。


(2025年3月30日)


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