映画 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』 または『VOL.2』 : 続 ジェームズ・ガン論
映画評:ジェームズ・ガン監督『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』(2017年/アメリカ映画)
ジェームズ・ガン監督による「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」三部作の2作目である。
英語原題は「VOL.2」となっているからわかりやすいが、日本語タイトルの「リミックス」は、初めてこのシリーズを見ようかという人には、いささかわかりにくく不親切なタイトルだ。
さて、 1作目の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(以下『VOL.1』と記す)とさほど間を置かずに鑑賞することとなった本作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』(以下『VOL.2』と記す)だが、『VOL.1』よりも格段に面白かった。

『VOL.1』の場合、どうしても「メインキャラクター」や「世界設定」の紹介をしないといけないという縛りがあったのだが、その点、続編である本作では、キャラクターたちをのびのびと活躍させることに成功している。
本作『VOL.2』は、前作以上に「見せ場」の多い「目に楽しい」作品なのだが、しかし、DVDに付録したコメンタリーでガン監督自身も語っているとおり、やはりシリーズの中心となるのは「登場人物たち」であり、彼らの「成長と変化」を描くところにある。
派手なアクションや華麗なビジュアル、そして「笑えるやりとり」も大きな魅力ではあるけれど、しかし、このシリーズが多くのファンに支持される理由とは、やはり、共感を呼ぶ「泣かせる作品」であるという点にあろう。
じつのところ「泣かせる作品」があまり好きではない私が、それでも悪印象を受けないのは、このシリーズには、泣かせるための「わざとらしさ」が無いためであろう。
つまり、上のような特徴は、監督の個性からストレートに(正直に)出てきたものであろう本物だからだろう。要は、ガン監督自身が「泣かせる話」に弱い人なのだ。
だが、本作を見て、個人的に最も衝撃を受けたのは、どう見ても本作が「初見の作品」だったという事実である。
一一と、こう書いても、『VOL.1』についての私のレビューを読んでいない人には、何の話だかさっぱりわからないだろうし、そもそも私の個人的な事情など、多くの人にはどうでも良いことだろう。
だが、私のレビューを読んでくれている人ならすでにご承知のとおり、私がレビューを書いているのは、単に「作品を紹介する」とか「それでウケたい(承認されたい)」とか言ったことではなく、(無論、それも多少はあるけれども)第一義的には「私が今考えていることを書く(表現する)」ためなのだ。
要は、本や映画をネタにし、それに触発されて考えたことを書く、というのが最重要であり、同時にそれは、私という人間の「記録」代わりでもある。要は、あくまでも「私第一主義」で書いているのだ。
だからこそ、レビューで扱う本や映画そのものとは直接関係のない、その本を買うに至った理由だとか、その映画を見ようと思った理由なんてことまで書く。
だがまたこれは、レビューを読んでくださる皆さんにも、決して無益な情報ではないと思っている。
なぜなら、「こういう理由で、この作品を鑑賞した」ということが書かれていれば、その人が「金儲け(や売名)のために書いたのか否か」がおおよそ分かるはずだし、これこれこういう道筋で興味を持ったと説明されていれば、その人が「どの程度の予備知識や教養を持つ人なのか(書き手のバックグラウンド)」がわかるだろう。
言い換えれば、そうした説明がないまま、当たり前のように作品を論じ始めるような「プロの書き手」というのは、まず間違いなく「食い扶持(原稿料)を稼ぐため」に書いているのだろうし、その場合には必ず、その内容に「金儲けバイアス」が掛かっていると考えて良い。
つまり、仮に最大級の絶賛をしていても、それを鵜呑みにはせず、「話半分で聞いておく」という判断も、周辺情報があれば適切にできるのである。
一方、「アマチュアのレビュアー」の場合も、たいがいは、まるで自明な事実のごとく自身に批評能力(鑑識眼)があるかのような顔で作品を論じているけれど、そもそもその人に、どれくらいの「予備知識と教養」があるのかが分かれば、「なんでこの程度の人が、偉そうに決めつけてるの?」という疑問を、適切に抱くことも容易になろう。レビューを最後まで読めばおおよそわかることだとは言え、先にバックグラウンドが示されていれば、最後まで読まなくても見当がつく、ということだ。
また、私が馬鹿にしている、「武蔵大学の教授」で、ヘボ映画レビューを書いている北村紗衣のように、そのあたりを見越して「(映画を)年間何百本見てます」とか「(本を)年間何百冊読んでいます」などというハッタリめいた自家宣伝する者もいるけれど、こういう「数字自慢」をする人というのは、だいたい「批評能力が無い」と、そう考えて良い。
批評能力(実力)があるんなら、それはレビューの内容自体で示すことが出来るのだから、小学生が「100点とったぞ!」とふれ回るみたいな、わかりやすく幼稚かつ間抜けに無内容な「数字自慢」など、いい大人がするわけもないからである。
そんなわけで、私は「その本を買うに至った理由だとか、その映画を見ようと思った理由なんてことまで書く」のだが、いつものごとくそんな調子で書いたことに、自分で自分が驚くような事実が判明した。
それは、『VOL.1』のレビューでの話だ。
私は、「「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズ三部作を、まだひとつも見ていないと思って、3作の中古DVDを購入し『VOL.1』を鑑賞して、さあレビューを書こうとしたところ、数年前に書いた、同じガン監督の作品『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』のレビューに、
『ガンの作品は、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』2作と今回の『ザ・スーサイド・スクワッド“極”悪党、集結』の3作しか観ていない』
とハッキリ書いていたことが判明したのだ。
そこで私は、こう考えた。一一「どうやら私は『VOL.2』までは見ているようだ。しかし『VOL.1』を見終えてもなお、見たという記憶が甦らないというのは、『VOL.1』がイマイチだったからなのだろう。とは言え、私はよほど記憶力のない人間なんだな」と。
それで、『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』(以下、『ザ・スーサイド・スクワッド 』と記す)のレビューの記述を受けて『VOL.1』のレビューに、私は次のように書いたのである。
『(※ 『ザ・スーサイド・スクワッド 』のレビューに)明記している以上、やっぱり私は、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズを2作目までは、以前に見ているようなのである。
だが、このように書いていても、まだそんな記憶は、まったく戻らない。』
つまり、『VOL.1』のレビューを書いた段階では、私は「『ザ・スーサイド・スクワッド 』のレビューの記述」の方を信じ、自身の「記憶力」を信じなかった。
と言うか、私は以前から、自分の「記憶力の無さ」には自信(?)があったので、現在の「(無)記憶」という事実よりも、かつて書いたレビューの記述の方を信じたのである。
ところがだ、今回『VOL.2』を見て、「やっぱり、私はこの作品を見ていない」と、そう確信した。
つまり「『ザ・スーサイド・スクワッド』のレビューの記述」の方が間違っていたのであり、そこでの誤記述は「記憶錯誤的な思い違い」によって書かれたものだと確信するに至ったのだ。
したがって、『VOL.1』の方も、やはり見てはいなかったのであろう。先日の鑑賞が、『VOL.1』の初見だったということである。
それにしてもなぜ、今回はこのように確信できたのか。
それは、『VOL.2』を見た人ならわかるはずなのだが、この作品は、きわめて色彩豊かな作品であったためだ。比較的色彩豊かな作品である『VOL.1』と比べても一段とそうである、こんな特色ある作品を見ていたならば、忘れるはずがないと、そう思ったのが一点。
もう一つは、本作『VOL.2』に登場する「ベビー・グルート」(声:ヴィン・ディーゼル)が、私好みにとても可愛いので、この点だけでも「この作品を完全に忘れてしまうなんてことはあり得ない」と確信できたのである。


そんなわけで、私が今回、衝撃を受けたのは「『ザ・スーサイド・スクワッド 』のレビュー」執筆時の私の「記憶力の無さ」、と言うよりも、記憶の不確実さなのである。
どうして、あの時は「2作目まで見ている」などと思い込んでいたのか、と。
どうやら私の場合、「ビジュアル的(あるいは、内容的)な記憶力」は人並みにあるようなのだが、「この作品を見たか否か(この本を読んだか否か)」という「抽象化された情報」についての記憶能力は、やっぱり低いようなのだ。
実際、読んだ本を再読して、読んだことがあるか否かがわからないというようなことは、まず無いが、買っただけで読んでいない本については、買ったという単純記憶が飛んでいて、知らずに書い直すなんてことなら、ままあるのだ。
そんなわけで、結局のところ本作『VOL.2』は、初見であることが判明した。
で、その感想としては、一一『VOL.1』はイマイチだったけれど、この『VOL.2』を見るためならば『VOL.1』を見ておく価値もあるし、『VOL.3』(正式には『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 3』)にも期待できる、ということになる。

ともあれ、「ボケ」をかますのが、いくらこのシリーズの特徴だからといっても、私とて、それに合わせて、わざと数年掛りの「ボケ」をここでかましてみせたというような、凝ったことをしたわけではない。
そもそも、『VOL.1』のレビューとして書き始めたレビューが、『VOL.1』がイマイチだったために、興味の中心がガン監督その人の方に移ってしまい、書き終えてみると、どう見ても『VOL.1』のレビューとは言い難いものになってしまっていた。そこで、思い切ってタイトルまで「ジェームズ・ガン論」に変えてしまった。
一一それが、前のレビューの実情で、本稿だって、『VOL.1』のレビューが無いのに、『VOL.2』のレビューを書くというのも「イマイチ収まりが悪いなあ」などと考えていた。
それに、本作『VOL.2』を見てみると、前作とは違い、たしかにとても面白くて、「エンタメ映画」としては大いに満足したのだが、しかしまあ、それだけと言えばそれだけなので、わざわざ評論を書くほどのものではないとも思えた。
勘違いしている人も多いようだが、「レビュー」というのは、本来は「批評」や「評論」のことであって、単なる「紹介文」や「感想文(評価の根拠を示す必要のない文章)」のことではない。そして、私が書きたいのは、「評論文としてのレビュー」であって、単なる「紹介文」や「感想文」などではないから、いくら面白い作品でも、特に論じるほどの内容があるわけではない「エンタメ作品」については、「何を論じようか」と困ってしまう。
だからこそここでは、作品そのものを論じるのではなく、本作『VOL.2』を見たというのを「ネタ」にして、作品そのもの以外の(私個人の)ことまで、こうして長々と書いているのである。
さて、そんなわけで「紹介文」や「感想文」のレベルのことを先に書いておけば、本作『VOL.2』は、
(1)見どころ満載で、よく出来たエンタメ映画。
(2)父息子の関係を描いて、申し分のない感動作(ヨンドゥが特に良い)。
(3)ベビー・グルートが、とにかく可愛い。
といったことになるだろう。
だから本作は、『VOL.1』と合わせてオススメである。
以上のように一応の「義理」を果たした上で、私の書きたいことを書くとすれば、それは前のレビューで書いた「ジャームズ・ガン論」の補足ということになろう。
だからこそ、本稿の(サブ)タイトルは「続 ジェームズ・ガン論」となっているのである。
○ ○ ○
前回の「ジェームズ・ガン論」のどこを補足するのかといえば、ガンが、一度は映画業界から干された「過去の差別的ツイート騒動」に関する、ガンの「釈明」は、決して「嘘ではなかった」という点。
つまり「単なる言い逃れではなく、事実に基づく釈明であった」という点の補足だ。
『この報道を受けて、ガンは、(※ 2018年7月)19日、「僕のキャリアを早くから追いかけてくれている方々はご存知と思いますが、初期において、僕はタブーなジョークを好む扇動者でした。その後、僕は人間として成長し、僕の仕事やユーモアも、それに伴って(※ 変化して)きています」「(※ 世間の)反応を楽しむがために衝撃的なことを言う日々は、もう僕にとって過去のものなのです」などという弁明のツイートを連続して投稿した。』
私はこの「釈明の信憑性」について、『VOL.1』を扱った、前回の「ジェームズ・ガン論」で、次のように書いた。
『ガンは、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の3作目の監督降板が決定的になる前、同シリーズについて「自分を投影したキャラクターであるロケットの物語は、まだ閉じていない(語り切れてはいない)」から、どうしても3作目を撮らせて欲しい、という趣旨のことを語っていたが、これもわかりやすい話だろう。
つまり、アライグマの姿をしたロケットというキャラクターは「毒舌で凶暴」だということになっているのだが、しかしそれは「傷つきやすいナイーブさを隠すために、自ら演じている」部分の少なからずあるキャラクターなのである。
またそんな、ロケットだからこそ、相棒のグルートについて、「ろくに言葉が話せない」などという「毒舌ツッコミ」をしばしば口にするけれど、そのグルートが命を捨てて、ロケットら仲間を守ろうとした際には、ロケットは、その「弱い」素顔、泣き虫的な素顔を覗かせてしまうのである。』
と指摘した上で、このロケットの「傷つきやすいナイーブさを隠すための、毒舌で凶暴なキャラ」について、ガンが「自身の投影」だとしているのが、「差別ツイート騒動」以前であることを考えれば、前後関係的にも、『VOL.1』が「差別的ツイート騒動」を受けて作った「良い子ぶった(アリバイ)作品」ということにはなり得ないのだから、ガンの『(昔とは違い)その後、僕は人間として成長し、僕の仕事やユーモアも、それに伴ってきています』という主張は、この『VOL.1』そのものが、その事実を証明するものであると、そのように指摘したのだった。
そして今回、『VOL.1』と同様に「差別的ツイート騒動」以前の作品である『VOL.2』においても、同様の事実を確認することができた。
したがってガンは、この『VOL.1』『VOL.2』を完成させた時点で、すでに、かつてのような『タブーなジョークを好む扇動者』ではなくなっていたと、そうハッキリ断言できるのである。
そんなわけで本稿では、「続 ジェームズ・ガン論」として、『VOL.2』で新たに確認できた事実を、補足的に紹介しよう。
こうした視点で『VOL.2』を論じる人は、他にほとんどいないはずである。
○ ○ ○
さて、『VOL.1』については「ロケットの素顔としての弱さ」を描いている点で、ガンが自身の「弱さ」について、『VOL.1』制作の段階ですでに気づいていた、という指摘をした。
ロケットの「毒舌と凶暴性」というのは、ガン自身のかつての『タブーなジョークを好む扇動者』という性格に対応するものであり、それが自身の「弱さ」や「(何らかの)コンプレックス」に由来する「あまり好ましいものではない性質」だというのを、ガン自身もすでに自覚していた、ということだ。
そしてガンは、そうした自身の「弱さの乗り越え」ということを、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズを通しての「ロケットの成長」として描くことで、自身を対象化して、自らも成長しようとしていたのである。

ところが、それが「過去の差別的ツイート」騒動によって、不可能になりかけた。
すでに決まっていた『VOL.3』の監督からの解任が避けられない状況になってきたため、ガンは何とか『VOL.3』を撮らせてほしい、ロケットの成長譚に決着をつけさせてほしいと訴えたのである。
そして、その後の展開はというと、いったんは、『VOL.3』の監督を解任されるに止まらず、ディズニーからも見放されて、実質的に映画監督業を干されることになるのだが、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の出演者を中心とした友人たちによる、ガンの解任及びキャンセル反対運動が功を奏して、ガンはめでたく『VOL.3』の監督に復帰すると同時に、監督業にも復帰することになった。
前述のとおり、本作『VOL.2』もまた、この「過去の差別ツイート騒動」以前に作られた作品である。
したがって、「過去の差別ツイート」騒動を受けて、アリバイ工作的に作られた作品などではなく、当時のガンの気持ちをストレートに反映した作品だった、ということになる。

そこで、『VOL.2』においても、ガンが「自身のかつての弱さとその乗り越え」を描こうとしていた、という事実を、『VOL.2』を見た今の私は、いくつか指摘することができる。
(1)ロケットは相変わらず「問題児」であり、トラブルになるとわかっていながら、ソヴリン星の大切な電池を盗み、結果としてガーディアンズの仲間たちに多大な迷惑をかけてしまった自分を、後になって反省する、という描写。

(2)スター・ロードことクイル(クリス・プラット)の「育ての親」であるヨンドゥ(マイケル・ルーカー)が、かつて「ラヴェジャーズ」の掟を破って「児童誘拐」に手を染め、(本隊から)追放されたことに関しての後悔が描かれている。

(3)ガモーラが、自分の命をねらう妹ネビュラについて、ネビュラがそんなふうになってしまったのは、子供時代の自分が、妹の気持ちを思いやることもなく、ただ強くなりたいという一心で、義父サノスに命じられた姉妹対戦において、いつもネビュラを倒し、その度にネビュラを心身ともに深く傷つけることになっていたのだと知って、そのことを反省する。またそれによって、姉妹の和解が成立するという展開。

(4)本作のラストで、クイルが「探し求めていたもの(つまり父親)は、実は身近にあった(いた)んだ」と、自分の身を犠牲にしてクイルを救ったヨンドゥの死を悼む、という描写。

目立ったものだけでも、以上の4つがあり、これらに共通しているのは、『ザ・スーサイド・スクワッド』のレビューや『VOL.1』のレビュー(ジェームズ・ガン論)でも指摘しておいたとおり、すべて「子供」がキーワードになっている、という点である。
すなわち、(1)のロケットの場合は「子供っぽい反抗的態度」、(2)のヨンドゥの場合は「子供に対する犯罪」、(3)のガモーラの場合は「子供時代の罪」、(4)のクイルの場合は「子供の、親の愛に対する無理解」である。

ガンは、『VOL.1』のDVDに収録のコメンタリーにおいて、
「あれは弟が演じているんだ。いい芝居をしてくれた」
「彼は昔から僕の作品に出てもらっている友人だ」
「彼は俳優として素晴らしいだけではなく、人としてもすごく素晴らしい人なんだ」
といった具合に、身も蓋もないほど、自らの「コネクション」重視がわかるような発言をしており、私はそれを『VOL.1』のレビューで指摘しておいたが、『VOL.2』のコメンタリーでガンは、
「あの(『VOL.1』の)コメンタリーを聴いた人からは『身内ばっかりじゃないか』というようなことも言われたけど、今度の作品(『VOL.2』)は、もっとすごいぞ」
と、悪びれた様子もなく、『VOL.2』では、自分の友人に止まらず、両親や甥や姪など一族郎党を(エキストラとして)出演させた、などと愉快げに語っていた。
で、これが意味するのは、ガンがこのような「身内主義」になったのは、結局のところ「偽善的な世間(一般)」を責める(挑発する)だけでは、決して幸せにはなれない(精神的な安らぎを得られない)と悟り、(4)の「クイルの反省」で描いたとおり「大切なものは身近なところにある」と考えるようになったため、家族や友人を重視するという立場になった、というようなことなのであろう。この理解で、まず間違いはないはずだ。

しかしまた、そうした「反省的な認識」がいささか度を越しているところが、やはりガンの「弱さ」なのでもあろう。
その「弱さ」ゆえに、極端に走って『タブーなジョークを好む扇動者』になり、それが間違っていたと気づいて反省すれば、また反対方向の極端に振れて「露骨な身内主義」に閉じてしまう。
その「弱さ」ゆえに、ガンの場合は、「難しいバランスを取る」という「理想」にはなかなか立てない、ということなのだ。
しかしながらそれでも、ガンが「かつての自分の弱さ」を認めて反省し、自覚的に「変わろう」と努力した人だという事実だけは否定できない。
みずからの誤りや行き過ぎを、反省的に自覚していたからこそ、「過去の差別ツイート」が問題になった際に、ガンは、ある意味で「自信」を持って明確に、
『「僕のキャリアを早くから追いかけてくれている方々はご存知と思いますが、初期において、僕はタブーなジョークを好む扇動者でした。その後、僕は人間として成長し、僕の仕事やユーモアも、それに伴ってきています」「反応を楽しむがために衝撃的なことを言う日々は、もう僕にとって過去のものなのです」』
と、そう言えたのである。
この言葉は、批判されたされた後に捻り出した「言い逃れのための嘘」などではなく、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の『VOL.1』『VOL.2』を作りながら、ガン自身が考え続けていたことだからこそ、このように語ることができたのだ。
また事実、ガンがこのような「反省」に立って「周囲の人を大切にする」人であったからこそ、彼と仕事を共にした人たちが、彼を見捨てることなく、立ち上がったくれたのであろう。
彼の「過去の差別ツイート」そのものは認めがたいとしながらも、今の彼は、そんな誤りを自ら乗り越えて「成長した人」であり、言うなれば、すでに「別人」も同然だと、そういう立場から、今のガンを擁護したのである。

無論、当人が成長して変わったからといって「過去の差別ツイート」によって傷つけた人たちに対する「罪滅ぼし」が済んでいるわけではない。
良かれと思ってやった「挑発行為」であっても、それが結果として「間違っていた」と判明したのなら、そのことについては「撤回」し「反省」し「償う」ことをしなければならない。
そしてその「償い」とは、「金銭」でもなければ「監督業を辞する」ということでもない。そんな「懲罰的な形式」でなければならないということではないのだ。「痛めつけ(られ)ればよい」という問題ではないのである。
したがって、ガンに求められる「罪滅ぼし」とは、彼の「類まれなる才能」である「映画制作」において、自らの過去の誤りを「反省的に描く」ということになろう。
そして、ガンが「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズを通してやろうとしたこととは、まさにそれだったのである。
ガーディアンたちが(あるいは、ガンの描くスーサイド・スクワッドのメンバーたちが)、「普通の人間」であることにガンがこだわったのは、そこに「過ち(誤ち)も犯す、弱い人間」である、自分自身を重ねたからだろう。
それは、前述のとおり、本作『VOL.2』における上の4点でも明らかなとおりで、これでもかというくらいに示されていることなのだから、彼が「過去の差別ツイート」発覚以前から、すでに彼にできる「罪滅ぼし」を始めていたというのは、明白な事実なのである。
ならば、その事実を無視して、さらに「罪滅ぼし」を求めるのは、私怨による「懲罰的な個人攻撃」でしかないと、そう断じても良いだろう。
一一したがって、そうした態度に対しては、まさに、次のように言うべきなのだ。
『罪なき者は、石を持ってこの者に投げ打て』(「ヨハネのよる福音書」)
無論、だからと言って、今のガンに「何の問題もない」というわけではない。
それは、先にも指摘したとおり、ガンにはまだ「極端に走る」という「弱さ」が残っており、そうした「弱さ」を乗り越えようとしていながら、しかしその一方で「人間とは弱い者である」という意味において「普通の人間」であることを、自己正当化的に強調しすぎるきらいもあって、その自覚が足りないように見えるのだ。
他人を許すのに「人間は弱いものだ」と指摘するのは「寛容の精神」である。だが、その同じ言葉で、自分自身を甘やかすべきではない。
私が、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の『VOL.1』『VOL.2』を見て「物足りない」と感じるのは、ガンの作品には「強くなろう」という意志に乏しい、という点である。
たしかに、自身の「弱さ」を反省はするが、その結果として「身内主義」に後退することはあっても、「強くなろう」とはしない。
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の『VOL.1』『VOL.2』や、『ザ・スーサイド・スクワッド』が、
・「悪党」や「ならず者」であるのを強調しながら、しかし、少しもそのようには見えない。
というガンの「作劇」上な弱点は、「ガーディアンズ」が「普通の人間」だと強調しながらも、実際には、全然「普通の人間」ではない、という点に通づる問題であろう。
結局のところ、「ガーディアンズ」は、スーパーマンほどではないにしても、やはり「超人的」であるという事実は、否定できない。だからこそ、彼らは無茶苦茶な闘い方をしても、「決して死なない」のである。

この事実に対して、「そこは映画だから」と言い訳することは許されない。
なぜなら、ガンが真に「改心し、変わろうとしている」のであれば、それは「普通の弱い人間」でも「強くなれる(変われる)」ということを示さなければならないからだ。本当は並外れて強い人間を描いておきながら、彼らも「普通の人間=弱い人間」だと言い張るのではダメなのである。
それは「フィクション」であるから可能なことなのであって、「現実」ではないから、それでは、現実に対する「罪滅ぼし」にはならないのだ。
なぜ「スーパーヒーロー」が、多くの人から支持されるのかと言えば、それは彼らが単に「強い」からではなく、その「強さ」に比例するほどの「責任と困難」を引き受けて、「超人」でありながらも、私たちと同様に「呻吟しながら生きている」という姿を、そこに見るからなのではないだろうか。
だからこそ、スーパーヒーローは、人々の中に「自分もそうなりたい(あの人のように強くなりたい)」という積極的な「憧れ」を、喚起するのではないか。
つまり、「普通の人間」であれば良い、ということではないのだ。
「普通の人間」だと言っておけば、たしかに少々の失敗は許されるだろう。だが「スーパーヒーロー」であるというのは、「立ち小便」すら許されない「模範的な人間」であることを求められ、それでもその「つらさ」をあえて引き受けるからこそ、「強い」と評価されるのではないか。
このように考えてくれば、ジェームズ・ガンの「課題」も、自ずと明らかであろう。
彼の「罪滅ぼし」とは、「普通の人間」であることと「身内主義」に引きこもって、自身を守ることではなく、より開かれて「強くなる」ことなのだ。そして、その「強さ」に伴う「責任」を引き受けうる「強い人間になる」ことなのである。
そしてそうなれば、彼の作品は、もっと「積極的な力を持ったもの」になるだろう。
だから彼は、もっと「責任ある大人」になることを、引き受けるべきなのだ。
いつまでも「弱い子供」でいることに、執着すべきでないのである。

(2025年5月1日)
○ ○ ○
● ● ●
・
・
・
○ ○ ○
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
