上村裕香 『ほくほくおいも党』 : タイトルと装画に偽りあり
本書『ほくほくおいも党』を読む前に、著者・上村裕香のデビュー作『救われてんじゃねえよ』のレビューを書いた。
「女による女のためのR-18文学賞」(2022年度)の受賞短編である表題作に、続編をつけ加えて刊行された連作短編集である。
私が『救われてんじゃねえよ』を購入したのは、前記の公募新人賞における、選考委員たちの選評に強い説得力を感じたからだ。


じつさい読んでみると、受賞作である表題作は、大変インパクトのある作品であると同時に、既成作家では書けない、「ヤングケアラー」体験者ならではの、説得力のある作品に仕上がっていた。
しかしながら、その続編として書かれた短編を加えた1冊の本(長編)として読んだ場合、受賞作短編のインパクトを支えていたリアルさには反した、いわゆる「いい話」的なものとして最後は締め括られており、その点でのギャップに、違和感と言うか、ある種の「期待はずれ」を、私は強く感じさせられてしまった。
体験者ならではの「介護のリアル」について、もっと突っ込んだ内容を期待していたのに、その期待を裏切られてしまったのである。
無論、著者の上村裕香が経験した介護は、少なからぬ人の体験する、ある種の「悲惨さ」を含むものではなかったということなのかも知れない。
しかし作品を見るかぎり、上村が、環境的あるいは経済的に特に恵まれていたおかげでの「楽な介護」だったということではなさそうなのに、それでも、誰を恨むわけでもなく、「介護」に前向きに邁進する主人公の少女は、ある意味で、超人的な精神の持ち主のようさえ見えたのだ。
もしかするとこれは、著者である上村裕香が、そうした並外れた「強い精神」をもった人であり、そんな彼女の感じたところを、そのまま主人公に投影した結果だったのかも知れない。
しかし、超人的な能力の持ち主が、自分を基準にして「これぐらい、出来て当たり前だ」という描写をしたのならば、それは読者一般に対する、無理解であり無神経だとも言えるだろう。
少々身勝手と言っていいような母親の介護を、それでも飄々とこなす少女の姿、つまり、決して母親を恨んだりはしない姿というのは、たしかに、内容が重くならないから、同作をエンタメ的な感覚で読む読者には、「感じの良い作品」だと好意的に評価される要因にはなっていよう。
しかし、「介護」というのは、一般に「大変な労作業」であり、それに「苦痛」を感じている人は少なくない。
だからこそ、「介護殺人」などという悲劇も、現に起こってしまうである。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250919/k10014927501000.html
したがって、著者自身が体験をしていなかったとしても、「介護」の問題を書くのであれば、それは当然、自分の体験したこと以外の「介護の現実」をも踏まえたものでなければならないはずだ。
私は何も、上村裕香に対して「介護の現実を、リアリズムで描いた暗い作品」を書け、と言っているのではない。
作者が、介護における「前向き」な側面を描いて、「明るい話」を書きたいのであれば、「暗い現実」を踏まえた上で、それを乗り越えたところの作品を書かなければ、作品としては片手落ちだと、そう言いたいのである。
介護を経験した作者なればこそ、介護殺人といった現実を知らないはずもないのに、どうして、そうした「過酷な現実」を無視したかのような、単に「感じの良い話」にしてしまったのか?
たしかにそうした物語は、「介護」に関わりなく生きている人や、関わりなく生きていける人には、「感じの良い小説」として、娯楽的に享受できるものとなってはいることだろう。
だが、著者は『救われてんじゃねえよ』が、過酷な介護の体験者によって読まれることを、まったく想定できなかったのであろうか?
それとも、そうした人たちに読まれた場合に、主人公のようではあり得なかった介護経験者が、無用に自分を責めることになるかも知れないと、そうは考えられなかったのであろうか?
いや、作者は、『救われてんじゃねえよ』の主人公のように強くはあり得ず、心ならずも被介護者を憎んでしまったり、殺してしまったりした人に対して、一片の同情もなく、自分の弱さを肯定することで『救われてんじゃねえよ』と、そう考えたのだろうか?
一一しかし、まさかそんなことはあるまいと思ったからこそ、私は『救われてんじゃねえよ』のレビューで、この点について「この書き方は、ある意味では、介護者に対して過酷なものになってしまっている」のではないかと、そう疑義を呈したのである。
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そんなわけで、上村裕香の作家的力量を認めながらも、『救われてんじゃねえよ』の「負の側面」を強調するレビューを書いてしまった私としては、上村の力量と個性が、うまく生かされた作品を読みたいと思った。それは文句なしに面白いはずだと。
だから、デビュー作『救われてんじゃねえよ』の3ヶ月後に、すでに刊行されていた第二作、本書『ほくほくおいも党』を読むことにしたのである。
本書の書影をご覧いただければ一目瞭然だが、本書は、そのタイトルや装画が示しているとおりの「ほんわかしたお話」だと、普通はそう思うだろう。
このタイトル、この装画であれば、それが、ごく自然な受け取り方だと思う。

一一だが、そうではかった。
本作は、「介護」と同様、けっこう「重いテーマ」を扱った作品だった。
その意味で端的に言えば、本書は、タイトルと装画に「偽りあり」だったのだ。
本作で扱われるのは、「共産党2世=共産党活動家の子供」の問題である。
作品の中では「共政党」となっているが、誰が読んでも、モデルが「日本共産党」オンリーだというのは明らかだし、現に引用・参考文献として、マルクスの『資本論』や不破哲三の著作などが挙げられている。
タイトルや表紙を見ただけの人なら、その多くは、たぶん「ほくほくおいも党」という泡沫政党の活躍を描いた物語であり、ユーモアを交えた「政治批評小説」かと、そう思ってしまうはずだ。
私自身、そう思ったから本書を買ったのだが、そういう物語では、ぜんぜんなかった。
「タイトルと装画に騙された」と言ってもいい。「誤解」ではなく、「騙された」のだ。

本作を買った後の話なのだが、著者の上村裕香が、
・3社の出版社から「うちでは出せない」と断られた問題作・政治×家族エンタメ小説『ほくほくおいも党』がついに刊行されたので著者と編集者が語ります
という「note」記事を書いているのを見つけて、若干の引っかかりは覚えた。
上村裕香ほどの力量があり、装画がイメージさせるような「ほんわか」した作品なのであれば、デビュー作の版元の新潮社は無論のこと、3社もが刊行を断るというのは、考えにくいところだったからだ。
だが、本書を読んでみて、その理由がわかった。
結論から言えば、本作は「共産党2世」という「機微にわたる問題」を扱っているというだけではなく、そうしたけっこう重い問題を扱いながら、結局のところは、なんとなく「いい話」的なところに落とし込まれており、「結局(共産党2世の問題は)どうなのよ?」というような、スッキリしない読後感の作品になってしまっているのである。
つまり、出版社各社が本作『ほくほくおいも党』の刊行を断った理由は、「共産党2世」という機微にわたる問題を扱っているからということよりもむしろ、わざわざそんな問題を扱っていながら、そうした「リアルな問題」と、著者が切り結んだ跡が見られない、という点が問題なのである。その点で、いかにも「スッキリしない失敗作」なのだ。
だからこそ、無理を押してまで出すほどの価値が認められなかったと、そういうことだったのではないだろうか。
たぶん、本書の刊行を断られた著者としては、出版社の「ことなかれ主義」だと考えたいところなのだろうが、本書を読んだ私の感想としては、そんなことを問題にするようなレベルの作品(問題作)ではなく、わざわざ「共産党」という「特定政党の抱える問題」を扱ったわりには、その扱いがあまりにも中途半端であり、いっそ「無責任」な作品なのである。
つまり、「介護」と同様、「機微にわたる問題」を扱うのであれば、もっとそのテーマに真剣に向き合い、そのうえで自分なりの回答を示せと、そう言いたくなるような作品なのだ。
結局のところ本作は、最後は「みんな、それぞれの立場で、一所懸命に頑張ってるんだ」みたいな、無難ところに落と込まれてしまい、読まされた方としては「なんだよ、それ…」ということにしかならない。
「共産党2世」の問題を「活動家二世」問題として捉え、「宗教2世」の問題になぞらえて、ことごとしく持ち出したわりには、いかにも尻すぼみな作品になってしまっているのである。

政治活動をやっている人は、たいがいの場合、それを「善かれ」と思ってやっているのだから、その点に着目すれば、それは「結局はみんな良い人」ということにはなるのだが、問題は「善かれと思ってやっていること」が、本作で描かれるように「家族に犠牲を強いる」ことになったり、「戦争」を引き起こしたりすることにもなるという、そんな事の重大さに、本作は「かすりもしていない」のだ。
だから、テーマの重さのわりには、そしてその意味での「話題性」のわりには、まったく物足りない、失敗作だったのである。一一そう断じても良いだろう。
私の場合、「宗教2世」の問題は、まったく他人事などではなかった。
と言うのも、私はまだ小学生だった頃に、両親と弟の一家4人で、創価学会に入信しているからだ。
その意味で私自身は、「宗教2世」ではなく、自身を「宗教1.5世」だと考えており、親に「信仰を強いられた」という意識はなかった。
これは、私たち一家が、創価学会に入る前に、霊友会系の霊法会という宗教団体に入っていて、その頃は幼かったということもあり、朝晩の短いお勤め(神棚に向かって祈る)以外は何も求められず、その点で負担に感じることは何もなかったからなのだろう。
だから、親から相談されて、創価学会に入信した際も、別に何の抵抗もなかった。親が、創価学会の方が良いと言うのなら、それはそうなんだろうくらいの感覚でしかなく、その上で、納得して創価学会に入信したのだ。つまり、強いられたのではないのである。
ところが、創価学会に入ってみると、いろいろとやらなければならないことが増えた。
朝晩の勤行だけではなく、毎月の「座談会」への参加、中学生にもなると「中等部」の活動という部分も出てきた。
また、学会員になると、読まなければならないものが増えた。日刊の「聖教新聞」、月刊の「大白蓮華」、池田大作会長の小説『人間革命』ほかの著書などである。
そうした活動をまともにやり、これらの著作物をまともに読んでいると、遊ぶ時間など無くなってしまうのだ。
だが、私は子供の頃から「趣味人」だったので、何よりも「自由になる時間」こそが重要だった。
だから、徐々に学会活動に苦痛を覚えるようになっていった。
しかしまた、根が真面目な私は、学校の勉強と同じで、「遊びたい」という理由で、学会活動を拒んだりサボったりすることができなかった。
当時の創価学会では、信仰によって個人が幸福になるだけではなく、この信仰が世界平和にもつながるものだと、そのように教えられた。
また実際、池田会長は「平和旅」と称して、世界を飛び回り、各国の要人、知識人と対談しては「仏法の平和主義」ということを語り、賛同を得ていた。
で、私としては「世界平和」は素晴らしい目標なのだから、それに反対する理由はなかったし、だとすれば、私も組織の末端でやるべきことをやらなければならないと、そう考えた。
「祈って世界平和が実現するのか?」という、実効性に対する疑問がなかったわけではない。なぜなら、祈っても、病気が治らずに死ぬ人が、現にいたからだ。
だが、その「祈りが叶わなかった」理由など、如何ようにもつけられるし、その理由が間違っているという証拠もないので、私は、とにかく「前向きに」やれることをやらなければならないという義務感のようなものから、けっこう無理をして、子供なりに真面目に頑張っていたのである。
で、そんな私の記憶に残っているのが、「宗教二世」の問題、つまり「学会(員)二世」の問題である。
当然ことながら、親が学会員だったので、自動的に学会員になった彼らも、素直に信仰を受け入れる者もいれば、そうではない者もいた。
ではなぜ、素直に親の信仰を受け入れられないのかと言えば、それは、創価学会という組織に行動を束縛され、ルーチンを強いられるからである。
信仰を、言われるがままにまともにやれば、それだけ自由が制限されてしまう。
他に何もやりたいことがない人なら、それが生き甲斐にもなっただろう。だが、私と同様、やりたいことが他にある人には、創価学会員であるということは、束縛であり苦痛でしかない。
だからこそ、親に反発する「学会二世」は、少なくなかったのである。
だが、私自身は、親が学会員だったから自動的に学会員になったというわけではなかったし、個人的には「もっと遊びたい」と思っていても、「世界平和」という理想の前には、そうした欲望は、いかにもケチなものに映った。
だから私は、中等部にもなると、会合に出てこない同世代の学会員の家を訪問して「今月の座談会に出てきませんか?」とか「最近どうなさってますか?」といった、勧誘&ご機嫌伺いをして、「寝ている人=未活動家」を起こすという、地道な活動をしていた。
学会活動をしたくないという気持ちは重々わかるけれど、しかしそれは、その人の「小さなエゴ」でしかないと、私はそう考えていた。だから私自身、サボりたいという気持ちを抑えて、自分なりに頑張っていたのである。
また、だからこそ、創価学会が支持母体である政党・公明党が、政権与党として(のちにイラク戦争へと発展する)「アメリカによるイラク攻撃」を支持したと知った時には、裏切られた、騙されていたと感じ、絶対に許せないとなった。
そして、創価学会の信仰が「願いとして叶わざるは無し」と言うほどの「力のある信仰」なのであれば、ましてや「世界平和」を願うものであるのなら、「祈りで戦争を止められるはずだろう」と、そう考えた。
だが、それをしないのは、もちろん「出来ない」からなのだ。つまり、すべては「嘘」だった、ということになったのだ。
そんなわけで、半ば義理を果たすような気持ちで、1年ほど内部批判(諫暁)をしたあと、やはりどうにもならないと判断して、創価学会を辞め、辞めた後には、今日まで続く「宗教批判」を、私は始めたのである。
一一そしてそれは、騙した創価学会に対する報復というよりも、かつての私自身が、わかったような顔で「会合に出てきてください(それがあなたのため)」などと誘って回った、未活動家の人たちは対する「罪滅ぼし」でもあったのだ。
結果的にではあれ、彼らの判断は、正しかったのだから。
そんな経験があるので、私のとっては「共産党2世」の問題、つまり「活動家2世」の問題は、決して他人事とは思えなかった。
本作『ほかほかおいも党』の主人公で、共産党活動家の娘である少女のように、親が「日本や世界の平和のために頑張っている」というのは、よくわかっていても、だからといってそれを、当たり前のことのように、子供に強いたりしないで欲しいという、その気持ちは、痛いほどよくわかる。
それは、「学会二世」たちの気持ちでもあったからだ。

「宗教」と「政治思想」という違いはあっても、どちらも「理想」を目指しているという点では、そこに共通した心性があって、だからこそ、「二世」のジレンマ的な苦しみというのも理解できる。
「信仰」であれ「政治思想」であれ、それを信奉している人たちに、「悪気は無い」。
けれども、悪気がなければ何でも許されるというわけでは無いし、まして「信奉するもの」の長所や短所を見極めようともせずに、「盲信」的に、それを他人に強いるというようなことは、許されるものではない。
「理想」を語る者だからこと、自分の言葉には、人一倍、責任を持ち、慎重でもあらねばならないのである。
だから、そんな「機微にわたるテーマ」を扱いながら、結局は「みんな良い人」的なところに、無難に落とし込んでしまったとしか見えない本作は、テーマの重さに対して、無責任だとしか感じられないのだ。
本作のテーマは、「興味本位」や「注目を集めるため」に、気易く扱ってよいものではない。
本書著者の上村裕香が、そうした安易な気持ちで本書を書いたのかどうかは知らないが、結果としては、そうとしか受け取れないものに、本書はなっている。
だから、上村裕香の既刊2冊を読んだ者として、いま私が考えるのは、デビュー作『救われてんじゃねえよ』が、テーマには合わない、いささか「肩透かしのハッピーエンド」となっていたという「謎」は、結局のところ上村が、「介護」や「共産党2世」といった機微にわたるテーマを好んで扱いながらも、結局は無難に「誰も責めないから、誰からも責められにくい、非現実的なハッピーエンド」を安易に選ぶ、という態度が「習い性」になっていたせいではないか、ということになった。
上村裕香は、
・新人作家がデビュー作『救われてんじゃねえよ』刊行から3か月で寄せられた感想200件に全レスしてみた
なんていう、いかにも「今どきの作家」らしいことをやったりしているが、作家の「応答責任」というものは、そんなところにあるわけではない、ということをここに明記して、上村裕香の、作家としての態度に疑義を呈しておきたい。
小説というのは、万人ウケして、それで売れれば良いというものではないのである。

(2025年9月23日)
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