たつき監督 『ケムリクサ』 :『けものフレンズ』にあって、『ケムリクサ』に欠けていたもの。
『けものフレンズ』の想定外の大ヒット、そしてその続編からの「たつき監督降板騒動」という残念な事件のあと、満を持して製作されたテレビシリーズが、本作『ケムリクサ』である。
予告段階のビジュアルイメージからして、すでに「終末的な暗い未来世界」を舞台にしたディストピアSF作品であるというのは明らかだった。

『けものフレンズ』が「ポスト・アポカリプス」の世界を背景としつつも、それを直接的に描くことはなく、基本的には明るく楽しく、ほのぼのとした作品だったのに対し、『ケムリクサ』では、どうやら人類が滅亡した後の世界を直接的に描くようだと、そう予想される作品であった。
たつき監督は「けものフレンズBD付きオフィシャルブック」所収の、吉崎観音との対談の中で、二人は「廃墟好き」で共通しているという趣旨のことを語っていたが、そのあたりが『けものフレンズ』の背景的な世界設定にも色濃く反映された、ということである。
だから、人類絶滅後の「ポスト・アポカリプス」の世界を直接的に描くというのは、言うなれば、『けものフレンズ』でやれなかったことをやるというにもなるわけだ。
しかしながら、本作は、先に『けものフレンズ』があり、そこでやり残したことをやるというのとは違うようだ。
というのも、本作『ケムリクサ』には、『けものフレンズ』以前に作られた、同人作品としての、同名作品(原作)が存在しているからである。
『『ケムリクサ』は、同人サークル「irodori」によって2010年から2012年にかけてニコニコ動画に投稿された日本のオリジナルアニメ作品、およびその設定を元に再構成され、2019年1月から3月にかけて放送されたヤオヨロズ制作によるテレビアニメ作品。』
(Wikipedia「ケムリクサ」)
つまり、本作テレビアニメ番組『ケムリクサ』は、たつき監督にとっては、原点回帰の作品であって、本当にやりたいことを、いま持てるスキルを注ぎ込んで制作しなおした作品であって、決して『けものフレンズ』で出来なかったことをやるということではなかったようなのだ。
したがって本作『ケムリクサ』には、たつき監督の本来の持ち味が、ほとんどそのままの素のかたちで出ていると、そう理解していいのではないだろうか。
実際、本作での、たつき監督の肩書きは「原作・脚本・監督」であり、『けものフレンズ』のように、たつき監督本来のものではない要素、つまり「他者が持ち込んだ要素」としての、キャラクターや世界観みたいなものは存在していない。
これは、言い換えれば『けものフレンズ』にはあって『ケムリクサ』には無いものとは、「他者が持ち込んだもの」だということであり、そこを確認することによって、たつき監督の「個性」もより明確になる、ということである。
以上のような観点から本作を見た場合、本作『ケムリクサ』が『けものフレンズ』に及ばない作品であったという事実から言えるのは、『けものフレンズ』に持ち込まれた、たつき監督にとっての「他者的な要素」は、『けものフレンズ』という作品にとっては、大いにプラスに働いたのだろうということだ。
では、『けものフレンズ』に持ち込まれた、たつき監督にとっての他者的な要素とは何かと言えば、それは、「けものフレンズプロジェクト」が元来持っていた、
(1)アニマルガール(フレンズ)
という設定と、
(2)フレンズの多種多様性
ということになるだろう。
本作『ケムリクサ』を見ればわかるとおり、『ケムリクサ』は、『けものフレンズ』との共通点がきわめて多い作品で、『けものフレンズ』という作品に、たつき監督も持ち込んだものがいかに多かったかは、一目瞭然だ。
それは「ロードムービー」であるという大筋から、キャラクターの個性の付け方、話し方、登場の仕方、動きなど、多方面にわたっており、『ケムリクサ』を見ていると、なんども『けものフレンズ』の同様のシーンやカットが、否応なく脳裏をよぎるのである。
つまり『けものフレンズ』という作品は、「多種多様のアニマルガール」の存在という要素以外は、ほとんど、たつき監督の作り上げたと言ってよいであろう作品であるという事実が、あらためて確認できたのだ。
しかしながら、では、「多種多様のアニマルガール」の存在という「けものフレンズプロジェクト」の設定した前提条件は、『けものフレンズ』において、たつき監督を縛るマイナス要素であったのかと言えば、決してそうではなかったというのが、私の結論である。
私が、『けものフレンズ』に続いて本作『ケムリクサ』を見てわかったのは、たつき監督の個性の輪郭であり、そこへ他者から持ち込まれた「多種多様のアニマルガール」の存在という要素が、いかに大きくプラスに働いたかということであった。
つまり、たつき監督本来の個性に、ある意味では「たわいない」とも言えよう「萌え要素」でしかなかった「アニマルガール(けもの属性の美少女たち)」が加わることで、そこに思いもかけぬ大きな科学反応を起こった。そして、そのおかげで、『けものフレンズ』という作品は、あれほどの歴史的傑作になった、ということである。
つまり、『けものフレンズ』にあって、本作『ケムリクサ』に無いのは、一見無駄にさえ見える「多種多様な萌えキャラ」の存在であり、これが重要なブレイクスルー要素だった、とうことなのである。
一一これが何を意味しているを、以下で説明しよう。
○ ○ ○
『ケムリクサ』という作品は、ストーリー的にはじつにシンプルで、次のように簡単にまとめることができる。
『薄暗く赤い霧が立ち込め、廃墟が広がる世界。りん、りつ、りなたち姉妹は赤虫(あかむし)と戦いながら水を探して生きていた。ある日、姉妹は記憶喪失の青年わかばと出会う。りんたちはわかばがムシではないかと疑いつつも行動を共にする。』
(Wikipedia「ケムリクサ」)
『ケムリクサ』と『けものフレンズ』との大きな違いとは、上記のとおりで、りん、りつ、りなの三姉妹による「水を求めての旅」に、「第1話」で一行に加わった、謎の少年わかばを加えた「4人の旅」を描いているのだけれど、物語の後半まで、この4人の他には、人間は一人も登場しないという点だ。

『けものフレンズ』には、毎回数人のゲストのフレンズが登場して、サーバルとかばん、そして旅の案内役のロボットであるラッキービーストの通称「ボス」を加えた一行と交流し、それがドラマになるのだが、『ケムリクサ』の場合には、そうしたゲストキャラクターが後半になるまで登場しないから、一行のドラマは、基本、りん、りつ、りな、わかばの中で完結することになる。

無論、一行の「水を探し求める旅」を妨害する、一見したところ「虫」型ロボットに見える「赤虫」が毎回登場して、一行の行手を阻むことで、そこでの戦闘を含めたドラマは発生するものの、人間的な交流としての新たなドラマは生まれない。

本作における「赤虫」とは、『けものフレンズ』における謎の鉱物生命体「セルリアン」にあたり、他のゲストキャラクターが登場しない分、セルリアンよりも赤虫のほうが、登場頻度がずっと高いのだ。
『けものフレンズ』が、ゲストキャラとの交友を中心に据えていたとすれば、『ケムリクサ』の方は、赤虫との戦闘が物語の中心になっていると言えるだろう。
説明が後先になったが、りん、りつ、りなの三姉妹は、姉妹を名乗っているものの、その属性からすれば、とうてい同じ「人間」だとは思えない設定になっている。
主人公と呼んでいいだろう「りん」は、姉の「りつ」や妹の「りな」を赤虫から守ろうとする、真面目で責任感の強い性格で、並外れた戦闘能力があるとは言え、外見的には「人間」そのものである。

ところが、姉の「りつ」には、まず猫耳のような「ケモ耳」がある。
この特徴ひとつとっても、三姉妹が普通の意味での「人間の三姉妹」でないのは明らかだし、「りつ」は、「みどりちゃん」と呼んでいる樹のようなものを使って、緑色に発光する「尾」のようなものを駆使し、遠距離有線通信のようなことをしたり、彼女たちキャンピングカーに等しい、動力を失った路面電車に、4本の緑色の脚を生やして四足歩行で移動させる、などということもする。


妹の「りな」は、メイドのような服装をした幼い少女なのだが、なぜかまったく同じ姿をした「りな」が複数同時に登場し、お互いには「りなっち、りなじ、りなぞう」などと呼び分けあっており、多少の性格の違いはあるが、外見的な区別はまったくつかない。
どうやら、元は1人だった「りな」が、分裂をして6人になり、旅の途中の赤虫との戦いで、すでに2人が死亡しており、現在は4人だということが、彼女自身の口から説明される。
そして、どうやら、全員が死なないかぎりは、「りな」が死んだことにはならず、三姉妹の唯一の「食料」である水さえあれば、「りな」は再び分裂して、いくらでも数を増やせるようなのだ。そして事実、「りな」は第1話でも1人死んで3人になるのだが、あとでは、いつも間にか1人増えて、4人に戻っている。
また、「りな」だけは、なぜか「金属」を食べることも出来るようで、いずれにしろ彼女も、普通の人間ではないのは明らかだし、二人の姉とも、同じ生物だとは思えない。だから、単に「擬似姉妹」としてそう呼び合っているだけにしか見えないのだが、彼女らは「先に目を覚ましたから」お姉さんであり、その妹だというような漠然とした説明はしても、偽の、あるいは「約束上の擬似」姉妹だとは思っていないようなのだ。

つまり、この三姉妹からして謎だらけなのだが、そこにあとで加わる「わかば」もまた、突然登場して、最初は「人型の赤虫」かと三姉妹に警戒されるものの、その害のなさなどから、赤虫ではなさそうだと、なりゆきから一行に加わることになる。
なお「わかば」は、登場の段階で記憶を失っており、自分が何者なのかがわからないという設定であり、その点で、本作における立ち位置は、あきらかに『けものフレンズ』におえる「かばん」そのものである。
しかし、「かばん」のように、積極的に自分探しをするわけではないし、一行の旅の目的は、「かばん」の場合とは違って、「自分探し」ではないのだが、結果として本作は、「わかば」の正体をめぐる物語にもなっている。

また、この4人の一行には、途中で、小型で可愛い四足歩行ロボットが加わることになる。「しろ」と呼ばれるそのロボットは、失われた主人である「船長」の代わりに、「わかば」に命令を与えてもらうことを望んで「わかば」に接触してきて、地図などの有用な情報を一行に提供するなどしたことで、一行に加わることになるのだ。
当然、この「しろ」は、『けものフレンズ』におけるラッキービーストの「ボス」を連想される存在である。

つまり、本作における「りん、りつ、りなの三姉妹」それに「わかば」と「白」を加えた、4人と1台の一行は、
「りつ」が、サーバル
「わかば」が、かばん
「しろ」が、ボス
に対応し、りつのりなの2人については、
「りな」が、アライさん
「りつ」が、フェネック
にあたると考えてよい配置である。

もっとも、「りつ」の場合は、性格的には、飄々としたフェネックよりも、カバに近い「保護者的な優しいお姉さんキャラ」であり、しかし、カバのように強くはなく、病弱という点は違っているのだが、いずれにしろ『けものフレンズ』におけるそのあたりのキャラの、中間的性格を与えられたキャラクターだと言えるだろう。

以上のようなわけで、本作『ケムリクサ』と『けものフレンズ』との最大の違いは、『けものフレンズ』では、メインキャラに対して毎回ゲストキャラが絡むことで物語が駆動するのに対し、『ケムリクサ』の場合は、後半に至るまで、メインキャラの4人(と1台)にほとんど閉じている、という点である。
『けものフレンズ』の魅力であった、多彩なゲストキャラとの交流が、本作『ケムリクサ』には無く、それを補うものは何なのかと言えば、それが本作の中心となる「この世界は、どういう世界なのか?」「三姉妹やわかばは、どういう存在なのか?」という「謎」の存在なのだ。
『けものフレンズ』では、主筋となるのは「かばんの自分探しの旅」なのだが、『ケムリクサ』の場合は、「わかばの自分探しの旅」ではなく、「世界の成り立ちを探究する旅」が中心になっている。
もちろん、三姉妹の旅の目的は「水探し」であり、別に世界の成り立ちを知ろうと意図した旅などではない。
ただ、「わかば」の場合は、「かばん」のように自身のアイデンティティに対するこだわりはほとんどないようで、ただ、この「不思議な世界」そのものには、とても興味を持っている様子なのだ。
つまりそのあたりの「興味の対象の違い(アイデンティティと世界認識)」という点が、『けものフレンズ』と本作『ケムリクサ』との、本質的な違いのようなのである。
実際、登場人物たちの意識は別にして、私たち視聴者の興味は、『けものフレンズ』の場合は「キャラクター中心」であり、『ケムリクサ』の場合は「世界の成り立ち」中心であると言っても良いだろう。
『けものフレンズ』では「隠し設定」的なものでしかなかった「ポスト・アポカリプス的な世界の謎」が、『ケムリクサ』では前面に出てきて、視聴者にとっては、その「世界の謎」が興味の中心となるのである。
つまり、『けものフレンズ』の場合は「けものフレンズプロジェクト」が原案として提供した「キャラクター中心主義の世界」なのに対して、『ケムリクサ』の場合は、たつき監督の好きな「終末世界の謎」が、物語の中心になっているという違いがあり、それがこの2作を大きく隔てる、作品個性の違いになっている。
『けものフレンズ』では、「趣味」である「廃墟=終末世界」趣味に走りきれなかった(抑制されていた)たつき監督が、原点回帰して、思うさま自身の「趣味」に走ったのが、本作『ケムリクサ』だと、そう言えるのである。

だが、問題となるのは、自由に「趣味に走った」ことが、結果として、吉と出たか凶と出たのかなのだが、もちろん私の評価では、残念ながらそれは「凶」であった。
たつき監督が存分にその「廃墟=終末世界」趣味に走った結果、『ケムリクサ』が『けものフレンズ』を超える作品になったかと言えば、そうはならなかったというのが、私の評価だし、たぶん大方の評価でもあろう。
たしかに『ケムリクサ』は、「よく考えられた作品」ではあるのだが、けれども「ドラマ」として面白いかと言えば、じつのところかなり「単調」なのである。ワクワクするといったところが、ほとんどない。
この作品を駆動するのは、もっぱら「この世界はどうなっているのだろう」という「世界の成り立ちの謎」であって、「三姉妹の謎」や「わかばの謎」は、それに付随するものでしかない。
つまり、「世界の謎」が解けてしまえば、おのずと、彼女らの謎も解けてしまう態のものでしかなく、事実そのようになってもいる。
だから、三姉妹が、自分たちの姉妹らしからぬ違いに疑問を持たないことや、「わかば」が自身の出自についてほとんど興味を示さないというのは、それはそのまま、たつき監督の本作『ケムリクサ』に対するスタンスを反映していると見て良い。
たつき監督は「キャラクター中心の物語」ではなく、「特異な世界観による謎中心の物語」を描きたかったのであり、登場人物たちは、言うなれば、その「構成要素」にすぎなかったのだ。
そして、ここに至って、たつき監督の「作家性」としての、弱点も見えてくる。
それは「深い人間描写ができない」というものだ。
たしかに『けものフレンズ』のキャラクターは、サーバルやかばんだけではなく、どれもみなそれぞれな「魅力的」であり、私を含めた多くの人は、そうしたキャラクターに魅せられた。
しかし、それらの個々のキャラクターが、「人物描写」的に「深い」ものであったかと言えば、そうは言えないだろう。
『けものフレンズ』のキャラクターたちは、ある意味では「役割分担的に類型的」でしかなく、それはその性格が「個人・個体的」なものではなく、「生物種の特性を反映したもの」でしかなかった点にも明らかである。
そしてその意味で、『けものフレンズ』のキャラクターたちは、わかりやすく「類型的」なのだ。
だが、それでもなお『けものフレンズ』のキャラクターたちがあれほど魅力的だったのは、個々のキャラクターが魅力的であったと言うよりも、キャラクターの「組み合わせの妙」であり、その「ペア」に対して、さらに外から加えられる「ゲストキャラクターの個性」への反応、といったことがあったからではないだろうか。




つまり、個々のキャラクターは類型的でも、その「わかりやすい個性」がぶつかり合うことによって、それぞれの個性が生き生きとした魅力を発するという構造を、『けものフレンズ』という作品は持っていたのだ。
ところが、登場人物の限定された『ケムリクサ』には、そうした「相互触発によるキャラクターの魅力」というものが、ほとんど無かった。登場人物が限定され、閉じてしまっていたからである。

たしかに、三姉妹もわかばも「それなりに魅力的」ではあるけれども、それは所詮「類型的なキャラ」の域を出るものではない。
つまり、深い「人間描写」があるわけではなく、たつき監督の興味も、そうした「深い人間描写」には無かったはずだ。
あったのは「謎めいた終末世界の、設定的な謎」の方だったのである。
そんなわけで、本作『ケムリクサ』は、たしかに「考察好き」にはたまらない「謎」を提供する作品にはなっているが、「ドラマ的な魅力」や「人間描写的な魅力」には乏しい作品となってしまっている。
だから、『ケムリクサ』の考察記事などを読んでみると、「世界設定」に対する読み込みには熱心でも、物語の部分やキャラクター描写については、いたって型どおりの感想を述べるに止まっているというのがわかる。
これは、考察マニアらしいものとも言えようが、それ以前に『ケムリクサ』という作品そのものが、そうした作品でしかなかったのだとも言えよう。
言い換えれば、『けものフレンズ』が持っていた「魅力」を、本作『ケムリクサ』は失っている。
その原因は、『けものフレンズ』では、制作の前提条件として強制的な加えられた「多種多様なキャラクター」という条件が、『ケムリクサ』では失われていたためであろう。
無理に毎回、ゲストキャラクターを登場させなくてもよくなった結果、たつき監督は、登場人物を限定して、「趣味」の「背景としての終末世界の謎」に注力することが出来たし、それは一応のところ成功したと評価することも出来る。
だが、結局のところそれは、「趣味的な魅力」であって、あまり一般的なものではなかったのだ。
喩えて言うなら、普通の人は「普通の異性愛の恋愛物語」に興味を持つのだが、一部の人は「SM的な倒錯的な愛のかたち」に惹かれる。
両者は、所詮「趣味の違い」であって、どっちが「正しい」とか、どっちが「上(高尚)」だとかは一概に言えないのだけれど、少なくとも一般性が前者にあるというのは否定できない事実であり、そのために、後者の趣味を理解できる者はおのずと限られることになって、一般性を持たない(人気が出ない)、ということにもなるのである。
だから、「背景世界の謎解き」作品が悪いとは言わない。
アニメが、当たり前に「ドラマの面白さ」や「人間の描かれた作品」である必要はないのだけれど、しかし、それらを欠いては、一般性を持ち得ないというのも、また否定できない事実なのだ。
したがって、「背景世界の謎解き」作品であること自体は悪くはないのだが、ただし、そうした「特殊(に趣味的)な作品」を作るにしても、やはり「ドラマの面白さ」や「人物描写の面白さ」といった「一般的な性格」に、もっと配慮すべきだったのではないかというのが、私の意見なのだ。
例えば私は、古い「本格ミステリ」ファンなので、純粋な「謎解きミステリ」が嫌いではない。
古い「謎解きミステリ」としての本格ミステリは、長らく「パズル小説」と呼ばれてきたし、だからこそ「人間を描かなくても良い」とまで言われた。
なぜなら、厳格な(フェアな)パズルを成立させるためには、登場人物は、ある意味で「ロボット」であり「人形」でなければならないとされたからだ。
どういうことかと言うと、読者に対する「問題(提題)としての不可能犯罪(謎)」を行う犯人は、厳密に一貫した「計画的な行動」によって、その犯行を遂行しなければならないからだ。
言い換えれば、「気まぐれによって、たまたま成立したような不可能犯罪」を、作中の名探偵であれ、読者であれが、「論理的に解く」ことは不可能だからである。

犯人が「機械のように厳格な計画的知性によって、その不可能犯罪を論理的に構築する」からこそ、名探偵であれ警察官であれ、読者であれも、それを「論理的に解く」ことができる。
一一だからこそ、作中の犯人は、人間的に「気まぐれ」であってはならず、機械人形のごとき、一貫性のある(幅の無い)人物でならなければならないとされた。
ミステリ作家でもあったトマ・ナルスジャックが、みずからの推理小説論である著書のタイトルを『読ませる機械=推理小説』としたのは、そうした含意だったのである。

つまり、そうした「謎解きミステリ」が好きな私は、当然のことながら「謎解きアニメ」というものがあってもかまわないと考えるし、それが「ドラマ性で楽しませるアニメ」や「人物造形・描写で見せるアニメ」よりも劣るものだとは思わない。
しかしながら、論理的に厳密なもの(機械小説)であることだけを誇る、古風な「本格ミステリ」が一般ウケしないのと同様、「背景世界の謎解き」を中心に据えた『ケムリクサ』が、『けものフレンズ』ほど一般ウケしなかったのは、当然の結果だとも言える。
だから、たつき監督が、一般ウケしないことを承知の上で『ケムリクサ』を作ったというのであれば、私には何もいうべき言葉はないのだが、しかし、たぶんそうではあるまいと思うからこそ、本稿を書いているのである。
つまり、たつき監督は『ケムリクサ』を、決して「考察好き」のためだけに作ったのではないにしても、監督自身の「趣味」に走った『ケムリクサ』のような作品でも、『けものフレンズ』ほどではないにしろ、それなりに広範な支持を受けられるものと、そう見込んで『ケムリクサ』を作ったのではないだろうか。
事実『けものフレンズ』にも、少なからぬ「考察ファン」がいて、たつき監督を喜ばせたからである。
だが、その見込みは、やはり「甘かった」と、私は判断する。
では、どうすれば良かったのか?
『けものフレンズ』ほどではないまでも、もっと一般性を持たせるためには、どうすれば良かったのか?
それは無論、もっと「起伏に富んだドラマ性」を加えて、「多様な登場人物を加えることで、キャラクターの魅力を増幅される」ことだったと言えるだろう。当然、この2要素は、相互依存的でもある。
「背景世界の謎」はあっても良いし、それは『けものフレンズ』の場合のように「隠し設定」にまで背景化する必要はなく、『ケムリクサ』独自の魅力として強調されても良かった。
だが、それを前面に出しすぎたのは、やはり失策だったのではないだろうか。
では、どうして、たつき監督は、そうした「読み間違い」をしたのかと言えば、それはたぶん、『けものフレンズ』においては、「多種多様なキャラクターの登場」という条件は、作劇上必要なものとして意識的に組み込まれたものではなく、制作の前提条件として義務的に組み込んだものでしかなかったからであろう。
つまり、好きでも嫌いでもなく、ただ必要条件として組み込まれた要素としての、「多種多様なキャラクターの登場」と、それに伴うドラマ性というものが、ぜんぶ好きに作って良いとなった『ケムリクサ』では、おのずと積極的には組み込まれなかった、ということである。
しかし、こうしたことは、よくあることで、
特にアニメではありがちなことなのだ。
アニメの「演出家」というのは、大雑把に2つのタイプに大別できる。
ひとつは「作品世界をゼロからすべて作る」タイプと、もうひとつは「他人の作った世界を、自分なりに膨らませる」タイプである。
普通、「作家」というと、前者の「ぜんぶ自分で作る人」を指すのだが、「演出家」というのは、逆にそうではない。
オリジナルの話は作れないが、それを表現形式に合わせて効果的に作り変えるのに、抜群のセンスを示す人というのが、たしかに存在するのだ。
そして、この両者も、どちらが上だとは、一般的には言えないのである。
なぜなら、「ぜんぶ自分で作った」としても、そもそもそれが魅力的なものでないのなら、「ぜんぶ自分で作った」ということに、さしたる意味も価値はない。
一方、自分でゼロから作ったわけではなくても、人の作った「原作」を、表現形式に合わせてうまく変換できる人というのは、優れた「演出家」であり、演出家として優れた「芸術家」だと言えるのである。
ここで思い出して欲しいのは、同じ原作漫画をアニメ化した作品でも、演出家(監督)の力量によって、その出来に雲泥の差が生まれるという事実である。
つまり、優れた演出家は、ゼロから作品を作るわけではなくても、やはり優れた芸術家ではあるということに変わりはないのだ。
例えば、かのジャン=リュック・ゴダールも、通俗ミステリを下敷きにして、独自の作品を生む天才であった。
だが、そんな優れた演出家であっても、やはりどんな原作でも自由自在に演出できるのかと言えば、そういうわけではない。
やはりそこには「相性」のようなものがあって、得意不得意というのが存在している。だから、なんでもこなせる演出家というのは、しばしば「無難な演出家」に、止まってしまったりもするのである。
例えば、私が好きなアニメ演出家に、『あしたのジョー』や『エースをねらえ!』などで知られる、出崎統(出﨑統)がいる。
出崎統の場合は、あきらかに「ゼロから作る」タイプではなく、「原作を元にして作る」のが得意なタイプであると、私はそう見ている。
出崎が「オリジナル作品」をほとんど作っていないのは、ひとつには時代が許さなかったという側面もあっただろうが、それにしても、やはり「向いていなかった」というのも否定できないと思う。
もしも出崎統に「優れたオリジナル作品」を作る才能があったのなら、あれだけ高く評価された人なのだから、宮崎駿などと同様に、オリジナルの傑作を作ったはずなのだ。
つまり、そうした作品が無いというのは、やはり「ゼロから作る」才能には乏しかったのではないかと、私はそのように見ているのである。
出崎統は「原作を、自分のアニメに作り変えること」において、非凡な才能を持った人だったのだ。
だが、そんな天才演出家である出崎統であっても、どんな原作でも、同じように傑作に仕上げる、というようなことは出来なかった。やはり、向き不向きはあったのだ。
では、その「向き不向き」とは、どういうものだったのだろうか?
出崎統の場合、『あしたのジョー』(高森朝雄・ちばてつや原作)や『エースをねらえ!』(山本鈴美香原作)が代表作になっているが故に、一般には「スポ根もの」が得意だとか、「強敵との対決」ものが得意だと、そう理解されていたようだ。
だからこそ、出崎には『コブラ』(寺沢武一原作)だとか『ゴルゴ13』(さいとう・たかを原作)といった「ハードアクション路線」の作品が少なからず回ってきたのだろう。
だが、これらの作品が、思いのほか上手くいっていないのは、出崎統の個性は、「スポ根もの」や「強敵との対決」ものといった「ハード路線」にあるのでなく、むしろもっとソフトな情緒面としての「友情物語」にこそあったからだと、私は見ている。世間は、出崎統を誤解していたのである。

矢吹丈と力石徹(『あしたのジョー』)、岡ひろみと愛川マキ(劇場版『エースをねらえ!』)、シルバーとジム(『宝島』)、レミとマチア(『家なき子』)などが、その典型である。
出崎統の作品には、魅力的な「脇役」こそが豊かであり、脇役の少ないヒーロー中心の作品は、どこか細ってしまうのだ。
そんなわけで、出崎統の本領とは、「対決」やって「闘争」そのものにあるのではなく、それを介した「友情」であり「交情」にあった。
だからこそ、「敵が絶対的な悪」であるような、「勧善懲悪」性の強い『コブラ』や『ゴルゴ13』のように「ヒロイック」な作品を、出崎統は上手く演出できなかったのではないだろうか。
閑話休題。
つまり、才能のある「作家」にも、やはり「向き不向き=得手不得手」というのはあって、「ゼロから作るのが得意なタイプ」もいれば「叩き台となる作品を活かすのが得意なタイプ」もいるし、後者の「叩き台となる作品を活かすのが得意なタイプ」であっても、どんな作品にでもそれが可能だというわけではないのだ。
では、たつき監督は、どうなのかと言えば、ある程度は「ゼロから作る」才能を持ってはいるが、しかし、それは決して大作家のものではない。
というのも、すでに指摘したとおりで、『けものフレンズ』と『ケムリクサ』があまりにも「似すぎていた」点に、その限界は明らかなのだ。
大ヒットした『けものフレンズ』の後に作った『ケムリクサ』であれば、本来ならばもっと違った作品にすべきだった。
しかしそれが出来ず、たぶん違った作品にしたつもりで、そうはならなかったという事実に、たつき監督の「創造者」としての器(限界)を見ないわけなはいかないのである。
では、演出家としてどうなのかというと、これも中途半端なところがある。
というのも、すでに記したとおりで、たつき監督の作品のキャラクターは、個性的で魅力的ではあっても、深みには欠けるのだ。要は、性格設定どおりの魅力はあっても、それ以上の「人格的な深み」は無い。
あるのは、「設定的な謎」(例えば、三姉妹はなぜ、こうも違った属性を持っているのか?)としての「深み」であって、それは「人格的な深み」ではなかったのである。
したがって、たつき監督の『けものフレンズ』での大成功は、多分に「僥倖」的なものだった。平たく言えば、「幸運」に恵まれた結果だったと言えるのである。
では、その「幸運」とは何かといえば、それも前述のとおりで、作品制作の前提として「多種多様なキャラクターの登場」を「義務付けられた」ということである。
つまり、これは一般的にもよくあることだが、ある程度の「制約」を課された方が、むしろその才能を活かせるタイプなのかも知らない、ということである。
言い換えれば「君の自由にやっていいよ」と全件委任されると、やりすぎてバランスを失してしまうタイプなのかも知れない、ということだ。
そして、少なくとも本作『ケムリクサ』を作った段階では、たつき監督自身は、そのことに気づいていなかった。
だからこそ、せっかく与えられた「自由にやって良い機会」を活かすべく、自分の一番やりたいことが詰まった作品である『ケムリクサ』の「リメイク」に、「原作、脚本、監督(演出)」というフリーハンドで取り組んだ結果、やりすぎて、『けものフレンズ』の際にはあった、バランスを欠いてしまったのである。
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『ケムリクサ』を作った後、『けものフレンズ』や『ケムリクサ』を作ったアニメ制作会社「ヤオヨロズ」は『2020年3月31日に開催された株主総会の決議により解散』(wiki「ヤオヨロズ」)になったという。
だから、たつき監督が次の作品を作るとしても、それは多少なりとも違った体制で作られるのだろうし、噂では「劇場用長編アニメ」を作っているというから、ファンである私は、それに期待したいと思っているのだけれど、ただひとつ私が忠告するとすれば、それは本稿で『ケムリクサ』を論じて指摘したように、次の作品は「ぜんぶ自分の趣味だけで作る」のではなく、もっと一般的な「他者も趣味」も加えるべきだ、ということになろう。
芸術作品というのは、しばしば「一定の制約」があってこそ、かえって自力以上の力が発揮できることもある、といったものだからである。
「自由」にやれれば、それがベストだとは、必ずしも言えないのだ。
かなり自由に好き勝手をやってきた、言いたいこと言いを自認する私が言うのも何だが、私とて会社勤めもして、自由を束縛されてきた経験があるからこそ、「何くそ」という反骨心に発する力を持つこともできたはずだ。
何をしても許されるというような「自由」は、時に人をスポイルすることもなるのだから、たつき監督の次作にあって、「制約における火事場の馬鹿力」的なものを取り戻して欲しいと、私は切にそう願うのである。

(2025年11月9日)
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