チャールズ・チャップリン 『モダン・タイムス』 : 近代の時間を生きる。
映画評:チャールズ・チャップリン『モダン・タイムス』(1936年/アメリカ映画)
巨大な金属歯車の回る機械の中に巻き込まれているシーンがあまりにも有名な、チャップリンの代表作のひとつとされる作品である。
本作についての私の印象は、最初のうちは「目が離せないほど、とにかく面白い」というもので、頭に浮かんだのは「これは、ある種の〈ジェットコースター・ムービー〉なのではないか」ということだった。

けれども、ずーっと見ていると、後半ではその休みなく展開する物語に、こちらの方がいささか息の上がる感じにもなってしまう。
とにかく、良くも悪くも、内容充実しており、最後まで息つく暇を与えてくれないのだ。
もう少し「抜く」ところがあっても良かったのではないか、そう思わせるほど、とにかく、これでもかというくらいに物語が三転四転するし、見せ場が次々と並んで押し寄せてくる感じなのである。
本作は、人間が歯車化されて、社会機構の一部にされ、人間性(個別性)を奪われることになる、そんな現代社会(近代以降の社会)の過度な「合理主義」を批判した作品だと、だいたいそのように評されることが多い。
『資本主義社会や機械文明を題材に取った作品で、労働者の個人の尊厳が失われ、機械の一部分のようになっている世の中を笑いで表現している。自動給食マシーンの実験台にされるシーンや、チャップリンが歯車に巻き込まれるシーン、ラストのチャップリンとヒロインが手をつないで道を歩いてゆくシーンなどが有名である。』
(Wikipedia(モダン・タイムス))

内容的には、まったくそのとおりだと思う。
しかし、見終えて感じたのは、この作品自身が、近代的にスピーディーであり、無駄がなさすぎるのではないか。もう少し薄めて、ゆったりしたところがあっても良かったのではないか、というようなことであった。
なんだが、見ているこちらの方が、ベルトコンベアに乗せらて、一方的かつ良いように処理されているといった、そんな気分にさせられたのである。

なんで、チャップリンはここまでやったんだろうと考えてみると、この当時のチャップリンは、とにかく映画作家として充実しており、それだけやりたいことや意欲に溢れていた、ということなのではないか。
一一私には、そんなふうに感じられた。
本作は、これまでの作品とは違って、セットもかなり大掛かりなもので、チャップリンが、その体ひとつでやっているというようなシンプルなものではなく、あらゆる映像的テクニックを駆使し、映画作品として作り込まれているという印象が強い。
「Wikipedia」によれば、すでに映画がトーキー(音声付き映画)に移行していた点で、もともと「サイレントの力」を信じていたチャップリンとしては、悩ましい時期でもあったようだ。
そもそも、トーキーというのも、技術の発展によって得られたものなのだから、その意味では、チャップリン自身、機械化の波に呑み込まれているという意識があったのかもしれない。
しかしまた、それを言えば、映画というもの自体が、そもそも約半世紀前に生み出されたばかりの新技術でもあり、映画に生涯を賭けたチャップリンとしては、新技術を単純に拒絶するわけにはいかなかったというのは、むしろ当然のことだったのでもあろう。
本作も、一度はトーキーで作ったものの、その結果に満足できず、結局はその音声の一部を残しただけの、基本はサイレントとして完成させたという作品である。
本作には、チャップリンの歌うシーンがあって、ここだけは声が入っているのだが、私はこれを見て「チャップリン本人の声なんだろうか?」と、思わず疑ってしまったのだが、「Wikipedia」によれば、当人の声であり、映画での初披露だったそうだ。

しかし、当然のことかも知れないが、その声は、サイレントのチャップリンのイメージとはだいぶズレがあるように感じられて、当時チャップリンが危惧していたであろう、音声という新しい要素の加わることの危うさも、実感として理解することもできた。
今で言えば、例えば「吹き替え」なんかがそれにあたって、声優を使って、他言語の映画を自国語に「吹き替え」るという、あれである。
私は、もとは映画ファンであるよりもアニメファンなので、アテレコや声優というものには、なんの抵抗もない。
今どきのようにアイドル扱いにはしないが、アニメスタッフの一員のように感じてきたから、声優が外国人映画を吹き替えることにも、基本的には抵抗はない。
そもそも、子供の頃にテレビで見た外国映画は、すべて「吹き替え」だったのだ。
だが近年、DVDで映画を見るようになってからは、可能なかぎり、オリジナル音声を字幕付きで見ることにしている。
可能であれば、字幕さえ無い方が良いのだが、語学が無いので、これはどうしようもない。
ともあれ、なぜオリジナル音声で見るのかと言えば、それは単純に、できるかぎりオリジナルの味わいを味わいたいと思うからだ。
吹き替え版だって、それで見始めれば5秒で順応できるけれども、やはり「気は心」といったところである。
閑話休題。
いったんはトーキーで撮っておきながら、最終的には(部分トーキーの)サイレントとして完成させた本作『モダン・タイムス』だったが、しかしまた、後には考えが変わって、「トーキーで作っておけば良かった」と考えるようになったというから、チャップリンの悩みや迷いは、かなり根の深かいものであったようだ。
『街の灯』のレビューでも紹介したとおり、チャップリンという人は、映画の中のキャラクターが与える柔らかい印象とは違って、かなりの「完璧主義者」だったようだ。
だから、信念として「サイレントの美学」は持っていたものの、しかし頑迷にそれを固執するといったタイプでもなく、進取の気概もあったようである。
本作においても、チャップリンの超絶的な所作は相変わらずだが、しかし、だからといって、それをそのまま映して見せるというのではなく、映画的に、早回しや逆回転などの技術の使用も否まなかったようである。
つまり、結果として良い作品に出来るのであれば、従来のやり方に固執したりはしない柔軟性を持っていたようだ。
例えば、「Wikipedia」の記述で面白いと思ったのは、次の部分である。
『『街の灯』を宣伝するヨーロッパ旅行中に、チャップリンは大恐慌がもたらした悲惨な状況、および現代のテクノロジーについて話し合ったマハトマ・ガンディーとの会話から『モダン・タイムス』の着想を得た。チャップリンは、ガンディーがそれに対し一般的に反対する理由には共感しなかったものの、「利益のみを考慮した機械」が人々を失業させ、生活を台無しにしたことは認めた。』
そうなのだ。実際、本作で批判されているのは、機械化や合理化そのものではなく、それによって惹起されたものの方なのである。
つまり、やはり本作に描かれているのは、大恐慌時代という社会背的景をそのまま反映した、苦しい生活を強いられている社会的弱者への、以前と変わらぬ同情なのだ。

たぶん、チャップリンにとっては、そっちの方が重要であり、機械化や合理化といった「文明化」的な問題の方は、興味はあるけれども、二の次といった感覚があったのかも知れない。
つまり、そうしたものが、貧しい人たちを痛めつけるようなものであってはならないけれど、それが役に立つものなら、必ずしも否定しないばかりではなく、けっこう魅了されてさえいたのではないだろうか。

有名な冒頭の「機械的合理化の進んだ工場」でのシーンは、せいぜい20 分ほどだと思うのだが、このシーンの充実ぶりをみていると、チャップリンは複雑な機械がけっこう好きだったのではないか、という印象を受ける。
人間の機械化や合理化には反対しているけれども、新しい機械そのものについては、むしろワクワクしながら楽しんでいる、という印象を受けるのだ。
上に引用した対談の記述では、少しわかりにくいのだが、ガンディーの方は、社会の機械化や合理化を、かなり本質的な部分で否定していたように読める。機械化や合理化の先にあるものは「暗い」と見ており、基本、全否定しているように読めよう。
目先の便利さにとらわれたら、先々後悔することになるに違いないと、ガンディーはそんな危惧を抱いていたように感じられるのだ。
だが、チャップリンの方は言うと、もう少しリアリストで、そこまで遠い将来のことまでは考えておらず「ひとまず、役に立つものは使えば良い。人を苦しめる道具になっては困るが、人を活かす道具として使えるのなら、それを拒む理由はない」といった、そんなリアリズムである。


で、私としては、どっちが正しいとは断じ難いのだが、折衷案(?)的に言うならば、たぶん将来的な見通しについては、ガンディーのそれが、正しいのだろうと思う。
しかしその一方で、人というのは、将来的な危惧において、目の前の便利さや快楽を拒絶できるほど強くはないので、結局のところをそれを使うことにしかならない。
だとすれば、チャップリン式に、そうした新技術を「使うことを前提に、より良い使い方を模索しつつ使う」というのが、唯一可能な選択肢なのではないかと、そう思える。
つまり、ガンディーの考えは正しいが、たぶんそれは大半の凡人には、選択不可能な選択肢だ、ということである。
したがって、巨大な歯車に巻き込まれているチャップリンの姿とは、私たちの巻き込まれている現状を、批判的・否定的に描いているというよりも、このシーンの印象どおりに、私たちは、歯車に巻き込まれながら、けっこうそれを喜んでいるという、そんな様子を描いているのかも知れない。
非人間化されているから辛いとか悲しいというよりも、むしろ私たちは、人間でなくなることに、喜んで巻き込まれていっているのではないだろうか。
わが国では、少子化による労働力不足が深刻化する中、テレビでやたらに目立つコマーシャルと言えば、転職サイトや転職アプリといったもののそれなのだが、ああしたもので時折り語られる「隙間時間の有効活用」というのは、いかにも人間の歯車化を感じさせられて、個人的にはウンザリさせられる。
「隙間時間」さえ無いような、それを息抜きに使えないような生活とは、たった一度の人生を細切れにして切り売りする類いことであり、生の断片化、それこそ歯車化のように思えてならない。
少なくとも私は、そんな生活はしたくない。
けれども、先立つもの(カネ)がなければ、そうしてでも働くしかないのだから、もはや少なからぬ人たちにとっては、好きとか嫌いとか言っていられるような問題ではないのであろう。
チャップリンが、少女と手を繋いで、一本道を彼方へと去っていくラストは、希望に満ちた幸福そうな様子が印象的だけれども、私たちを待ち受けている道の先が、そのように明るいものだとは、とうてい思えない。

「モダン・タイムス=近代的な時間(時代)」とは、細切れに忙しなく進行するものであり、それでいて、その時々の「今」だけは、充実しているように感じられる。
しかしながら、全体としては、どこか非人間的、あるいは、非動物的にすぎて、あまり幸福な未来に続くものとは感じられない。
そうした意味で、近代の時間とは、「今しかない」ような時間であり、言い換えればガンディー的な「俯瞰する目=視野の広さ」を、人から奪うものなのかも知れない。

(2025年11月12日)
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