マイク・ニコルズ監督 『卒業』 : 若さの輝き
映画評:マイク・ニコルズ監督『卒業』(1967年/アメリカ映画)
名高い「名作」である。「映画.com」の解説文に、
『結婚式場から花嫁を奪い去る場面は、映画史に残る名シーンとしてあまりに有名。』
とあるとおりで、本作を見ていなかった私でも、そのパロディシーンの方だけは、否応なくいろいろと見せられてきた。

しかしまた、そうであるからこそ私は、本作を「恋愛映画」だとは理解してきたし、その認識も間違いではないのだが、「恋愛映画」に興味がない私は、そのことでおのずと、本作を敬遠してもきたのである。

そんな私が今回本作を見ることにしたのは、本作が「アメリカン・ニューシネマ」に1本に数えられる作品だと、最近になって知ったためだ。
「アメリカン・ニューシネマ」の目ぼしい作品は大体見たので、本作も「アメリカン・ニューシネマ」を代表する作品の一つなのなら、まあ好みではないかも知れないけれど「片づけてしまおう」と、そう考えたのである。
ところが、実際に見てみると、これが面白かった。
思っていた「恋愛映画」とは、ちょっと趣きの違った作品であり、そこが私の好みに合ったのだ。
しかも興味深いことに、「アメリカン・ニューシネマ」と言えば、「暗い」というのが通り相場なのだが、本作は決して「暗い」作品ではなかったのである。
また、サイモン&ガーファンクルの代表曲である「サウンド・オブ・サイレンス」や「スカボロフェア」が、本作で使われた曲だというのを、今回初めて知った。
昔から大好きな曲で、カラオケで歌ったりもしたものだ。
しかしまた、私が本作『卒業』に感じた面白さは、「サウンド・オブ・サイレンス」や「スカボロフェア」に感じられる「静かな抒情性」ではなく、「損得抜きで突っ走る、後半の痛快さ」にこそあった。
本作の「ストーリー」は次のとおりである。
『将来に不安を抱えるエリート青年が、人妻と不倫の末にその娘と恋に落ちる姿を描き、主演のダスティン・ホフマンを一躍スターにした青春映画。大学を優秀な成績で卒業したベンジャミンは、将来を嘱望されながらもどこか悶々とした毎日を送っていた。虚無感を抱える彼は、父親の共同経営者の妻ロビンソン夫人に誘惑され、逢瀬を重ねるように。そんなある日、両親の勧めで仕方なく夫人の娘エレインとデートしたベンジャミンは、純粋な彼女を本気で好きになってしまう。』
(映画.com『卒業』)



『米国東海岸の有名大学陸上部のスターで新聞部長でもあったベンジャミン・ブラドック(ダスティン・ホフマン)は、卒業を機に西海岸のカリフォルニア州南部のパサデナへ帰郷する。友人親戚一同が集った卒業記念パーティーで、将来を嘱望される若者に人々は陽気に話しかける。そのパーティーで、父親(ウィリアム・ダニエルズ)の職業上のパートナーであるミスター・ロビンソンの妻のミセス・ロビンソン(アン・バンクロフト)と再会する。卒業記念のプレゼント、赤いアルファロメオ・スパイダー・デュエットでミセス・ロビンソンを送ったベンジャミンは、彼女から思わぬ誘惑を受ける。
一度は拒んだベンジャミンだったが、いま目標を失っている彼に示された道は他になかった。大学院への進学を期待されながらもどこに進学するか決めないでうつろな夏休みが始まる。夜ごとの逢瀬。それでもぬぐい去れない虚無感。心配した両親は、同時期に北部のバークレーの大学から帰郷した幼なじみのエレーン・ロビンソン(キャサリン・ロス)をデートに誘えという。一度きりのデートでわざと嫌われるようにし向けるはずが、ベンジャミンはエレーンの一途さに打たれ、二度目のデートを約束してしまう。
二度目のデートの当日、約束の場所に来たのはミセス・ロビンソンだった。彼女はベンジャミンにエレーンと別れるように迫り、別れないならベンジャミンと交わした情事を娘に暴露すると脅す。焦燥したベンジャミンはエレーンに自ら以前話した不倫の相手は、他ならぬあなたの母親だと告白する。ショックを受けたエレーンは、詳しい話も聞かずに、ベンジャミンを追い出す。
エレーンを忘れられないベンジャミンは、彼女の大学に押しかけ、大学近くにアパートを借り、エレーンを追いかける。結婚しようという彼の言葉を受け入れかけたある日、しかし、彼女は退学していた。そしてベンジャミンはエレーンが医学部卒業の男と結婚することを知る。
どうにか彼女の結婚が執り行われているサンタバーバラにある教会を聞きだして、そこまで駆けつけたベンジャミンは、エレーンと新郎が今まさに誓いの口づけをした場面で叫ぶ。「エレーン、エレーン!」。ベンジャミンへの愛に気づくエレーンはそれに答える。「ベン!」。
ベンジャミンを阻止しようとするミスター・ロビンソン。悪態をつくミセス・ロビンソン。二人は手に手を取って教会を飛び出し、バスに飛び乗る。バスの席に座ると、二人の喜びはやがて未来への不安に変わり、背後に「サウンド・オブ・サイレンス」が流れる。』
(Wikipedia「卒業 (1967年の映画)」)
この映画で、特に私の印象に残ったシーンがいくつかある。
(1)物語冒頭の、大学を優秀な成績で卒業し自宅へ戻ったベンジャミン。彼の卒業記念パーティーに集った、アッパーミドル(中流階級の上位層や上位中産階級)の親やその友人知人たちによる、騒々しい祝福ぶりと、それを嫌悪するベンジャミン。

(2)ミセスロビンソンとの関係があるにも関わらす、それを知らない両親から、ミセスロビンソンの娘エレインとのデートを強いられたベンジャミンが、仕方なく、そのデートでエレインから嫌われようと、旧知のベンジャミンに好意的であるエレインを殊更に冷たく扱い、最後は、女性が入るようなところではない「ヌードダンスバー」に彼女を連れ込んで、嫌な思いをさせようとする。
ヌードダンスの舞台のすぐ前の席に着くと、ダンサーは、女性客が珍しいと思ったのか、舞台を背にして座るエレインの背後から近づいて、その頭の上で、剥き出しの乳房を振り回すという芸を披露する。エレインは、この屈辱に堪えきれず、下を向いて涙をポロポロと落とし始める。


(3)ラストの、教会から花嫁(エレイン)をさらってゆくシーン。
(1)については、いかにも「中途半端に成り上がって、さらに上を目指そうとしている人たちの(善人ではあれ、その)俗物性」が、嫌というほど誇張的に描かれていて、見ているこちらも不愉快になるほどだから、ベンジャミンの鬱屈にも素直に共感できる。
(2)のシーンで、エレインが下を向いて泣き出すシーンは、まさに「可憐」と言うほかなく、こんな女性を見たのは、本当に久しぶりだという気がして感動した。
もちろん、その涙を見せられたベンジャミンは、その陰険なくわだてをすっかり放棄し、あわてて謝罪するし、彼がエレインに惚れてしまったのも、きっとこの涙を見せられたからだろう。昔は「女性の涙」は、男に対する最高の武器だというようなことがよく言われたが、このシーンを見て、初めてそのことを思い知らされたように思う。
実際、エレインが最初に登場したシーンでは、年増美女のミスロビンソンと比べて、たしかに若くて可愛くはあるが、「美人」という点では、どっちもどっちかななどと、とにかく「面食い」である私は、そんなふうに突き離した評価をしていた。つまり、エレインを演じたキャサリン・ロスには申し訳ないのだが、「顔貌」の問題だけなら、彼女は必ずしも私の好みではなかったのだが、前述の落涙のシーンや、結婚式場の2階から新郎新婦を見て「エレーン、エレーン!」と必死で叫ぶベンジャミンを見上げる彼女の、いま置かれた状況をすべて忘れてベンジャミンに惹きつけられているかの表情は、実に見事なものであった。名前だけは知っていたが、キャサリン・ロスは、たしかに上手い女優だったのだ。
(3)については、あまりにも有名なシーンなので、特に付け加えることもないが、ただ上にも書いたとおり、ベンジャミン役のダスティン・ホフマンの熱演もさることながら、キャサリン・ロスの演技も素晴らしかったということを強調しておこう。





さて、ここで話を戻して、私が本作を面白いと思った点、つまり、
『思っていた「恋愛映画」とは、ちょっと趣きの違ったものであり、そこが私の好みにあった』
という点について説明しておこう。
私がイメージする「恋愛映画」というのは、基本的に「相思相愛」のカップルの物語であり、そこに何らかの「障害」が発生し、「果たして二人は結ばれるのか?」というような物語である。
だが、本作は、そうではない。
ベンジャミンは、当初はエレインに興味がなかったし、エレインの方もベンジャミンに惚れているわけではなく、単に旧知の友人として好意を持っていたというくらいの感情であった。
ところが、ベンジャミンによる屈辱的な扱いにプライドを傷つけられたエレインの心は、いったんはベンジャミンから離れてしまう。しかし、ここで、ベンジャミンは必死の謝罪を行い「実は、夫や息子もある年上の女性と関係を結んでしまったということもあって、君とは距離を置こうとしたんだ」と、そんな半分本当で半分嘘の言い訳をし、「でも、今は君だけだ」と言って、何とかエレインに許してもらい、次のデートの約束を取りつける。もはやこの時のベンジャミンは、エレインの幼いまでの清純さにこそ、本気で惹かれていたのだ。
ところが、ベンジャミンの裏切りを知ったミセスロビンソンは、自分とベンジャミンとの肉体関係が娘にバレるのを承知で、二人の関係を壊すために、「自分はベンジャミンに強姦され、やむなく従わされていたのだ」という嘘を、娘と夫に伝えて、併せてその保身を図った。そのため、ベンジャミンは、エレインから決定的に嫌われ憎まれることになってしまう。
一一つまり、ここまでの二人は、「良い雰囲気」くらいにはなっていても、決して「相思相愛」というほどのものになったことはなかったのである。
だが、ここからが本作の面白いところで、その涙を見せられたことでエレインに惚れてしまったベンジャミンは、すべてを捨ててでも「彼女と結婚する」と決め、戸惑う両親を前にそう宣言して、大学のあるバークレーに去ってしまったエレインを追いかける。
そして、バークレーの街で彼女につきまとい、事の真相を語って、「それでも君のことが好きなんだ。結婚してくれ」と訴えるのである。



まあ、今で言うなら、これは完全なストーカー行為だし、一方的な「押しの強さ」ということにもなるのだが、私が気に入ったのは、ベンジャミンのこうした「一途さ」なのだ。
良識や世間体などに脚を引っ張られることなく、ただ「好きになったエレインと結婚したい」と一途に追いかける、その迷いのない真っ直ぐさが素晴らしい。
そして、こうした部分こそが、本作の「アメリカン・ニューシネマ」たるところなのでもあろう。
要は、「結婚式」に象徴される、それまでの社会的な決まり事や良識を踏み越えていこうとする、若き情熱である。
「Wikipedia」には、本作のラストについて、次のような記述がある。
『ラストシーンで(結婚式場も教会から逃亡し、バスに乗り込んだ)笑顔の二人が次第に不安になっていく様が映されるが、これは演者にわざと長く笑顔の演技をさせた後にカットがかかったように見せかけ、やっと終わったと思わせる事で再現している。また、カットの声を敢えて遅らせることで二人の不安感を強調している。監督のニコルズによると、彼らの未来が決して明るいだけではないことを暗示させたかったからであるという。』




二人の『未来が決して明るいだけではない』というのは、当然のことだ。
二人は、彼に好意的な期待を寄せていた親兄弟を裏切り、そのうえ大恥をかかせてしまったのだから、この先ふたりは、二人の力だけで生きていくしかない。だが、もともと経済的に恵まれて育った坊ちゃん嬢ちゃんである二人には、そんな新しい生活は、決して彼らが想像するほど甘いものではないはずだからである。
それでもだ、それでも、保身に脚をすくませることをなく、理想に向かって二人が突っ走って見せたところに、この映画の魅力があると私は思う。
もう、誰もが「無難」であること、自らの「保身」しか考えない今の世相において、私は二人を待ち受ける未来が困難なものであると承知していても、それでも、その「若さゆえの一途さ」を、祝福しないではいられないのだ。
(2025年3月15日)
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