岩井俊二監督 『リリイ・シュシュのすべて』 : 逃げられない私の 閉ざされた世界
映画評:岩井俊二監督『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)
岩井俊二の監督作品を見るのは、これが初めてだ。なんとなく気になっていたのは、本作のタイトルが印象的なのと、「岩井俊二の映画は、なんとなくオシャレっぽいイメージがあるんだけど、どうなんだろう?」というような微かな疑問と、庵野秀明が岩井俊二を主演に起用した、映画監督が主人公の映画『式日』を撮っていることなどからであろう。
この『式日』は、庵野秀明の人気のわりにはあまり評判にはならなかったようだから、うまくはいかなかった作品なのかなとそう思いつつも、やはり気になったのは、庵野秀明と岩井俊二が、外見的にどことなく似ているところだ。「外見」というよりも、より正確には、あの、何を考えているのかよくわからないような「無表情な目」と言うべきか。
つまり、岩井俊二の、「謎めいた」(というと表現では綺麗すぎるけれど)何を考えているのかわからないようなところが、例によって私の好奇心を惹きつけたのではないかと思う。それを「見極めたい」という感情。私の「探偵趣味」である。
で、本作がどうであったかというと、まず最初に思ったのが「スタイリッシュな絵作り」ということであり、やはり、その「絵作り」が、どこか庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』を思わせるところがある、ということだろう。
どっちがどう影響を与えたのか、あるいは、似た感性を持った者同士が必然的に引き寄せあったのか、そのあたりはよくわからないし知らないが、「絵作り」に関して、似ているというのは、間違いのないところであろう。


次に、この映画を見て感じたのは、「ストーリーはあるけれど、物語的ではない」ということ。
それから「登場人物の内面が、明示的に描かれることはない」ということ。
さらに言うと、「主要な登場人物が、美しくて不幸」ということであり、その点で「ナルシスティックに自閉的」であり、「現実の世界には生きていない」ということだ。
そして、このことからわかるのは、これは明らかに「十代(ティーン)」の世界観であり、監督はそうしたものに捕らわれているのではないか、ということになるだろう。
本作が描く世界は、きわめて「不幸な世界」でありながら、しかし、監督はそうした世界に、どこか「魅了されている」ようにも感じられる。まるで、ケガのかさぶたが気になるかのように。
例えば、この作品では、子供たちの間での「いじめ」が描かれ、それが「出口なし」的なものとして描かれているのだけれど、これは、大人の「現実感覚」からすれば、「警察に相談すれば、一発で解決だよ。少なくとも、今よりは悪くはならない」ということでしかない。
けれども、当然のことながら、子供たちの目には、そうした「開かれているけれど、身も蓋もない世界」は見えていない。
彼らには、彼らの極めて「狭い世界」が、まるで世界のすべてのように感じられており、「なるようになれ」的な開き直りをすることができない。そんな可能性を考えられないのだ。
なぜ、そうなのかと言えば、それはこの世界には「これ以外の世界は無い」と感じられているからで、テーブルをひっくり返したら何とかなるかもしれない的な「余地」を見出すことができないからなのだ。彼らのテーブルは、大地のごとく揺るぎないものなのである。

しかし、そうした「閉塞的な狭い世界」が、ただ「不幸なだけ」かと言えば、そうではない。
そうした世界とは、大人が感じている、あるいは、そうと知ってしまったような「身も蓋もない世界」とは違って、「閉じているからこそ(意味の)濃密な世界」でもあり「ナルシスティックな世界=自己中心的に見た世界」でもありうるのだ。
例えば、「いじめられている子供」にとっての世界は、「いじめられている私」の世界であり、その世界は「私をいじめる世界」でしかなく、「私の存在なんて、そもそも関係ない」といった「広大な余地」を残した世界ではない。
彼らの「世界」とは、「世界は、私を救ってくれない」といったものであり、要は「自分中心に見た世界」であって、そもそも彼・彼女の存在なんて、縁もゆかりもないから知るわけもない、そんな「疎遠で無関係な世界」では、あり得ないのだ。
「疎遠で、無関係な世界」の存在というのは、ある意味で「味気ない」とか「しらけた」世界なのだけれど、しかしだからこそ、それは「余地」でもあり得るし、その「余地」が感じられれば、人は、そちらへと「自分の世界」を投げ捨てることもできる。
だが、子供たちの世界は、あまりにも「狭く閉じたもの」として感じられがちなのだ。だから、逃げ場がない、と感じられてしまう。
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少々長くなるが、本作の「あらすじ」を、「Wikipedia」からそのまま引用しておく。
『田園の広がる地方都市で暮らす中学生の蓮見雄一は、同級生の星野修介に万引きなどの犯罪行為を強要され、鬱屈とした日々を送っていた。唯一の救いはカリスマ的な人気を持つ女性歌手、リリイ・シュシュの曲を聞くこと。
中学1年生
雄一が星野と出会ったのは、中学校へ入学したばかりの頃だった。星野は何かと目立つ存在で注目されていた。剣道部へ入部した雄一は部活仲間となった星野に誘われ、彼の家へ宿泊した。その夜、彼の部屋に飾られていたポスターで、雄一はリリイ・シュシュを知る。 3年生が部活を引退し、以前とは段違いに厳しい練習に、雄一、星野ら1年生5人は嫌気が差す。5人は夏休みに沖縄へ自分たちだけで旅行する計画を立て、金銭面を解決するためにスリをはたらこうと都会へ向かう。5人は高級車を持つ男に目をつけ、物陰から様子を窺うが、都会の不良グループが先に男をカツアゲし、男の尻ポケットから札束を奪う。雄一たちはその様子に呆然とするが、星野の活躍で、5人は大金を奪ってしまう。
5人は沖縄へ訪れ、ツアーコンダクターの島袋や地元案内人のシーサーさん、さらに道中で何度も現れる高尾らと共に様々な場所を観光、海を泳ぎ、花火を打ち上げた。しかし、行楽の途中に星野は2度も命を落としかけ、雲行きが怪しくなる。極めつけに5人は人身事故の現場に遭遇する。撥ねられたのは高尾だった。星野はその後のクルージング中、突然札束を海へ投げ捨てる。他の4人が無念の声を上げるが、星野は不敵な微笑みを浮かべていた。
新学期が始まり、雄一は星野が溺れた事件をクラスメイトに吹聴していた。クラスメイトが夏休みの間に見た目を派手にする中で、犬伏という生徒は特別派手な髪型をしていた。星野は犬伏を注意するが、犬伏は星野を馬鹿にした態度で話を聞かなかった。その直後、星野は犬伏に襲いかかり、彼を気絶させて髪をカッターナイフで切り取った。星野はざわめく野次馬を不思議そうに眺め、教室を去った。 その日を境に星野は変貌し、クラスメイトの辻井と飯田、多田野とクリオネを従えて犬伏を登校拒否に追い込んだ。星野は部活動へは行かず、放課後にはスクラップ置き場で仲間たちとつるむようになった。雄一は星野へ、先輩からの伝言を伝えに向かうが、その日以降、雄一もまた星野のグループへ強制的に加えられ、犯罪行為を強要される。
中学2年生
リリイ・シュシュのニューアルバム「呼吸」が発売された。雄一はCDショップでこれを万引きしようとするが失敗に終わる。店へ駆けつけた小山内の温情によって「呼吸」を買ってもらったものの、店員や母親から罵りを受ける。数日後、雄一は夜に星野から呼び出される。個人的な万引きの失敗を学校への告発だと認識した星野らに、雄一は暴行を受け、さらにマスターベーションを強要される。リュックサックに収めていた「呼吸」のCDは、星野によって割られてしまう。
雄一はリリイ・シュシュの絶大な信者となり、インターネット上でリリイ・シュシュの非公式ファンサイト「リリフィリア」を主宰し、「フィリア」の名で、様々な人物と交流する。その中で、「青猫」と名乗る人物に出会い、掲示板上で度々繋がるようになる。 対して現実は過酷だった。雄一は星野に命令され、同級生の津田詩織の尾行をしていた。津田は星野に弱みを握られ、彼から売春を強要されていた。その日は津田の初仕事で、雄一は多田野とクリオネと共に津田を見張っていた。 雄一は多田野の命令で津田を家まで送った。津田は自分の分け前として受け取った金を、雄一に差し出す。雄一が星野からたかられているのを知っていたせいだった。雄一は受け取ろうとするが、津田は金を地面へ叩きつける。苛立ちを晴らすように津田は雄一を蹴り、鞄で叩き、落とした万札を破けるまで踏みにじり、そして濁った川へと入っていった。津田は泥だらけで帰宅し、庭にあった蛇口で体を洗いた。雄一は門前で立ち尽くすが、やがてその場を後にした。
学校では、校内合唱コンクールに向けてクラスごとに練習に励んでいた。雄一のクラスは投票によって選ばれた井沢がピアノ伴奏を、学級委員長の佐々木が指揮を、それ以外の生徒が合唱を担当した。しかし、井沢はイントロだけで何度も躓き、ついに伴奏を辞退してしまう。佐々木は代理として久野陽子を指名した。久野は放課後には音楽室へ赴き、いつもピアノを弾いていた。しかし久野がピアノの前に座った途端、女子の中心的な生徒である神崎が異議を唱えた。佐々木と神崎らは言い合いになり、神崎は「久野が伴奏をするなら歌わない」と言い切り、グループを引き連れて帰ってしまう。このせいでクラスの結束力も緩んで、練習にならなくなってしまう。佐々木は担任教師の小山内に相談するが、小山内は打開策を打ち出さず、事なかれを主張した。すると2人の間に久野が割り込み、元とは違うアレンジの譜面を見せる。それは久野のピアノ伴奏を拒否する神崎らに対する妥協案で、ピアノを撤廃し、アカペラにするというものだった。本来よりもずっと難しくなった合唱の練習は夜まで続いた。佐々木は練習をボイコットするようになった神崎らに、久野がピアノを弾かなくなったと伝え、もう一度参加してほしいと頼む。その場に居合わせた雄一も説得に強力させられた結果、神崎らは承諾する。やがて合唱コンクールの本番が始まる。久野がチューニングとしてピアノを弾き始めると神崎らは佐々木に詰め寄るが、チューニングが終わってピアノから立ち上がった久野を見ると、渋々と列へ戻る。クラスは猛練習の成果を発揮し、困難なアカペラ合唱で「翼をください」を披露した。雄一はピアノを弾かず、合唱の列にも入らず、ただ立ち尽くしている久野を見つめた。合唱終了後、神崎らは満足そうに喜んでいたが、アカペラのアレンジが久野によるものだと知り、神崎だけが表情を引きつらせた。星野は、アリーナの席から久野を眺めていた。
数日後、雄一は帰り道で佐々木と一緒になった。佐々木は恋愛話を持ち出す。佐々木は雄一が久野を好いていると見透かし、大して自分は津田のことが好きだと告白する。佐々木は雄一が、以前津田と2人でいたのを目撃していた。佐々木は2人が恋仲でないと知ると、雄一に、津田に告白したいから彼女を呼び出してほしいと頼む。雄一は電話でこれを津田に伝える。その直後、星野からの電話がかかった。
雄一は、久野をある工場へと呼び出した。工場内で星野が待っていると、雄一は彼女を送り出した。1人になった雄一の前に神崎が現れ、この工場は元は星野の家のものだったが、去年の夏休みに会社が倒産し、星野の家が離散していたことを告げる。工場内では、待ち構えていた星野のグループが、逃げ回る久野を追い回していた。久野はとうとう捕まり、強姦され、その様子を撮影される。雄一は工場の外で思わず泣き出してしまう。数日後、久野は頭を丸坊主にして登校する。クラスはざわつくが、久野は毅然とした態度でいた。
数日後、津田の仕事帰りに、雄一と津田はレストランへ訪れた。雄一が、佐々木とはどうなったのか尋ねると、津田は断ったと告げる。雄一は、佐々木ならば津田を星野から救ってくれたのに何故断ったのか問い詰めるが、津田は、雄一が守ってくれればいいのに、と返す。帰り道で、津田は雄一が聴いていたリリイ・シュシュの音楽に興味を示した。津田は最新のアルバムを貸してほしいと雄一に頼むが、最新作の「呼吸」は、星野に割られてしまっており、仕方なく前作「ジュエル」を貸す。別れ際、津田は「きっと大丈夫」と雄一を励ます。しかし、この後に津田は、鉄塔から飛び降りて自殺してしまう。
キャトル事件
現実が行き詰るに連れ、雄一は「リリフィリア」で青猫と心を通わせる。渋谷でリリイ・シュシュのライブが開催されることが決まり、サイトの常連者はそれぞれ、目印として任意のものを持つ、或いは格好をすると書き込んでおり、青猫は青りんごを持っていくと書き込んでいた。雄一は青猫にライブで会おうと告げる。ライブ当日、会場前の列の中で雄一は星野を発見する。星野もまた雄一に気づき、雄一に近づく。星野は雄一のチケットを奪い取り、自身のものと見比べ、チケットを交換するよう詰め寄る。さらに、雄一にコーラを買ってくるように命令し、雄一は仕方なく列から離れる。その際に雄一は、星野から青りんごを手渡される。青りんごには、bluecat(青猫)のアカウント名を含むメールアドレスが書かれていた。雄一はコーラを購入して列へ戻り、遠くで手を掲げた星野を発見する。雄一もコーラを持った手を掲げるが、星野は手に持っていたチケットを丸め、人混みの中へ投げ捨てた。雄一は呆然と、星野が人の中へ消えていくのを見た。
ライブ中、雄一はずっと会場の外に立ち尽くしていた。やがてライブが終了し、観客が会場から溢れてくる中に星野を発見する。星野は雄一から青りんごを回収し、誰かに話しかけられなかったか尋ね、雄一がいなかったと答えると、星野は雄一を残してその場を後にする。雄一はしばらくしてから、会場を指差して「リリイがいる!」と叫んだ。その言葉にファンが呼応し、会場の前で、リリイを呼ぶ巨大な人混みが生まれた。雄一は人混みを掻き分け、星野の元へと辿り着く。雄一は背後から星野をナイフで一突きし、その場から逃げ出した。星野はその場に倒れた。雄一は離れたところで立ち止まり、星野の青りんごに突き刺したナイフを確認した。
エピローグ
星野は死亡し、その件は「キャトル事件」と名づけられて話題となっていた。雄一は警察に捕まることなく、日常へと戻っていた。雄一は慣れない手つきでドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」を弾き、母に頼んで髪を染めた。久野は吹奏楽部へ入部し、ピアノを弾いていた。雄一は成績の低下を理由に小山内から呼び出され、帰り際に久野を帰らせるように頼まれた。久野は部活動の後も1人残ってピアノを弾いていた。雄一は久野の演奏する様子を、彼女の背後からじっと見つめていた。』
(Wikipedia「リリイ・シュシュのすべて」)
以上のポイントとなるところを要約すると、次のようになる。
もともとは仲の良かった星野が、親の経営していた工場の倒産と、それに続く一家離散によって急激に「不良」化し、子分を作っては非行をくり返すようになる。そして、もともとの友達であった主人公の雄一たちにまで万引きをやらたり、クラスメートの綺麗な女の子を子分たちに襲わせて、その暴行映像をネタにして脅し、売春(援助交際)を強要してその上がりを巻き上げるなど、度を越した非行に走る。
雄一は、そんな星野の魔の手から逃れることができず、自己嫌悪に陥らざるを得ないようなことを強要されて、ひたすら「リリイ・シュシュ」の音楽の世界に逃避し、そこに救いを見出そうとする。
だが、そこでも星野に手ひどく裏切られることになり、ついに星野を刺殺するが、事件は未解決となり、雄一は学生生活を続けることになる。

ここで、まず引っかかるのは、ある意味では「大人」の雰囲気を持っていた星野が、一家離散の不幸のためとはいえ、どうしてここまで酷いことをするようになったのか、ということだ。
これはたぶん、彼は、それまで持っていた「大人」的な自制を、「一家離散の不幸」を体験することで捨てた、ということなのではないだろうか。
彼はもともと「自分は(優等生だと)誤解されている」という、否定的な自意識を持っていた。だから、そんな「周囲の誤解」に合わせて、無理に真面目にやったところで、不幸になる時は不幸になるし、死ぬ時は死ぬ。ならば、社会が期待するような生き方をする必要などない、というような、捨て鉢な考えを持つようになり、同時に、自分を「わけもなく不幸にした世界」に対する「復讐心」みたいな感情を、憎むべき世界へと解放しようと考えるようになったのではないか。
あるいは、「かっぱらいで得た金で沖縄旅行に出た結果、自分だけが死ぬようような思いをし、それを地元案内人のシーサーさんから、おまえら何か良くないものを島へ持ち込んだんじゃないかと指摘された経験」と「一家離散」の悲劇を結びつけて、自分は自業自得的に(世界から)呪われているという「やましさ」のようなものがあったのではないか。自分が「原因だ」という罪の意識と同時に、「しかし、何もそこまで」という意識。

だから、そうした「不公平な世界」に対する怒りや復讐心の矛先が、特に罰も受けずに「普通に生きている(恵まれた)やつら」であったり「容姿に恵まれている女の子」であったりに向かったのではないだろうか。
そんな「当たり前な幸福」は、すべて不当な「偽物」なのだから、お前たちにも「本当の世界を見せてやる」というような気持ちを、星野は持つようになったのではないか。
だからこそ、数々の悪行を陰で操るようにして行なっていった星野は、しかし、まったく幸福そうではないし、それどころか、彼自身「リリイ・シュシュ」の音楽に逃げていた。星野は、自らの手で、自らが感じている「不幸な世界」を拡大していきながら、しかし、それに傷つきつづけていたのではないだろうか。
嫌々万引きをやらされるだけではなく、精神的な辱めを受けつづけた雄一。そして、売春を強いられて、しかし、それを平気そうな顔を装って誤魔化しつづけた果てに自殺したクラスメートの津田詩織も、自らの「閉じた自意識の世界」から出ることができなかった。
唯一の例外は、強姦被害の後に売春を強要されながらも、それを拒絶するために、自ら見すぼらしい丸刈り頭にして、それでも学校へ通いつづけた女子生徒・久野陽子だけだっただろう。
彼女だけは、いつも「自意識の外に出る意志」のようなものを持っていた。

例えば、彼女はそれまでも、いつも放課後の音楽室でひとりでピアノを弾いていたし、学校の音楽祭の練習で、彼女がピアノを弾くことに反発した、意地の悪い女子グループからの拒絶にあった時も、みずから身を退くだけではなく、ピアノ伴奏がなくても皆が歌えるようにその曲をアレンジして、それを黙って提供するということをしたし、音楽祭の本番では、歌う前の音合わせのためだけに壇上に上がってピアノを弾き、本番が始まると、黙ってピアノの横に立っているという屈辱的な立場をも、甘んじて受け入れていた。

また、先にも書いたとおり、彼女は強姦被害にあった後、売春を強いられないために、わざわざ頭を醜い丸刈りにして、それでも、その頭のまま通学を続け、見かねた担任の教師が彼女に、ウイッグかチューリップ帽の二つを示して、どちらかを被るよう提案したところ、彼女は、いかにも見すぼらしいチューリップ帽を選び、以降はその帽子をかぶって、それまで通りの学校生活を続けたのである。

つまり、この久野陽子だけは、あらかじめ「強固な自分の世界」を持っていて、それを何者にも侵害させはしなかったのだと言えるだろう。
「私を見て、人はどう思うだろうか?」とか「私は、人からどう評価されるだろうか?」といったことではなく、「自分はこれだ」といったものを持っていたからこそ、彼女の世界は、「他人の評価に依存した世界」にはならなかった。彼女は、世界と私に、キッパリとした一線を引いていたのである。
言い換えれば、雄一や星野、津田詩織の場合は、「世界と私」が一体のものと感じられていたからこそ、その「外」へ出ることができなかった、ということなのではないだろうか。
考えてみれば、人間の「成長」というのは、「私と世界の疎隔化」の歴史なのかもしれない。
生まれた時は、自分と世界は完全に一体のものだったのだが、そこから、母親を分節化して「自分以外の存在」を作り出し、あれもこれも「欲望(好悪)の対象」として、自分から切り離してゆき、やがて自身の「鏡像」を見ることで、自身が「世界の中心」ではなく、そうした雑多な「世界の一部」であることに気づいて、といった具合に、「私と世界の疎隔化」を進めていくのである。
そして「大人になる」とは、世界を自分の心とは直接的な影響関係の無いもの、疎遠なものと見るようになる、ということなのではないだろうか。良くも悪くも、私は世界と無縁なものとして、身軽になるのである。
それは、たしかに寂しいことだけれど、しかし、だからこそ、「世界」に巻き込まれることなく、生きていくこともできる。
本作は、そんな「大人の世界」に生き始めている久野陽子と対照するようなかたちで、雄一や星野や津田詩織などの「子供の世界」を、それでも「愛おしさ」を持って、描いているように感じられる。
「世界と私」が密着しているからこそ、世界は堪え難いものであると同時に、この上なく美しいものでもあり得る。
「リリイ・シュシュ」の音楽に救いを見いたせるのも、それは「私と世界の距離」が小さいからではないだろうか。だから、「リリイ・シュシュ」の世界を「私の世界」だと感じることができる。
その一方、久野陽子だけは「自分の音楽」を奏でようとしていた。
誰に聴かせるわけではなく、ただ自分のための音楽を求め続けていたからこそ、他人の音楽に救いを求める必要もなけれな、他人の目を気にする必要もなかった。要は「私は私」だったのである。
そして、この作品に感じられるのは、久野陽子的な「自律・自立」に憧れつつも、そうはなれない人間的な弱さに対する「執着」のようなものなのではないだろうか。
よく知られるように、庵野秀明は、子供の頃から「(強権的な)父親との葛藤」を抱え続け、言うなれば、「オタク」の世界が、庵野にとっての「リリイ・シュシュ」みたいなものだった。逃避先だったということである。
そして庵野は、長い長い「内的な、父親との葛藤」の果てに、父親の晩年になって、やっと、「他者としての父親」を受け入れられるようになったようだ。
つい最近、佐々木敦による『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊 』(朝日新書)が書かれたのも、庵野秀明のそうした「世界との和解」が成立したからこそなのではないだろうか(私はまだ、この本を読んではいないが)。

で、岩井俊二監督にも、やはり庵野秀明と似たような「葛藤」があるのではないか。
「愛ゆえの憎悪」というでもいうような、無視できない対象への抜き難い感情があって、本作『リリイ・シュシュのすべて』のような作品が作られたのではないだろうか。だからこそ、「ナルシシズムの美学」的なものが、本作には色濃く漂っているのではないだろうか。
私がこの映画を見ていて、特に引っかかったのは、不良少年たちから恐喝に遭う「オタク青年」の、その「見るからにオタク」という、絵に描いたような「見苦しさ」だ。
一体どうして、あのような、素朴すぎるし、いかにも紋切り型の偏見に満ちた「オタク」像を描いたのか。しかも、「オタクのくせに、不似合いにもポルシェに乗っていて、金持ちでもある」という「憎悪むき出し」の描写をしてしまったのだろうか。
また、「リリイ・シュシュ」のコンサートのシーンに登場する、いかにも「リリイ・シュシュ」オタクな青年の、あのことさらな見苦しさは、何なのだろうか? なんで殊更に、あんなものを描く必要があったのだろうか?
私が思うに、ああした「見苦しいオタク」像とは、じつのところ「ナルシシズム的な被害者意識に閉じこもっている自分自身」の、「裏返された自画像」なのではないか。
庵野秀明が「オタク的なもの」に救いを見出したのと、久野陽子を除く本作の主たる登場人物たちが「リリイ・シュシュの世界」に救いを見出そうとしたのとは、結局のところ同じであり、だからこそ、庵野秀明が「オタク」を憎んだように、岩井俊二も、自らの「醜さ」への嫌悪から、ああした「醜いオタク」を描かざるを得なかったのではないか。
もしかすると本作は、そんな「オタクの願望充足的な美的世界」を描いているのかもしれない。

(2024年8月5日)
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