小川哲 『火星の女王』 : ドラマ原案の実質的ノベライズ
小川哲の小説がNHKでドラマ化(2025年12月放映予定)されるというのを、しばらく前にどこかで目にした。
聞いたことのないタイトルだったので、最新作の映像化なのかと思ったら、どうやらそうではなかったようだ。
300ページ余りの、そこそこの長さの長編である本作は、人類が資源開発のために火星への移住を始めてだいぶ経った頃の、火星と地球を舞台に、複数視点で描かれた「政治謀略もの」だと言えるだろう。

つまり、舞台設定はいかにも「SF」しているが、内容自体は「母国本土と植民地」のいざこざを、未来を舞台にして描いた作品で、さして目新しい内容ではない。

火星で発見された「謎の物質」の管理をめぐって、地球側と火星側との政治的駆け引きとしての謀略が行われて、語り手となる若い男女がこれに巻き込まれるというような内容で、「謎の物質」自体は、「SF設定」としては、それなりのものだが、本作は、この「謎の物質」の正体をめぐるハードSFなどではない。





本書の帯には『火星にも人生はある。』とあるし、NHKのドラマの宣伝では「SFヒューマンドラマ」と、わざわざ銘打っているほどだから、あくまでも人間中心のドラマで、それはもう、NHKでやるのなら仕方のないところなのであろう。
だが、そうした、後から知った事情は別にして、本作小説版『火星の女王』が問題なのは、なにより「小説としてつまらない」という点なのだ。
そして、何がつまらないといって、最後までドラマが盛り上がらない。
いろいろ見せ場らしきものも無いではないのだが、全体に緊張感に欠けて、フラットな印象なのだ。
「いつ面白くなるんだろう?」と思いながら読んでいても、いっこうに面白くならない。
「これは最後に一発、あっと言わせる作品なのかな?」と期待したが、それもない。
読み終わって感じるのは「そういうお話ですか。わかりました」といった、醒めた印象だけなのだ。
つまり、本作は、小川哲の本をすべて読んでいる私に言わせると、間違いなく小川哲の「最低作」なのである。
で、どうしてこんなにつまらないのかと考えてみると、本作は小川哲らしさに欠けるのだ。
いろんなパターンで小説の書ける小川だが、そこに一貫している魅力とは、第一著書のレビューから一貫して指摘してもいるとおりで、「人間に対する醒めた視線であり諦観」の存在なのである。
つまり、小川哲が本気で人間を描くと、人間に対する諦観が滲み出て、それが小川哲固有の文学性ともなっていたのだが、本作にはそれが無く、当たり前な、かつ、妙に「前向き」なSFドラマになってしまっている。
では、どうしてこんなものになったのかというと、それはたぶん、本作の場合は、NHK側からの働きかけが先にあって、書かれた小説だからなのであろう。
つまり、NHK側から「ドラマ化に適した原案小説を書いてはもらえまいか」という依頼があり、NHKと小川哲との間で、アイデアのすり合わせをして、大筋が決まったところで、ほとんど同時進行的に、小説が書かれ、ドラマが作られた。

つまり、無条件に自由に書かれた原作小説が先にあって、それを読んだNHK側が「これをドラマ化しよう」と考えたのではなく、ドラマ化を前提とした構想が、NHK側のスタッフと小川哲との間で練られて、それを元にして、それぞれに小説版とドラマ版が作られた、というようなことだったのではなかったか。
そのため、本作小説版では、たしかに「SF的なディテール」は書き込まれている。ドラマでは、あまりくどくどとは説明できない部分を、小説版ではきっちりフォローしているということだ。
しかし、人間ドラマの方となると、書き込みが足らず、通り一遍のキャラクターでしかなくなっている。
唯一の例外は、イーロン・マスクを下敷きにしたのであろう人物で、オリジナルの個性が強烈なので、それなりに面白いキャラクターになってはいるのだが、しかし、それ以上のものではなく、その他の主役級の人物は、総じて個性が薄く、魅力不足だ。キャラクターが立っていない。
例えば、本作のタイトルは『火星の女王』で、このタイトルが何を意味するのかは判然としないまま物語は進行していき、後半になってから、語り手の一人である、ある若い女性につけられるニックネームだと分かる。
だが、主役の一人であるはずの彼女は、ほとんど冒頭近くから登場しているにもかかわらず、作品タイトルに関わるほどの人物とは感じられなかった。だから、読んでいて「彼女が〝火星の女王〟なんだな」と気づくことも出来ない。
いちおうの個性は与えられているが、主人公ではなく、あくまでも語り手の一人という印象だったから、まさか彼女が後で「火星の女王」と呼ばれるようになる存在だと察することなど出来なかったのだ。

言い換えれば、主人公であるはずの彼女ですら、この程度なのだから、物語を主導する主人公クラスの登場人物は、総じて弱い。
また、だからこそ、「主たる脇役」であるべきイーロン・マスクもどきが、妙に目立ってしまうのである。
これはたぶん、主人公クラスの登場人物は、ドラマ版では、人気俳優が演ずるので、小川哲的な「諦観」を感じされるようなキャラクターには出来なかったという事情や、そもそもNHKのドラマでは、「諦観」や「悲観」が前面に出るようなものには出来なかった、といったことなのではないだろうか。

もちろん、小説版は小説版で、小説として独自の世界を展開すれば良かったのだが、そういうわけにはいかなかったのか、あるいは、小川哲が妙に義理堅く「原案」に忠実だったかで、小説としては弱いものになってしまった、ということなのではないか。
NHK側としては、火星を舞台にしたSFドラマでも、ハリウッドに負けないクオリティで見せますよといったところが「売り」にしたかったのだろうし、その上で、「イーロン・マスク」「植民地主義」「(星間)人種差別」「独立運動」といったことを絡ませたスペクタクルドラマにしたかったのであろう。
その一方で、本格的な「政治謀略もの」というのは、それはそれで尺の問題などもあって大変なので、当たり前に主人公クラスの俳優の魅力も前面に立てたいという思惑もあって、大筋では壮大な話なのに、実際には、主たる登場人類がこぢんまりと活躍するドラマになってしまったのではないだろうか。
同種のSF作品としては、ロバート・A・ハインラインの歴史的名作『月は無慈悲な夜の女王』があって、本作のタイトル『月の女王』は、たぶんハインラインのそれを意識したものなのだろう。
だが、「月」を今風に「火星」に変えるのは仕方ないとしても、「無慈悲な夜の」といった「文学性」を排除してしまったところに、隠しようもなく小説としての弱さが露呈させてしまったのであろう。
https://www.nhk.jp/g/blog/l6ix8cggt1/
(2025年11月26日)
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