尾崎一雄 『暢気眼鏡』 : 暢気の美徳
半年ほど前、初めて尾崎一雄を読んだ。荻原魚雷編『新編 閑な老人』(中公文庫)である。
「フリーライター、エッセイスト」という肩書きを持つ荻原魚雷という人は、私より7つほど年下だが、その著書を見てみると、若い頃から古本が好きで、半ばおのずと「ひと昔前の私小説家」が好きになったようだ。ここでいう「ひと昔前」とは、今なら「ふた昔前」か「み昔前」ということになるのだろうが、いずれにしろ今となっては、よほどの好事家しか読まなくなったような、戦前戦後の作家たちのことである。
で、そんな好事家である荻原魚雷が、近年、その読書経験を生かして編んだのが、上の『新編 閑な老人』であり、梅崎春生短編作品のオリジナル・アンソロジー『怠惰の美徳』や、富士正晴の『新編 不参加ぐらし』などである。いずれも中公文庫だ。
これらに見られる特徴は、要は「金など大して無くてもいいから、浮世の義理や雑事から離れて、昔の老人のような隠居生活がしたい」という荻原魚雷の「脱俗」願望に沿って編まれている、という点である。
したがって、収録されている作品は、おのずと作家たちの晩年のものが中心だ。
その作家の紹介的な意味もあって、若い頃の作品も収録されてはいるが、そちらがメインではない。ごく大雑把な言い方になるが、若い頃の作品は、晩年の作品との比較対照の意味で収録されていると言っても、あながち間違いでもないと思う。
つまり、編者である荻原魚雷の意図としては「若い頃はそれなりに尖っていたこの人も、晩年には、いい感じに肩の力が抜けて、私が理想とするような老人になりました」と、そういう感じである。
まあ、私の場合は、還暦を過ぎてすでに「晩年」に入っているとは言え、「肩の力が抜けた」とか「丸くなった」というようなことは一切ないし、特にそうなりたいとも思ってはいない。なぜなら、そうした変化は、いわば「当たり前」のことだからである。
今の老人は、老人らしくない(大人げない、キレる老人が多い)からダメだと言われ、私もそんな困った老人の一人にカウントされているのかもしれない。
しかしながら、私の中にある老人像は、荻原魚雷的に古いものであり、それが「当たり前」なのだから、私はそんな「当たり前」に、ことさら憧れることはないのである。
しかしまた、私の場合、若い頃から「尖っていた」と言うよりは「好戦的」であったとはいうものの、その一方では、趣味にバカみたいに金を注ぎ込み、そんな趣味生活を続けるためには家庭は持たない方が良い(つまり、結婚はしない方が良い)などと考えて、趣味の人生を一心に突っ走ってきたような「ディレッタント(趣味人)」なのだから、その意味では、並外れて「暢気」であり「浮世離れ」した人間だとも言えるだろう。一一つまり、歳をとってから、わざわざ浮世離れする必要などないのである。もともとそうなんだから。
したがって、荻原魚雷が憧れるような作家の老年に、私自身はとくに憧れるわけではなく、むしろ、それには共感するのである。
例えば、私の「好戦性」というのも、本質的には「世間に迎合したくない」という感覚から出ているものだ。
つまり「言いたいことを言って生きていきたい」という、極めて「非社交的」な願望から出たもので、その意味では、「俗世間的なつき合いやそのための配慮」などから自由になった「隠居生活」というものに、もともと近いところにいたのである。
つねづね言っているとおりで、私の場合、友達は5人もいれば十分、群れて騒ぐのは大嫌いと、そんな人間なのだ。
だから、婆さんたちのように「歳をとっても友達と遊び歩ける」なんてことには、まったく憧れないし、羨ましくもない。
かといって、友達もおらずやることも無いから「濡れ落ち葉」になるしかないような爺さんでもない。
若い頃とまったく同様に、私のそばには、読みたい未読本が山をなしているので、やる事がないなんてことは、昔も今も、考えられないことなのだ。
私が死ぬ時は、本を片手にしているか、映画のDVDを見るためにテレビの前に座っているか、レビューを書くためにパソコンの前に座っている時、あるいは、就寝中だろう。
それ以外の時間は、ごく少ないからである。
さて、そんな私が今回、尾崎一雄の代表短編集である『暢気眼鏡』を読んだのは、無論、前に読んだ『新編 閑な老人』が面白かったからだ。

しかし、どうせ読むのなら作家の「代表作」を読んでみたいと思うのだが、尾崎一雄の著作の多くは、今や「絶版」とまでは言わないものの、書店ですぐに手に入るようなものではなくなっている。
それに、そもそも私は書店に出向くのさえ、もはや面倒になった。そんな暇があったら、未読本を読みたい。
もちろん、ネット通販で購入すれば、すぐに手に入らないこともないのだが、そこまでする気もない。なぜなら、それでなくても積読の山が増えているのだから、「ちょっと読みたいな」というだけで買っていたらキリがないからである。
そこで、古本を入荷すれば通知してくれる「ブックオフオンライン」に登録しておくのだ。
ネット古書店より安いというわけではないのだが、ここに登録しておけば「欲しいからと即購入」という悪癖を、多少なりともセーブすることができるのである。
しかしながら、入荷通知があれば、それはもう買うしかないから買う。私が買わなければ、きっと他の人が買うのだから「ブックオフ」としては困りはしないだろうが、せっかく入荷通知があったのに、それをむざむざ他の人の攫われるのも業腹だから、やっぱり買ってしまうのだ。
一一で、そんな経緯を経て、今回は尾崎一雄の代表作である『暢気眼鏡』を読むことになったのである。
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今回読んだ、新潮文庫版の『暢気眼鏡』は、尾崎一雄の「初期作品集」である元版(初版単行本)に、中期および晩年の作品を加えて文庫化したものである。
つまり、中心は「初期作品」なのだが、そこで描かれている、著者をモデルにした主人公やその家族が、その後、どのような人生を歩んだのかがわかって、とても興味深い作品集となっている。

無論、尾崎一雄の出世作であり「芥川賞受賞作」である元版『暢気眼鏡』は、それだけでも十分に面白いのだが、中期・晩年の作品が追加されたことによって、またその趣をいっそう深めたのだ。

で、そんな本作は、おおよそ次のようなものである。
『疑うことを知らぬ天真爛漫な若い新妻との貧乏暮しを爽やかな筆に綴った名作「暢気眼鏡」。祖父母と父の最期を語る「父祖の地」。胃潰瘍による大出血から辛うじて生還するまでの顛末「こおろぎ」。ほかに「猫」「芳兵衛」「擬態」「玄関風呂」「痩せた雄鶏」「華燭の日」「退職の願い」。生の苦渋と辛酸を、著者の虚飾ない善意と誠実さに巧まずしてにじみ出すユーモアに包んで描いた、ふくよかな心境小説の佳品全10編を収めた。』
(Amazon「暢気眼鏡(新潮文庫) Kindle版」紹介ページより)
つまり、初期作品は、志賀直哉に憧れて「小説家(筆道楽)の道」を志した、尾崎一雄自身をモデルとした主人公「緒方」と、予定外の再婚をしてしまった、十も年下の「若妻」芳恵との生活が綴られるのだが、この時の「緒方」は、作家を志したため、跡取りである実家を蔑ろにして没落させてしまうという無茶をやり、それでもそれが俺の生きる道だと、かなり意気軒昂だった。
しかしまた、そんな自分が結婚してもうまくいくはずがないというのを、最初の結婚で学んでいたので、本来は再婚する気などなかったのだが、成り行きから、ちょっと変わった純情な娘である芳恵と結婚してしまう。
この芳恵の「純情」というのは、世間一般のイメージする「性に奥手の恥ずかしがり屋」的なものとはちょっと違って、まるで10代前半の「子供」みたいな「純情」なのだ。
アパートの庭で、発情した猫たちが大騒ぎしているその騒々しい鳴き声と物音を聞いて「怖い」と言って、布団をかぶって出てこないとか、時計の音が機械的であることが耳についてそれが「怖い」とか、部屋代を滞納しているために大家に顔を合わすのが「怖い」から、廊下の先にある共同便所になかなか行けないとかいった、過剰な怖がりぶり。またその反対に、夜になって世間との交渉の必要がなくなると、部屋の中で一人で歌を歌いながらお手玉遊びみたいなことをしたり、緒方に益体もことを無闇に話しかけてきて仕事の邪魔をするとか、そんな「子供」っぽい「純情さ」と言うか、「無邪気さ」を持っているのである。
しかし、そんな年の離れた「子供っぽい」芳恵を、緒方は、半分は夫として、半分は保護者のような気持ちで愛している。
常に手元不如意であり、生活の安定など到底見込めそうにない緒方を、それでも子供のように信頼して「暢気」についてくる芳恵を、緒方は、子供を呼ぶように「芳兵衛」というあだ名で呼んでいる。
このままいけば、さすがにいくら暢気な芳恵だって、前の妻がそうであったように、いずれは現実に打ちひしがれて、その生来の暢気さを失ってしまうだろう。
だが、そうさせてはいけない。俺には、こいつをこのままにさせておいてやる責任があるのだと、そんな使命感のようなものを緒方は感じるようになって、放蕩無頼の私小説家に開き直るのではなく、かといって、いまさら他の仕事もできないから、うんうん言いながら書けない小説を書こうとし、その一方で、友人知人を頼って金策に回るという、そんな姿が描かれているのだ。
だが、そんな緒方と芳恵にも子供が何人かできた後に、緒方は身体を壊してしまう。
なんとか俺が頑張らないとと思っている矢先に、かえって、妻や子に負担をかける存在になってしまった緒方の心境が「中期の作品」では描かれる。
そして、幸いなことに、緒方はその大病を乗り越えて、比較的安定した「晩年」を迎え、末の娘を嫁にやるという大任まではたして、やっと「俺が頑張らなければ」という長年の肩の荷を下ろすところまでを描いたのが「晩年の作品」なのだ。
心ならずも「家主」として生きねばならなかった男の、家族との泣き笑いを描いた作品集だと、そう呼ぶこともできるのが本書『暢気眼鏡』である。

ここで描かれた人生とは、まったく違った人生を、ほぼ予定どおりに歩んできてしまった私には、少し羨ましい気もしないではないものの、緒方の「ハッピーエンド」は、所詮「結果オーライの幸運に恵まれたもの」だったのだから、やはり慎重派の私としては、もう一度、人生をやり直せたとしても、緒方のような人生を歩もうとは考えないだろう。
一一それでも、こういう人生も悪くはないと、そうは思うのである。
ちなみに「暢気眼鏡」というのは、妻の芳恵の心が懸けている「暢気さ」という眼鏡のことだ。
緒方は、あるいは尾崎一雄は、そんな妻の呑気さに救われ支えられて、自身も「売れない私小説家」という、側から見ればいささか暢気な人生を歩み得たのだと、そう感謝しているのである。
(2025年5月14日)
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