見出し画像

『星野之宣50周年珠玉SF選集 星芒』 : ビジュアル性と可読性

書評:『星野之宣50周年珠玉SF選集 星芒』(河出書房新社)

星野之宣は、私が子供の頃から活躍していた漫画家だが、いまだに「過去の有名作家」にはなっていない、現役バリバリだというから驚きだ。

年齢的には、私より8つ上の、1954年生まれ
萩尾望都が1949年、竹宮恵子が1950年だから、それよりは少し年下だが、おおよそ同世代。
だが、この2人が、絵柄における柔軟性やデッサン力の低下など、画力的な劣化を見せ始めたのは、すでに20 年近くも前のことなのだから、星野之宣70歳を超していまだに画力の低下を見せていないというのは、ほとんど驚異的なことであろう。

アニメファンの私は、主にアニメーターついて、その「画力の低下」という点に注目してきたけれど、当然のことながら、マンガ家であれアニメーターであれ、天才的な画力を持つ描き手だったとしても、その画力が最高潮に達するのは、おおよそ30〜50歳くらいの時期であり、それ以降は、徐々にその画力が低下させていくと見てよい。

なぜ、こうした年齢から画力が低下していくのかといえば、ひとつは熟練、もうひとつは体力の低下、この兼ね合いだからであろう。

つまり、30〜50歳くらいの間の、特にその前期においては、その技術的熟練と経験によって画力が最高潮な時期なので、本人もすすんでバリバリと描くから、比較的画力が安定している。
ところが、その頃に飛び抜けた画力を示して有名になった人というのは、漫画家ならばアシスタントへの依存度が増えていくことになるし、アニメーターなら自分で原画を描くのではなく、作画監督として他人の描いた原画の修正に徹する、といった変化がおこる。

つまり、両者に共通するのは、自分一人で「一からぜんぶ描く」ということをしなくなるために、デッサン力の低下が進む、ということなのではないだろうか。
平たくいえば、もともと人体デッサンに優れていた人でも、「顔」ばかり描いていれば、人体デッサン、つまり全身やその動きについての画力が低下してくるのである。

要は、いろいろと何でも描くことが訓練となって、デッサン力を安定させるのだが、それをやらないと徐々にデッサン力が低下してくるのである。

そして無論、体力低下ということもある。
まず、視力の低下というのがわかりやすい。若い頃なら、それこそ0.01ミリ単位で絵が描けていたのが、視力の低下のために描けなくなく。手元も震える。
裸眼の視力低下は、やはり眼鏡では補いきれない部分があるはずだ。

また、スタミナとしての体力が低下してくれば、自ずと「集中力の持続時間」も短くなるし、集中度そのものも落ちてくる。

趣味で絵を描いていた私のような素人でも、パソコン上で絵を描くのに、若い頃は12時間ぶっ通しでも平気だったし、体力に任せて長時間ぶっ通しでパソコン画面に集中していると、いつの間にか、目から涙が自然に出てくるというようなことがあった。目が悲鳴をあげていたということなのであろう。
だが、歳をとれば、おのずとそんなことも出来なくなる。涙が出てくるようになる前に、数時間も集中していたら、目が霞んでくるし、眠気さえ差してきて、おのずと作業の継続が不可能になってしまうのだ。

したがって、本書『星野之宣50周年珠玉SF選集 星芒』の解説者でマンガ解説者の南信長が言うように、星野之宣がいまだマンガ家として、完全な現役であり、いまだに画力の低下が見られないというのであれば、それは驚異的なことなのである。

実際、当アンソロジー所収の中での最新作、2014年の短編「雷鳴」を見るかぎり、この還暦を超えた段階での作品では、画力の低下は、まったく見られない。

(本書123「雷鳴」より)

私は、星野之宣の現在進行形の作品を読んではいないし、星野ほどの大御所になると、公にその画力の低下に言及する評論家はいないだろうから、その現状についてはわからないのだが、星野が10年前の還暦すぎまで画力を保っていたというのは、感嘆すべき事実だと評価できよう。
もしかすると、星野は、歳をとってからも、デッサンの訓練を続けていたのかも知れない。いくら画才があっても、それくらいしなければ、必ずデッサン力は低下するものだからである。

さて、事程左様に、星野之宣は画力のある人である。
だが、画力があるだけではない。つまり「上手い」だけではなく、絵の「センスがある」。ここが重要なのだ。

(本書P212「美神曲」より)

いくら画力自体はあっても、センスが良くない、時代にそぐわないという場合には、その絵は評価されないのだが、星野之宣の場合は、その絵的なセンス(絵ヅラのセンス)が並外れて優れている。
人物(キャラクター)だけではなくメカニックデザインもそうだし、そもそも「構図・画面構成」のセンスも優れている。

そして、今回初めて、星野之宣のデビュー直後の初期作品を見て驚いたのだが、星野之宣は、初めから「洗練された劇画タッチの星野之宣」だったわけではなく、デビュー当時は、当たり前に「当時のマンガ絵」だったという点に驚かされた。

(本書P25「はるかなる朝」より)

つまり星野之宣は、時代に合わせて、自分の絵柄を洗練し、発展させ、変えてきた人なのだ。自然に変わったのではなく、意識的に変えてきた人なのである。

これは、画力のある人気マンガ家とて、容易にやれるようなことではないのだが、星野はそれを現にやってのけて見せているというのが、驚くべきところなのだ。

また、そんな人だがこそ、還暦を過ぎても、その卓越した画力を保つことが出来たのではないかとも推察されよう。
つまり、星野之宣は、その画力において、天才的であるだけではなく、ほぼ間違いなく、非凡な努力家であり、勉強家なのでもあろう。

そんなわけで、星野之宣の「画力」ということについては、ほとんど注文をつけるべき点はない
だからあとは、マンガ作品としての「物語との兼ね合い」という点が、問題になって来よう
本稿のタイトルを「ビジュアル性と可読性」としているのも、その観点が、本稿の眼目だからだ。

このタイトルで問うているのは「マンガにおいて、絵は上手ければ上手いほど良いのか?」という問題なのだ。

一一というのも、かなり個人的な趣味嗜好の問題があるとは言え、私は昔から、星野之宣というマンガ家が、絵が上手いだけではなく、時代の半歩先をゆく、優れた美的センスの持ち主として、常に気になってきた。
だが、気になってはいたのだけれど、なかなか手が出なくて、ほとんど読んだことがないのである。

で、どうして読めなかったのかといえば、それは端的に言って「イラストとして見れば完璧だけれど、マンガとしては読みにくい。物語に没入できない」と、おおよそそんなふうに感じていたからである。

これは、例えば、大友克洋が影響を受けたフランスの漫画家(イラストレーター)として、メビウス(ジャン・ジロー)が日本で紹介された際にも感じたことで、たしかに絵としては素晴らしいのだが、この絵でマンガを読みたいとはあまり思わないし、大友克洋についても、今でもそうした違和感が多少はある。
昨今のアメコミもデッサン力に優れた作家が多いので、絵だけを眺めている分には楽しいし感心もするのだが、マンガとして読みたいとは、あまり思わないのだ。

(メビウス初期の傑作『まわり道』1973年)

これは、私が、手塚治虫に始まる、ディフォルメされた「マンガ絵」で育ってきたせいなのでもあろうが、それだけではないようにも思えるのだ。

つまり、星野之宣や大友克洋、あるいは、画力に優れたアメコミ作家の、「リアリズムを基調とした絵」という方のは、マンガ作品となった場合に、「すべてがフラットに美しい」が故に、かえって「物語」の中に入って行きにくい、というところがあるように思える。

パッと見て、その作品の絵ヅラの美しさや素晴らしさに意識が惹きつけられてしまう分、物語からは意識が引き離されてしまう

物語を頭で「理解」してはいても、その素晴らしい絵のために、かえって物語世界への没入から引き戻されてしまい「上手い絵だなあ」「美しいなあ」という「客観的な視点に立つ(覚醒的な)意識」に引き戻されてしまうのだ。

言うまでもないことだが、優れたマンガ家のすべてが、必ずしも画力に優れた人だとは限らない
なのにそれでも、そうした「必ずしも絵が上手いわけではない作家」の作品が無条件に楽しめるのは、きっと、読者が作品世界に引き込まれて、もはや画力が気にならなくなるからなのではないだろうか。

(本書P292〜293「ラフスケッチ集」より:まったく迷いのない描線がすごい)
(本書P294〜295「ラフスケッチ集」より)

その絵の、客観的な上手下手ではなく、上手いマンガ家は、読者を物語世界に引き込む表現力を持っており、その力によって、そのさして上手くはない絵が「意味するところ」へ、読者を引きずり込むのである。

つまり、現に「美人」が描けていなくても、その作品世界においては、それは「美人を意味する記号」であることは、読者だって理解しているのだから、そうした物語世界(意味世界)に引き込めさえすれば、その物理的には「美人(を描いている)」とは言えない「美人記号」が、読者には(読者の脳内においては)「美人」に見えてくるので、物理的に「美人」である必要はない、ということなのではないだろうか。

これは、現実の人間においても同じである。
例えば「顔貌の整った美人」が、必ずしも魅力的だとは限らない、あるいはその逆に、客観的には「癖のある顔」なのに、その表情や動きや言動の中で、その「癖のある顔」が生き生きと輝き出して、人を魅了する、というのは良くあることだし、優れた「女優」とは、おおむねそうしたものであろう。

また、私たちが「恋」をした場合には、その相手が「客観的な容貌」以上の美男美女に見えてしまう、という事実がある。
まただからこそ、恋が覚めてしまうと「なんでこんな人を、あれほどまでに美しいと感じ、恋してしまったのだろう?」などと思うことにもなってしまうのだ。

つまり、「魅力的」だという評価は、必ずしも対象が「客観的に美しい(整っている)」ということだけではなく、その当人の醸しだす「フェロモン」的な魅力、「人格的な個性やその他の魅力」も大きいということなのではないか。
またそうした意味からも、魅力の受け手(感じ手)である私たちの、個人的な「好み」の(ツボとしての要件の)問題も大きいはずである。

つまり、人を魅了するのに、物理的に「美しい」というのは、大きな要素ではあるけれども、それがすべてではない。
そうではなく、要は相手の脳内の「快楽中枢」を刺激できる条件があるのなら、それは必ずしも「客観的な美しい」ものではなくとも、受け手には「魅了的」だと「映る」のである。

そして、こうした観点から、星野之宣の長所と弱点を考えた場合、星野之宣は、あまりにも「絵が上手くセンスが良い」ために、それに頼り過ぎて、かえって「マンガ的な省略やメリハリ」といった点への配慮に欠けて、頭から最後まで「どや!」という具合に「物理的な美しさ」で、読者を圧倒しようとしてしまっている。

また、読者の多くは、そうした「客観的に美しい絵」を、有無を言わさずに鑑賞させられることになってしまい、そのせいで、かえって物語世界への没入を妨げられてしまう、というようなことなのではないか。

言い換えれば、星野之宣のマンガを高く評価する人の多くは、星野の、この弱点を「理解」していないのであろう。
「上手くて悪いはずがない。実際、魅力的なんだし」と、そう考えてしまっているのではないだろうか。

だが、前述のとおりで「美人は、必ずしも魅力的だとは限らない」のだ。

もちろん、星野之宣は「画力だけ」の人ではない
その「古き良きハードSF」的なアイデアは楽しいし、「古き良きSF」らしいロマンティシズムも魅力的だ。

しかし、本書の冒頭に収録された短編「地球光」(1984年)が、それなりに味のある作品となっているのは、たぶん星野之宣の画力があったればこそで、同じネタを星野ほどの画力を持たない人が描いたなら、きっと「ふーん」という程度の作品になってしまうだろう。客観的には、その程度のネタだということである。

(本書P11「地球光」より)

その一方、星野之宣が、まだその圧倒的な画力に裏づけられたリアルな画風を完成させていなかった頃の作品「荒野への脱出」(1975年)の場合、このアイデアSFは、まだマンガっぽさが残る絵柄だからこそ成立したものであって、これを今のリアルで緻密な絵柄で描かれたら、さぞや興醒めであろうとも思えるのだ。

(本書P58「荒野への脱出」より)

このように、星野之宣完成された絵柄によるマンガの長所と弱点とは、例えば、ひところ流行った、アニメや実写映画をコマ割りマンガ形式に移し替えた「コマ割りアニメ」本や「コマ割り映画」本の長所と弱点に、通じるものなのではないだろうか。

それらは、全編全コマを通じて、フラットに美しかったり、緻密であったりするわけなのだが、しかし、マンガ的なメリハリには欠けているから、どうにもマンガとしては読みづらい。
私には、これと同じことが、星野之宣のマンガにも感じられるのである。

無論、星野之宣であれ、大友克洋であれ、アメコミであれ、そうした「全編ビジュアル的に凝っていて美しい作品」という形式は、自身の美意識において、意図して選んだものなのであろう。
だが、「マンガ」という形式の「優位性」を考えた場合には、このやり方は、必ずしも最善のものだとは、私には思えないのだ。

と言うのも、表現行為においては、「あえて描かない(あるいは、力を抜く)」ことにより、読者の想像力を意図的に刺激して、最高に「魅力的なイメージ」を、読者の頭の中に生成するということ(コントロール)も可能なのだが、星野之宣のように、まんま魅力的な具象表現ができるからこそ、そのために具象の力だけで押してしまい、読者の「想像力」に蓋をしてしまうという、結果になってはいまいかと、そのように考えられるのだ。

例えば、小説に描かれた、つまり活字で書かれた「美女」は、決して、具象では表現できない。これは原理的にそうなのだ。
言葉が、直接に脳の快楽中枢を刺激するから、それは最高に魅力的に感じられるのである。

ところが、マンガや実写映画の(映像的な=映像の制約を受けた)美男美女というのは、読者個々の快楽中枢を直接刺激するものではなく、読者個々による、視覚的に得た情報の「解釈」を経て、初めて快楽中枢を刺激することになるから、そのワンクッション分は、その刺激が「間接化」して、弱まらざるを得ないのだ。
単純に「素晴らしい(美しい・気持ちいい)」という直接的な「感覚」ではなく、「ここがこのようであるから美しい」「ここ以外のそこが、このようである点については不満だ(完璧ではない)」といった「解釈」とは、「不満や注文」としての「ノイズ」ともなってしまわざるを得ないのである。

無論、そうしたことがあるとは言え、いまさら星野之宣がその作風を変えることはないだろうし、それはそれでひとつの行き方なのだから、そうした真っ正直な「画力主義」が否定される必要もない。

ただ、星野之宣ほどの画力がありながら、しかし、どこかで「物足りない=100%の完璧ではない」と感じさせるものがあるのだとすれば、その理由を考えるというのは、これまでほとんどなされなかったことであろうからこそ、それなりの意味もあるのではないだろうか。

本稿は、星野之宣のマンガが、というよりも、星野之宣という「画力に際立ったマンガ家」を考えることで、「マンガ表現」というものの特性を考えたものだと、そうご理解いただければ幸いである。


(2025年10月6日)

 ○ ○ ○


 ● ● ●



 ○ ○ ○

 ○ ○ ○




 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


この記事が参加している募集