中村一般 『僕のちっぽけな人生を誰にも渡さないんだ』 : 想像力と勇気
書評:中村一般『僕のちっぽけな人生を誰にも渡さないんだ』(シカク出版)
本書著者の中村一般については、別の漫画作品『ゆうれい犬と街散歩』の読んでおり、そちらで「作者の作風が好きになった」と言うよりは、「作者その人に興味を持った」ので、もう少し別の本も読んでみようと思って入手したのが、本書である。
本書『僕のちっぽけな人生を誰にも渡さないんだ』は、『ゆうれい犬と街散歩』以前に「自費出版」として刊行されたものであり、『ゆうれい犬と街散歩』刊行の後に「普及版」として再刊されたのが、今回私の読んだ新版だ。

本書の自費出版版が刊行された当時、著者はまだ無名に等しかったのだが、それが理由で、仕方なしに自費出版にした、ということではなかったようだ。

もともとが、著者自身のための「日記漫画」として個人的に描いたものなので、それが一冊にまとめられる分量になったからといって、それを即「金儲けの具」になどしたくないという思いがあったため、既成の出版社へ持ち込むことはせず、みずから自費出版として制作したのだそうだ。
そしてそれを、全国の書店に手紙を書くなどして交渉し、置いてもらうという、実に「反時代」的とでも評したくなるようなことをやったのである。
だがまた、そうした姿勢が、かえって一部のマニアックな個人書店などからは好感を持たれて、好意的に扱ってもらえ、それで評判にもなったというような経緯のようである。
『ゆうれい犬と街散歩』のレビューを「繊細さゆえの孤独と思考」と題したとおりで、著者は、極めて繊細でひっ込み思案であり、対人関係を築くのが苦手な人である。
だからこそ『ゆうれい犬と街散歩』は、作者を思わせる主人公が「犬の幽霊」と「街散歩」をしながら、あれこれ語らうというような内容だったのだが、これは現実の作者が、趣味としての一人での「街散歩」の際に考えたことを、フィクションとしての「ゆうれい犬」に分有させて「対話」化したものだった。
したがって、本書『僕のちっぽけな人生を誰にも渡さないんだ』は、基本的には、『ゆうれい犬と街散歩』のオリジナル版であり、ほぼ現実版だと言っても良いだろう。
だが、だからと言って、ことさら「リアル」だとか「生々しい」わけではない。自己の思考を相対視するための仕掛けである「ゆうれい犬」にあたるサブキャラが、登場しないだけなのだ。

前述のとおり、本書に収められているのは「自分のための、コマ割り絵日記」と呼ぶべき性質の作品だから、日常生活のなかで目にとまったこととか、『ゆうれい犬と街散歩』と同様の「裏道散歩」で目にした風景や草花などのことが描かれている。
だが、まったくフィクションが入っていないのかといえば、そうではない。
例外的な作品ではあるが、二つのエピソードには「小さな死神」が登場して、主人公に語りかけたりはする。
しかし、無論これは、作者の中の「負の感情」を、「死神」としてキャラクター化して表現したものであって、単なるフィクションではない。言うなれば、「ゆうれい犬」の、もう一つの姿なのである。
たぶん、この当時の作者は、「死」への誘惑を感じることがあったということなのだろう。だが、その「負の感情」をキャラクター化し、対話相手として相対化して手懐け、それを、主人公と死神の会話というかたちに表現したものなのであろう。
本書に付録した別刷り、B4版四つ折りの挟み込みには、表には作者の、裏には版元である個人出版社「シカク出版」社主で本書の担当編集者である「たけしげみゆき」による、共通タイトルのエッセイ「『僕のちっぽけな人生を誰にも渡さないんだ』裏話」が収録されている。
で、作者の中村一般は、このエッセイの冒頭で、次のように書いている。
『 『僕のちっぽけな人生を誰にも渡さないんだ』には2019年から2020年、そして2022年の日記マンガを収録した。2019年ごろはまだ絵の仕事が全然なくて、絶望的に向いていないマルチタスクのバイトに疲弊してた時期、現実逃避もかねて毎日描いていた。帰り道に咲いていたひまわりや、ほんのちょっとの間しか咲かないサボテンの花を描いたりしていた。「無」のような生活の中にも、いいものはたくさん落ちてるんだと実感がほしかった。コビックもこのとき初めて使った。この本は私にとっても宝物で、もしこの先なにを大事にしていたから(※ ママ)わからなくなったとき、立ち戻れる故郷のような存在である。作ってよかった。』
つまり、精神的にかなりきつい時期があったということである。
しかし中村は、そうしたつらさを「描いて残しておくべきことを見つけること」によって、乗り越えてきたのである。
また、そんな「かつての命綱」のような大切な作品集だからこそ、本作を「売り物」にするということには、当初抵抗があったようなのだ。
とは言え、本書自費出版版が刊行されたのちに連載が始まったのであろう『ゆうれい犬と街散歩』に比べると、本書にはハッキリと「死」のにおいが付きまとっている。
多少の精神的な余裕もできた時期に描かれた『ゆうれい犬と街散歩』の方では、自己を相対化して、なるべく「前向きな作品にしよう」としている跡が窺えたが、本書の場合には、そんな「読者向けの配慮」が少ないせいか、「死」に魅せられる作者の「気分」がハッキリと刻まれているのである。
本書『僕のちっぽけな人生を誰にも渡さないんだ』の普及版では、オリジナルの自費出版版とは違って、基本、時系列に沿って作品が収録されているようだ。
その冒頭の、1ページ3コマの作品「チューリップ」は、ある商店店先の小さな花壇に植えられたチューリップの、いつの間にか、花の部分(頭の部分)を落として茎と葉だけとなって、まるで卒塔婆にように立っている様が、花があった頃の記憶と並べられて、説明なしに描かれている。
単に「チューリップが枯れて、花が無くなっていた」ということを描いているだけだとも言えるのだが、その店先に立っている主人公の後ろ姿は、失われた花を悼むような悲しさを漂わせている。

このあと、5ページ5作品ほどは、バイト先でのパンの話やコンビニで買ったフラッペの話など、それこそ「絵日記」的なたわいのない日常への思い(愛着)を描いた作品が続くのだが、その次にいきなり「死神」が登場する。
自室で机に向かって漫画を描いているらしい作者と思しき主人公の背後に死神が現れ、主人公の首筋に、そっと鎌を据える。
それに気づいた主人公は、子供をあやすように、死神の頭を撫でてなだめる。一一「仲良くしよう」と題する作品だ。

また、同作のいくつかあとの作品では、コンビニで夕食を買って帰り、それを独りで食べようとしていた主人公の体から、件の死神がにゅーつと現れて、主人公に「どうや」と声をかけ、続けて「まあ、なんとかなるっしょ。気楽にいこーや」と励まして、主人公が「そうやな」と答えるという、「気楽にいこう」と題したが収められている。
このあとも、日常生活の中で出会った、猫やタヌキやハト、あるいは蝉の遺骸や枯れた花、失われた店と遺された鉢植え、あるいは、橋桁の落書き(グラフィティ)などといったものが、説明なしに点描されていくが、それらの共通点は、「いずれは失われるもの」であり、それらとの一期一会的の出会い、多くの場合に「二度と遭うこともないだろう、今生の別れ」であって、その背後には「避け得ない死の運命」というものの存在が暗示されている。
いつかは消え去ってしまうものたちへの愛惜。一一だからこそ作者は、それを絵にして残したいと思うのだ。
自分も含め、いずれは消え去り、忘れ去られてしまうもの。しかし、その存在に気づいた自分には、それを記録して遺す使命があると、そんな感情が窺われる。
ただ、作者には「真面目すぎる」ところがあって、その点で、思考が「型」にハマって、それを疑えないという、否定しがたい「弱さ」が、ハッキリと窺える。
例えば、最後の方の「本当はさわりたかった」(P106〜109)と題する作品では、玄関先に繋がれている、可愛いプードルを見つめた主人公が、少し離れた位置からその犬を見つめている様子が描かれる。プードルの横には、ダックスフンドも繋がれている。
その時、彼が考えるのは、次のようなことだ。
ダックスもいる…
こっちを見ているな…
通る人、あんまりワンちゃんに気付かないな
ベビーカーの赤ちゃんは気づいている…!
(散歩の犬が通りがかる)
他のワンちゃんとの交流…元気だな。
(通りがかりに犬たちに近づく人もいる)
プードルの子、人が近づくととてもうれしそうだ…
配達のおじさんに飛びついているな…
やっぱり近くで見たいな…
(犬たちの側まで近づいてみる)
喜んでいるかわいい…
頭を撫でたいが…コロナもあるし…触ったらかわいそうだな…
人様の犬だもんな…
(そこで飼い主らしき人物がやってくる。主人公は、思わず心の中で)
すみません…
(そう言って、そそくさと立ち去る)

こうした様子を見ても、主人公がいかに「考えすぎ」る人であり、そのために「他者と関われない」人かがわかるだろう。
これは単に、かわいい犬に対する態度だけではなく、対人関係でも大差がないというのは明らかなのだ。
何もそこまで考えなくてもいいのに、考えすぎて結局は何もできなくなり、関わりを持てなくなる。
しかも、『コロナもあるし…』とか『人様の犬だもんな…』などという考えは、それが「良識」である以前に、関わらないで済ませるための「言い訳」にしかなっていない。
主人公の「関わりたい」という気持ちに嘘はないとしても、その一方「関わるのが怖い」という感情を抱えていることも明らかなのである。
例えば、主人公が本当の意味で「考えすぎるくらいに考える」人なのであれば、そもそも「犬が人間の所有物(「人様の犬」)」として繋がれている状態の方に、疑問を覚えるだろう。
だが、主人公の思考は「優等生的な世間的良識」の範囲を、一歩も出ないものなのだ。
「あとがき」には、次のようにある。
『2021年に入り、だんだんと余裕ができてきて、社会のことや自分と関係があるトピックをより深く調べるようになりました。
すると、「なくなっていくもの」には、受け入れるべきものと、受け入れてはいけないものがあることに気付きました。
本当にどうしようもないもの、たとえば時代の流れによる加齢や老朽化、愛する動物や植物がいずれなくなってしまうこと、などはどうすることもできません。
でも、みんなが動けば残せるかもしれないもの、なのに理不尽に消されてしまうものが、この世にはたくさんあるのだということがわかってきました。それは、美しい海であったり、残せるはずだったお店だったり、笑顔で過ごせるはずだった命だったりします。
「なくなっていくもの」をどうすればなくさないでいられるのか、そのためには自分に何ができるのか、を考えるようになりました。(以下略)』
過剰なまでに真面目でナイーブな人だというのが、よくわかるだろう。

だが、ここには「現実」と深く関わり、格闘して傷つくということをしてこなかった(できない)人の、物の見方の、度しがたい「単純さ」が、無惨なまでに刻まれている。
つまり『「なくなっていくもの」には、受け入れるべきものと、受け入れてはいけないものがある』と単純に言うけれども、例えば「家族を守るためなら、見も知らぬ敵兵を殺してもいいのか?」というような、残酷な「二者択一」は、ここでは想定されていないのだ。
「家族の命を守りたい」と「他人の命を奪いたくない」が両立しない、というような状況が、この世にはいくらでもあって、それは例えば『残せるはずだったお店』、つまり、主人公が街散歩の途中の風景として馴染んでいた「失われたお店」だって、同じことだ。
そうした物どもが消えていかざるを得なかった事情を、通りがかりの傍観者でしかなかった主人公が、一体どれだけ知り得、理解し得ただろう。
『調べた』とは、どのような「関わり方」を指しているのか。
著者にとっては『残せるはずだったお店』だとしても、別の人には「絶対に残してはならない店」だった、などという事態は、いくらでも存在するし、想定し得るのである。

一一だが、ごく小さく無難に限定された、作者の視野の中では、それが自明な物のように見えているのである。
心優しすぎる著者の目からは、「世界中の飢えた子供たち」といった、手に余る残酷な現実は、あらかじめ無難に排除されている。
手に余るものは、見たくもないし、それで心を痛めたくもないのだ。
だが、そのような「偏頗な見方」こそが、他者に対する「無神経で残酷な暴力」の根拠になることもあるという現実を、作者は自覚すべきだろう。
無論、作者は、まったくの善意において、上のように書いているのだし、これが作者の「やむを得ない限界」であることも承知している。
だが、だからと言って、こうした「ナイーブな善意」が、安易に肯定され、安易に共有されてはならないという点は、是非とも指摘しておかなければならない。
そうでなければ、人は「見たいものだけを見て、その範囲の善意においての善行」を、無条件かつ安易に肯定してしまうことにもなるからである。
作者のこうした「弱さという、不十分さ」を責めるつもりはない。だが、その自覚だけは、最低限、持っておいてもらわなければならないと思う。
でなければ、吉本ばななの小説から採られてという本書のタイトル『僕のちっぽけな人生を誰にも渡さないんだ』に込めた作者の想いに反して、「他人のちっぽけではない人生」を、知らずに奪ってしまうことにもなりかねないからなのだ。
いや、私たちは、現にそうしながら「当たり前の日常」を生きているのである。
だから、そんな現実に接して、「そんなつもりはなかったのに」と嘆き苦しむ主人公の姿が、私にはまざまざと目に浮かんでしまうのだ。

(2025年6月22日)
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