ロナルド・ニーム監督 『ポセイドン・アドベンチャー』 : 英雄ではない人の英雄譚
映画評:ロナルド・ニーム監督『ポセイドン・アドベンチャー』(1972年/アメリカ映画)
私個人にとっての話にすぎないが、2025年の掉尾を飾る映画として、それらしいものをと選んだ結果、本作『ポセイドン・アドベンチャー』ということになった。
すでに、若い人には馴染みのない作品かもしれないが、本作は、一時期流行った「パニック映画」(ディザスター映画)のはしりとなる作品であり、アカデミー賞の9部門にノミネートされ、2部門を受賞するなどした、大ヒット作だ。
ただし、アカデミー賞の受賞が「歌曲書(主題歌賞)」と「視覚効果賞」であることからもわかるとおり、ややもすると本作は、エンタメ色の強い「派手な見せ場が中心のスペクタクル映画」だと見られがちなのだが、少なくとも私にとっての本作は、そういうものではなかったし、本作を特別な作品として愛したファンは、そうした部分にだけ惹かれたわけではなかったはずだ。

つまり、本作が今もなお、見る価値のある作品たり得ているのは、まさに「人間ドラマ」の部分で、強く印象に残る作品だったからなのである。
私は、本作を幼い頃にテレビで見て、とてもとても感動した。
そして、それ以来、この作品を「私のオールタイムベストテン」のひとつに数えてきた。
何がそれほど私を感動させたのかと言えば、それは「衒わない自己犠牲の精神」とでも呼ぶべきものである。
「自己犠牲」と言うと、「他人のために命を捨てる」といった、極端な場合を思い描きがちだが、ここで言いたいのは、「他人のために役に立ちたい」と自然に思える心、くらいのものだと思って欲しい。
そもそも、それが無かったら、他人のために命を捨てるが如き行動だって、採れるわけがないのである。
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さて、本作の主たる登場人物は、主人公である変わり者の牧師フランク・スコットと、彼と行動を共にすることになる9人の、合わせて10人ということになる。

役名で、後列左から、マニー・ローゼン、マイク・ロゴ、エイカーズ、マーティン、ノニー。
2列目、ジョン牧師、ベル・ローゼン、スコット牧師。
最前列左がリンダ・ロゴ、中央がスーザン・シェルビー。
なぜかロビン・シェルビー役の子役エリック・シーアだけがいない。
後方に見えるのは、ロケに使われたクイーン・メリー号)
(1)フランク・スコット(ジーン・ハックマン)
格闘家、スポーツ選手と異色の経歴を持つ牧師。かなりの現実主義者で「神は一人ひとりの面倒を見ている暇はない。人間は自ら努力して苦しみを解決しなければならない」「祈りだけでは問題は解決しない。人は行動しなければならない」という独自の思想を持つ。
「神は弱きものは救わない」と遠回しに弁舌していることからアメリカ国内の教会を追われ、アフリカの新興国の教会に向かう為ポセイドン号で移動している。
(2)マイク・ロゴ(アーネスト・ボーグナイン)
ニューヨーク市警の警部補。強面の刑事であり、妻のリンダとともに新婚旅行でナポリ、ローマ、ベニス、トリノといったイタリアを訪れるためにポセイドン号に乗船する。事あるごとにスコット牧師と衝突をする。根は実直な人物。娼婦のリンダと出会い、その仕事から遠ざけるため(告白を遠回しに)6回も彼女を逮捕した。
(3)リンダ・ロゴ(ステラ・スティーヴンス)
マイクの妻で元娼婦。マイクに6回も逮捕されるが結婚する。彼の純粋さを理解しているが、同時に頭に血が昇りやすい性格も分かっているため彼が口論している際は仲裁する立場に回る。昔の商売柄口が悪い。何度も周囲の人に向かって「shut up!(黙って!)」と叫んでいる。
(4)ベル・ローゼン(シェリー・ウィンタース)
ユダヤ人老夫婦の夫人。孫に渡すためのペンダントを大切に持つ。現在は肥満しているものの、元水泳選手であり17歳の時に潜水大会のチャンピオンとなったことがある。パーティ席上では、恋人のいないマーティンを心配する。
(5)マニー・ローゼン(ジャック・アルバートソン)
ユダヤ人老夫婦の夫。子どもや孫の住むイスラエルに行くため夫婦で乗船する。シナイ山に行くことをベルに提案したが孫とゆっくりしたいというベルに断られる。
(6)ノニー・パリー(キャロル・リンレイ)
ジブラルタルから乗船したバンドの女性。ボーカル担当。ギター担当の兄たちとシシリーのジャズフェスティバルに行くため、船賃代わりに演奏を担当している。彼女が歌う「Morning After」は本編の主題歌にもなっている。
(7)ジェームズ・マーティン(レッド・バトンズ)
雑貨屋の店主。多忙ゆえに出会いがなく、独身で恋人もいない。乗船中は船内をジョギングして体を鍛えるなど、まめな性格。
(8)スーザン・シェルビー(パメラ・スー・マーティン)
姉弟で乗船するロビンの姉。17歳の少女。弟の世話を焼く。スコット牧師に淡い恋心を抱いている。
(9)ロビン・シェルビー(エリック・シーア)
姉弟で乗船するスーザンの弟。12歳の少年。サーフィンをやっている。船内を探索することが好きで、船員ともすっかり顔なじみとなっている。
(10)エイカーズ(ロディ・マクドウォール)
船員のボーイ。原作ではエーカーとピーターズという二人の人物がボーイとして登場するが映画では、その二人をまとめエイカーズとなった。
以上は、Wikipediaの登場人物紹介を、私の視点から、登場人物の「重要性」と「ペア」の観点から、順序を入れ替えて、ナンバリングして紹介したものである。
つまり、次のようは役割に、整理されるのだ。
(1)のスコット牧師は、転覆して上下が逆さまになった豪華客船ポセイドン号のパーティ会場から、最も海上に近い船底を目指した10人のリーダー。積極的に生きる努力をすべきという信念に従って、みんなをぐいぐいと引っ張っていく。

(2)のマイク・ロゴは、スコット牧師に対して、ことあるごとに突っかかる人物。いわゆる嫌われ役。
本当は、スコット牧師について行きたくはなかったのだが、(3の)愛妻のリンダが牧師についていくと決めたため、不承不承行動を共にしたため、何が困難にぶち当たると、「お前のせいだ」と、牧師に突っかかるのである。
だが、根は純粋な男で、元警察官だけあって行動力もある。

(3)のリンダは、上記のとおり(2の)マイクの最愛の妻。マイクが何かにつけて、不満を爆発させたりするのも、それは愛する妻のためというところが大きい。
(4)のベル・ローゼンは、老夫婦の妻で、肥満した身体にふさわしく、明るく思いやりのある好人物。
のちに詳しく説明するが、私が本作を傑作として記憶することになったのも、本来、脇役の一人でしかないはずの、彼女の活躍によってであった。
(5)のマニーは、(4の)ベルの夫。落ち着いた紳士的な人物で、妻を深く愛し、信頼している。
(6)のノニーは、兄と共に音楽活動を行う歌手。しかし、船中での年越しパーティの最中、彼女たちの乗ったポセイドン号が大津波をうけて転覆。その際に兄を失って生きる望みを失ってしまう。
だが、(7の)ジェームズ・マーティンに励まされて、生きるために、兄の遺体を残してスコット牧師たちと行動を共にすることになる。
(7)のジェームズ・マーティンは、決して二枚目ではないが、思いやりのある好人物であり、絶望していた(6の)ノニーを励まし、最後まで支えて続ける。
(8)と(9)のシェルビー姉弟は、大人たちに守られる立場のキャラクターと言っていいだろう。大人たちは、彼らを何とか救ってやろうという点で一致している。
(10)のエイカーズは、一行が船底へ向かうための道案内人の役割を担っているが、片脚を負傷している。
以上の10人が、本編の主人公である。
船内の大食堂ホールで年越しのカウントダウンパーティが行われている最中に、ポセイドン号は、地震によって発生した大津波の直撃を受けて転覆し、上下が逆さまになってしまう。
当然、その段階で多くの死傷者を出したが、しかし船全体がすぐに沈んでしまうというわけではない。
そこで、どのようにして救助を待つかで意見が分かれる。

船のパーサー(主席客室係)は「へたに動くのではなく、ここに止まって救助を待つべきだ」と主張し、大半の乗客はその言葉に従う。
実際、上下が逆さまになった船内の移動は、決して容易なことではなく、多大な危険を伴う行為だったのだ。
ところが、「自らは自らで救え」という考えの持ち主であるスコット牧師は、最も救助の手が届きやすい船底を、積極的に目指すべきだと主張する。
そして、その困難な道のりを選ぶことにしたのが、前記の10人だったのである。
ちなみに、この両者の判断のどちらが正しかったのかは、なんとも言えないところがある。
もちろん映画的には、スコット牧師一行の行動が正解だったということになる。
彼ら以外は、結果として全滅してしまうのだが、しかしこれは、スコットの「判断」が正しかったというよりは、「生き方の違い」だったのではないかと、私は思う。
スコットたちの選択の正しさとは、現実的な観点からすれば、結局のところ「結果オーライ」でしかなかった、と見えるのだ。
そのひとつの証拠は、スコット牧師と同行していた温厚な先輩牧師ジョン(アーサー・オコンネル)が、スコットの誘いを断って、パーティ会場に止まる理由にあろう。
ジョン牧師は「私は、ここにいる人たちを見捨てていくことはできない(だから止まる)」とスコットに告げ、スコットは「他の人たちのために、あなたの命を犠牲にする必要はない。あなたはあなたの命を救う努力をすべきだ」と訴えるのだが、ジョンはその言葉に首を振り、スコットはその意志の固さを認めて、引き下がらざるを得なかった。
「命ほど大切なものはない。人間は生きるために最大限の努力をしなければならない。決してあきらめてはならないのだ」というのが、一本気なスコット牧師の信念だったが、ジョン牧師は、言うなれば「自分の命よりも大切なものがある」ということを、態度で示して見せたのである。
そして、物語の終盤では、スコットはジョンの選択に通ずる態度を選ぶことになるのである。
ともあれ、スコット牧師一行が船底に向かうべく、梯子がわりに使った巨大なクリスマスツリーをよじ登って高所の扉(天地が逆になっているため)にたどり着いた直後、爆発と浸水がパーティ会場を襲い、そこに残った人たちは、もはや救うべくもない状態になってしまった。
それどころか、その浸水は、船底を目指すスコット牧師一行を追うようにして水嵩を増していくのだった。
このようにして、スコット牧師に率いられた一行の船底を目指す冒険の旅は始まり、彼らは幾多の困難を乗り越えていくことになる。
気の短いロゴが、事あるごとにスコットに噛みつく以外は、皆は協力して、そうした困難を乗り越え、一歩また一歩と、船底を目指して前進していくのだ。

しかし、その中で、最初に(10の)エイカーズが死亡する。
船底方向に通じている巨大な通風口の中のハシゴを登っている際に、船内の別の場所で爆発が起こり、片脚を痛めていたエイカーズは、その衝撃に堪えられず、水の中へと転落。ロゴが助けに降りたが、救うことはできなかった。

そして最後から2番目の危機(障害)となるのが、先へ進むためには、どうしても10メートルの潜水をしなければならないという難所である。
船底へと続くこの通路は、先行にして道を確認していたスコットが見つけた際には、まだ水没してはいなかった。
だが、後続のメンバーが完全に追いつくまで待っているうちに、水没してしまったのだ。
そんな水没した通路を示されて、例によってロゴがスコットに噛みつくが、スコットは「この道しかない」と説明する。
距離としては10メートルほどだが、もちろんプールを潜水で10メートル泳ぐのとは、わけが違う。
まず潜って、いくつかの扉を抜け、再び上に上がるという行程である。だから、最低30秒ほどは息を止めていなければならない。そのため、途中でパニックになったら溺れてしまうのである。
そこで、スコットが「この先を知っている私が、ロープを持って向こう側まで行って、道をつける。あとは、そのロープを伝ってくればいいのだから、やれるはずだ」と主張して、ロープを手に潜ろうとする。
その時、それまでは高齢と肥満のために、どちらかと言えば足手纏いになりがちだったベル・ローゼンが「私は昔、潜水の選手だったんです。優勝してメダルももらいました。今でも人には負けませんよ。だから、私にやらせてください」と申し出る。
すると、夫のマニーが慌てて「おまえ、それはおまえが17の頃の話だろう。もう何十年も前の話じゃないか」と止め、当然、スコット牧師も「お気持ちはありがたいが、これは私の役目です」と言って、ロープを持って潜っていくのである。
「向こうへつけば、ロープを引っ張って合図をするから、私に続いてくれ」ということで、スコットが進んでいくに従って、ロープが水の中へと送り出されていった。
ところが、しばらくしてロープが止まったにもかかわらず、合図が送られてこない。
スコットに何かあったのだと慌てる面々だったが、その時ふたたび、ベルが「私が行くわ」と言い、この時は夫のマニーも覚悟したのか、妻に「気をつけていくんだよ」と送り出す。
そして、ベルがロープを伝っていくと、その先で、スコット牧師は、倒れかかってきた金属製の柱材の下敷きになって身動きが取れなくなっており、溺れてかけているのを発見するが、間一髪でベルによって救出され、二人で反対側まで無事たどり着くのだった。

「どう、水の中では別人でしょう?」と明るく自慢するベルであったが、しかし、潜水の無理が祟ったのか、心臓発作を起こして、ベルは呆気なく死んでしまう。
ベルに救われたスコットは、ロープでの到着の合図を送ることも忘れて、ベルの亡骸を抱いて号泣する。

そして、そのあとスコットがロープで合図を送ると、残りのメンバーたちが次々とやってくるのだが、そこでベルの死を知ることになる。
その一方、メンバーが次々と反対側へ向けて潜っていく中で、突然、歌手のノニーかジェームズ・マーティンに「私、泳げないの。だから絶対に無理。ここに残る」と言い出す。それで、マーティンは、他の者を先に行かせ、二人になってから彼女を励ます。
「君が行かないのなら、僕も行かない。君一人を残していくことなんてできない。でも、どうか僕を信じて欲しい。僕が泳ぐから、君はただ息を止めて、僕を信じてしがみついくれてさえすればいい。僕が君を、あっちまで連れていくから」
そうした説得の結果、二人は無事に反対側へ渡れたのである。
そんなわけで、一時は死んだ妻のもとに止まろうとして、スコットに説得されたマニー・ローゼンも含めた一行8人は、あと少し進んだ先にあるドアを抜ければ、そこが目的地である船底というところにまで到達した。


階段の「裏側」を登っているとイメージして欲しい。扉はその空間の一番高いところにある)
ところが、その時、再び爆発が起き、その衝撃で、ロゴの妻リンダが、高所から下へ転落して亡くなってしまう。
妻を失って半狂乱になったロゴは、怒りの矛先をスコットに向けて、
「助かるなんて嘘をつきやがって! おまえがリンダを殺したんだ。俺の最愛のものを、おまえは俺から奪ったんだ!」
とそう泣き叫んだあと、その場に泣き崩れてしまう。
だが、その時、三度目の爆発の衝撃が一行を襲う。
今度は、目の前に見えていた、船底に通ずる最後の扉の手前に、高温の蒸気が吹き出し始め、このままでは扉に達することができなくなってしまったのだ。
その蒸気を止めるには、バルブを閉めるしかなかった。
ところが、そのバルブは、天地が逆さまになっているために、天井側にぶら下がるかたちになっていて、その下には足場のなるものがが無い。
そのバルブに、横合いから飛びつくことは可能だが、足場がないのだから、そのバルブを閉めるには、バルブにぶら下がった状態で、それを回して閉めるという、きわめて困難な作業となってしまう。
しかも、バルブを閉めた終えたところで、元の場所には戻ることはできず、下に落ちるしかないのだ。つまり、文字どおり、生きては戻れない「決死の作業」なのである。
だが、その時スコット牧師は、意を決してそのバルブに飛びつき、その体力を活かして、ジリジリとバルブを閉じていく。
それを言葉もなく見守るしかない一行の男女。


そして、なんとかスコットがバルブを占め終えて蒸気が止まると、スコットは、皆に「さあ行け」と促す。
だが、この「行け」とは「俺のことは諦めて、先へ進め」という意味だった。
しかし、それでも動けない一行を見ると、スコットは、泣き崩れたあと、くたりと自失状態になっていたロゴに向けて「あとを頼む」とひとこと言い残すと、ついに力尽き、皆の目の前で火の海の中へと落下していき、死んでしまうのである。
そしてその後、呆然としているロゴに対して、ジェームズ・マーティンが、
「あなたはこれまで、牧師さんに文句を言うばかりだった。だが、あんたは牧師さんにみんなのことを託されたんだ。だから、あんたがリーダーにならなくてはいけない。あんたは警察官だったんだろ。みんなを救って見せろよ」
と、そう柄にもなく激しく叱咤したところ、ロゴは憑き物が落ちたように静かな様子で「もう、何も言うな」と、そう言って、皆の先頭に立ち、最後の扉を開けて、みんなを目的地である船底へと導くのであった。

このあと、まもなく一行は救助されることになる。
すでに救助隊は、転覆したポセイドン号の船底の上にまで来ていたので、ロゴたちの必死の合図を受け取り、船底に穴を開けて、ついに生き残った6人を救助したのだ。


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で、私がこの映画でもっぱら感動したのは、すでに触れたとおりで、「ベル・ローゼンの活躍とその死」であった。
なぜ、最後のスコット牧師の英雄的な死ではなく、ベルの死に感動したのかと言えば、それは多分、ベルの死が、スコットの英雄的な死に比べ、こう言ってはなんだが「当たり前」であり、少しも「悲壮感のない死」だったからなのだと思う。
つまり、脇役的な人物であり、決して死を覚悟しての行動ではなかったとしても、みんなのために自分の持てる力を活かしたいと思ってなされた彼女の行動は、ヒーローによる見るからに英雄的な死よりも、むしろリアリティがあって、そこがかえって輝いて見えたのだと思うのだ。
私は、スコット牧師のようなヒーローにはなれないけれど、ベルのような死に方ならできるのではないかと、そんなことを思わせるものだったからこそ、他人事ではなく感動できたのではないだろうか。
どうせ死ぬのなら、ベルのように死にたいと。
実際、そのように感じた人が少なくなかったからこそ、この作品で、アカデミー賞の候補になったのは、主演のジーン・ハックマンではなく、脇を固めた9人の中でも、ベル・ローゼンを演じた、シェリー・ウィンタースただ一人だったのだ。彼女が、他の名優たちを食ってしまったのである。
そんなわけで、本作が「人間ドラマ」として傑作になり得たのは、この「ベル・ローゼンの活躍とその死」があったからなのだと、私は確信する。
スコット牧師の「英雄的な死」だけでは、本作はけっして、ここまで高く評価はされなかっただろう。
また、あのシーンが無かったら、本作の熱心なファンたちが、毎年、ロナルド・ニーム監督を招いて、本作のロケ場所となったクイーン・メリー号に集まり、イベントを開くというようなことにもならなかっただろう。
この作品が、単なる英雄的なアクション映画だったら、「ああ、楽しかった」で終わったはずなのだ。
一一だが、本作はそれだけの作品ではなかった。
当初は「命が一番大切だ。だから、人間は自分の力で生き残る努力をしなければならない」と、体育会系にすぎる、いささか強引なところさえあったスコット牧師だったが、彼も最後は「命より大切なもの」を見つけて、そのために、自分の命を捧げることになった。
また、愛妻一本槍であり、それ以外はいささか独善家であったマイク・ロゴも、「最も大切なもの」である妻を失った後、生きる気力まで失ったかのようだったが、それでも、スコットと死に様を見せられて、自分が死んだ妻に報いる唯一の方法としての、新たな「最も大切なもの」を見つけたようだった。
彼はきっと、死んだ妻が褒めてくれるような男であろうと、そう考えたのである。

だが、そうした男たちの悲壮な決意よりも、私の心を打ったのは、ベル・ローゼンの死に様だった。
英雄としてではなく、ただ当たり前のことを当たり前にして、その結果として、たまたま死んでしまった、とでも言わんばかりの、ユーモアさえ湛えていた、彼女の明るい死に様に、私はひとつの理想を見たのだと思う。

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本作の原作者であるポール・ギャリコは、児童文学者として数々の名作を残した人である。
私は後年、ギャリコの邦訳書をすべて入手したが、読めたのはそのうちの数冊に過ぎなかった。
けれども、その数冊、つまり『七つの人形の恋物語』『スノーグース』『雪のひとひら』は、いずれも私を感動させた。

中でも『七つの人形の恋物語』は、私がこれまで読んできた数多の本の中で、10点満点の10点をつけた、たった2冊の小説のひとつだった。
それくらい、感動した作品だったのである。
無論、この『七つの人形の恋物語』も、若い頃に読んでいるから、いま読めば、多少なりとも印象は違うのであろう。
だが、私がギャリコの作品に惹かれたのは、たぶん、ギャリコの「純粋」指向にあったのだと思う。純粋あるいは無垢であることへのギャリコの憧れが、私の心を打つから、どの作品にも、多かれ少なかれ感動させられてしまうのだ。
さて、ここで話を映画『ポセイドン・アドベンチャー』に戻そう。
ニーム監督によるコメンタリーによれば、本作は「子供向け作品」を意識して撮られたらしい。
なにしろ原作がギャリコだから、おのずとそうなったのではないだろうか。
子供の頃に本作を見た私は、本作が「子供向け」向けだとは少しも思わなかったし、今回再鑑賞しても、そうは思わなかった。
ただ、ニーム監督のコメンタリーで、初めてそう知らされただけなのだ。
だが、そう聞かされてみると、たしかに登場人物たちは全員、基本的には好人物だった。
他人を思いやり、他人のためにできることをしようとする人ばかりだった。
唯一の例外に見えるロゴだって、結局は、愛する妻のこと以外が見えなくなっていただけで、決して自分のために動いていた人ではなかったのである。だからこそ、憎みきれないキャラクターだったのだ。
したがって、そうした意味でなら、本作の登場人物たちは、ある意味ではリアリティが無いとも言えよう。
大人の嫌らしさを持った人物は登場しない。ただ、立場が違い、考え方が違うために、衝突することもあっただけなのだ。
そして、こういうところが、児童文学者ポール・ギャリコの、児童文学者たるところだったのであろう。
ギャリコは、人の善意を信じたいと願った、根っからの児童文学者だったのである。
そして本作、映画版『ポセイドン・アドベンチャー』は、そうしたギャリコの、最も大切な部分を引き継いでいたからこそ、一過性の人気に終わることなく、熱心なファンを掴むこともできたのであろう。
ファンたちの生き方に影響を与え、成長したファンが、自分の子供に本作を見せるということにもなったのである。
コメンタリーでニーム監督は、
「何より、原作者のポール・ギャリコが、この映画を気に入ってくれるかが気になったのだが、正直なところ、まったく自信が無かった。原作の多くの魅力的なエピソードの大半を切って、別の作品にしてしまったからだ。
だが幸いなことに、ギャリコはこの作品を気に入ってくれたよ」
と、そう語っていた。
ギャリコが、本作を気に入ったのは、きっとベル・ローゼンのエピソードが残っていたからだと、私は思う。
本作が単に、スコット牧師の自己犠牲的な英雄譚に終わっていたら、ギャリコは満足しなかったのではないかと、そう思えるのだ。

(2025年12月31日)
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