酒見賢一 『後宮小説』 : 儘ならぬ時間の中で自由に生きること。
1989年に始まる「日本ファンタジーノベル大賞」の、記念すべき第1回受賞作である。そして本作は、新人ばなれした作者の力量と、その圧倒的な完成度において、斯界で名うての選考委員たちを圧倒し、狂喜驚倒せしめた文字どおりの傑作であった。

事実、このとき選考委員の一人であった詩人の矢川澄子は、本作新潮文庫版に「解説」を寄せて、次のように書いている。
『(※ このような期待以上の作品の登場に)救われたのは委員たちばかりではありませんでした。第一回目にこのようなハイレベルの作品を得たことは、その後の応募者たちにある緊張を呼びさまし、賞そのものの権威をいちじるしく高めてくれたからです。ちなみに現在までに四回を重ねたものの、この後に大賞受賞者は第三回(一九九一年度)の佐藤亜紀氏ただ一人です。』(P301)
このとおりである。
私は当時、新たに創設されたこの「日本ファンタジーノベル大賞」に注目していたから、第1回の受賞作である本作『後宮小説』も刊行直後に読んでより、深く感動させられた。
また、そのせいで、この賞への期待は高まり、第2回以降の「大賞受賞作」はもとより、「優秀賞」受賞作も、ジャンル的に私の好みに合いそうなものなら読んでいるし、のちに人気作家になった、恩田陸や小野不由美、高野史緒らが、同賞に応募して受賞を逸した作品についても、そのデビュー作として読んでいる。
しかし、結局のところ『後宮小説』のような「文句のつけどころのない作品」に出会うことはなかった。
あえて挙げるなら、第6回の大賞受賞作、銀林みのるの『鉄塔 武蔵野線』くらいであろうか。この作品は、個人的は大好きな作品ではあるのだが、しかし『後宮小説』と比べてしまうと、その完成度において「格が違う」という印象は否めないのだ。

ただし、その『鉄塔 武蔵野線』ほどにも評価できなかった作品を挙げておけば、私が同作をいかに高く評価しているかがお分かりいただけようし、さらにそれよりも上とする『後宮小説』への評価が、いかに際立って高いものかもご理解いただけるはずだ。
比較対象として作品名を挙げられる作家諸氏には申し訳ないが、これも読者の率直な感想だとご容赦願いたい。
・山口泉『宇宙のみなもとの滝』(第1回優秀賞受賞作)
・佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』(第3回大賞受賞作)
・恩田陸『六番目の小夜子』(第3回候補作)
・小野不由美『東亰異聞』(第5回候補作)
・恩田陸『球形の季節』(第5回候補作)
・高野史緒『ムジカ・マキーナ』(第6回候補作)
・浅暮三文『ダブ(エ)ストン街道』(第8回候補作)
・宇月原晴明『信長 あるいは 戴冠せるアンドロギュヌス』(第11回大賞受賞作)
・森見登美彦『太陽の塔/ピレネーの城』(第15回大賞受賞作)
・平山瑞穂『ラス・マンチャス通信』(第16回大賞受賞作)
これらの作品は、必ずしも「日本ファンタジーノベル大賞」受賞作または候補作として読んだというわけではない。
それぞれがメジャーデビューした後、別作で注目した作家の「デビュー作」または「過去作」として読んだものが多い。
また当時の私は、好んで読む小説ジャンルが、「ミステリ小説」と「幻想文学」に偏っていたから、そちらに近い作風の作家には注目したが、例えば「ハイファンタジー」であるとか「ユーモアもの」を中心に書くような作家は、それだけで読まなかったという事実も、公平を期して書いておこう。
あと、読みたいけれど、いまだ読めないでいる作品として、小田雅久仁の次の2作も、ここに挙げておきたい。
・『影舞』(第15回候補作)
・『増大派に告ぐ』(第21回大賞受賞作)
なぜ、読めていないのかといえば、『影舞』の方はそもそも公刊されていない模様だし、『増大派に告ぐ』は未入手だからである。
なお、以上の他にも読んだ作品があるかもしれないが、それらについてはタイトルを見てさえ読んだという記憶が蘇ってこないほど、印象が残っていないということになろう。
さて、ここまで錚々たるメンバーの名を挙げれば、酒見賢一の『後宮小説』が、いかに別格の怪物的な傑作かということも、おのずとご理解いただけよう。
だから、未読の方は、ぜひ本作『後宮小説』を読んでほしい。
無論、結果としてピンと来ないという人も稀にはいるだろうが、それは「読者の方に問題がある」のだと、あえて断じさせていただきた。
しかし、これは何も、そうした読者を責めているのではなく、例えば私が、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の良さをまったく理解できなかったというのと、同じだということだ。この場合、私の感性が至らなかったのであり、その事実を認めるのにやぶさかではない、ということである。
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さて、今や「歴史的名作」と読んでも良い本作『後宮小説』のレビューを書くにあたって、今更「あらすじ」の紹介をする気にもならない。
そこで、今回再読するにいたった経緯と、再読して感じたことに絞って書かせていただきたいと思う。
それでも「あらすじ」を知りたい方は、下の「Wikipedia」をご参照いただきたい。
さて、まずは本書「再読のきっかけ」だが、これは、酒見賢一が一昨日(2023年)亡くなったことを受けてのことだ。
その際に書いた、上の追悼文にも書いたことだが、私は、『後宮小説』を刊行時に読んで深く感銘を受け、酒見賢一の本を待ち望むようにして第2著作、第3著作と読んだ。
だが、残念ながらそれらは、私の期待に応えるようなものではなかった。そのせいで私は、その段階で一度、酒見賢一を見限っている。
だが、10年ほど前、どういうきっかけだった、酒見賢一のもう一つの代表作である『陋巷に在り』(全13巻)を読んで、再びその魅力に圧倒されたので、続けて酒見の他の未読著作を読んだ。
だが、やはりそれらは、『後宮小説』や『陋巷に在り』ほどの感銘を私に与えてはくれなかった。
そのため私は、再び酒見賢一を見限ったのだが、この段階で未読だったのは、まだ完結していなかった大長編『泣き虫弱虫諸葛孔明』と、酒見のエッセイ集『中国雑話 中国的思想』だけとなっていたから、少なくとも『泣き虫弱虫諸葛孔明』の方だけは、いずれ読もうという気にはなっていた。
そして、そんな一昨年末に、私より「年下」である酒見賢一の早すぎる訃報に接して、あらためて「この機会に、未読の著作をすべて読んでしまおう」と決意したのである。
私が、その時考えたのは、『後宮小説』の再読と、まだ見ていなかった『後宮小説』のアニメ化作品『雲のように風のように』の鑑賞。当時はまだ未入学だったエッセイ集『中国雑話 中国的思想』を手に入れて読み、大トリは、すでに入手済みであった大作『泣き虫弱虫諸葛孔明』を最後に、というような流れだった。
そして結果としては、アニメ『雲のように風のように』を鑑賞し、『中国雑話 中国的思想』を読み、じつに36年ぶりの『後宮小説』の再読となったのである。
今回、『後宮小説』を再読しながらまず感じたのは、思っていたほど「面白く」は感じられない、というのと、アニメ版は原作にかなり忠実に作られていた、ということだ。
今回読み返すまで、私はこの原作小説の物語の詳細をほぼ記憶していなかったから、アニメ版を見た際には、それがどのくらい原作に忠実かは、よくわからなかった。
だから、原作の大ファンである私としては「あの圧倒的に素晴らしかった原作小説に比べると、このアニメ版は努力賞レベルだな」と、そんな冷淡な評価を与えたのだが、いざ原作の方を読み返してみると、案外、アニメ版と同じくらいの「面白さ」しか感じなかったので、「もしかすると、かつての私は、この作品を過大評価しすぎていたのかも」と、そんな思いが何度も頭をよぎったのである。
一一だが、最後まで読んで、やっぱりこの作品は別格だと、あらためて感心さえられることになった。
やはり、小説というのは、最後まで読んでみないと、正しい評価は下せないのだと、またもや反省させられたのである。
そこでくり返すが、『後宮小説』は、やはり別格の傑作である。
その理由は、「物語の面白さ」や「キャラクターの魅力」には止まらない、その「小説としての品格」と、そこに表現された「思想の器の大きさ」だとでも言えようか。
今回は、そのあたりについて書いてみたい。

さて、今回の再読で、最も魅力を感じたキャラクターは、主人公の「銀河」ではなく、脇役の一人「渾沌」である。
この渾沌は、きわめて捉えどころのない人物として描かれている。
「Wikipedia」の記述によると、こうだ。
『渾沌(こんとん)
原名は厄駘(やくたい)。幻影達の義兄弟として作品に描写される。韜晦でありながら、自らの信念を貫く性格でもあり、当初は退屈しのぎに挙兵した反乱であるが、王斉美という将軍に出会ったことで、その敵討ちとしての反乱を指導して行く。
後宮攻撃に際して反乱の中止を主張し、幻影達との関係に亀裂が入る。銀河が後宮軍軍使として反乱軍側に接触した際に対応し、銀河と双槐樹の再会を手助けしているばかりか、その後の宮女脱出の策略を行うなどをしている。
末路に関しては幻影達の刺客に殺害された、若しくは地方蜂起軍の建州王杜辺の軍師である喃威(なんい)になったと描写されている。』
(Wikipedia「後宮小説」)
『韜晦でありながら、自らの信念を貫く性格』とまとめられているが、これでは、渾沌の性格なり人格なりの捉え方としては、まったく不正確であり不十分だ。
まず、言えることは渾沌は、自分の性格や考えを「韜晦」したりはしていないし、そこが重要なポイントなのである。
つまり、
『当初は退屈しのぎに挙兵した反乱であるが、王斉美という将軍に出会ったことで、その敵討ちとしての反乱を指導して行く。』
という説明は、「当初は、信念を貫く性格を隠していた(韜晦していた)」けれど、王斉美の死に直面して、良い意味での「本性を露わにした」ということになるわけだが、そういうことではない。
渾沌にとっては、『退屈しのぎに挙兵』するというのも「生来の性格」からのものなら、自分たちが挙兵した相手としての敵方の指揮官であった王斉美の潔い生き方・死に方の感動し、彼をハメて死に至らしめた敵方を討とうと「本気になった」、というのも、渾沌の「生来の性格」なのだ。
一般的には『退屈しのぎに挙兵』するというのは「いい加減で無責任」であり、一方「王斉美の潔い生き方・死に方の感動し、彼をハメて死に至らしめた敵方を討とうした」というのは「義を重んずる生き方」として「誠実」だということになるから、一見したところは、前と後で「矛盾している」と捉えられがちだ。
またそのため、前者は「韜晦」でしかなく、後者が「本来の性格」なのだろうと合理化して考えがちで、要は「本当はいいヤツ」だった式の、ありがちな「物語類型」に落とし込んでの理解になってしまっているのである。
だが、この理解は、完全な間違いだ。
渾沌の場合は、一見「いい加減で無責任」に見えても、「自分の気持ちに誠実」という点において、完全に一貫している。
のちに、義兄弟であったはずの長年の友人である幻影達(イリューダ)を裏切るのも、渾沌としては「自分の価値観や美意識に誠実」であっただけであり、その意味で、彼の中では一貫した態度なのだ。周囲や世間は、そうは見てくれなくても、である。
譬え話をしよう。
あるプロジェクトの責任者を任されたとしよう。それをある程度まで進めてきて、ある時「これはダメだ。本質的にどうにもならないものだ」と気づいた時に、「このプロジェクトは本質的にダメですので、これで止めにしましょう」とあっさり宣言できる人が「誠実」なのか、それとも「みんなでこれだけ頑張ってきたんだから、いまさら後には退けない。だから、ダメもとで、もう少し頑張ってみよう」と、自分の本音は呑み込んで、みんなの気持ちを尊重する人の方が「誠実」なのか、という問題である。
言うまでもなく、世間一般には、後者の方が「誠実な人だ」ということになる。
たとえ、結果としてプロジェクトが失敗に終わろうとも、彼は「精一杯やったんだし、みんなの気持ちを尊重してくれた」と、そういう評価を受けるだろう。
しかし、こうした「誠実さ」とは、所詮「他人からの肯定的な評価が得られるだけの、他人向けの誠実さ」でしかなく、「自分に誠実」だとは、到底いえない。
彼は「プロジェクトが失敗に終わることを予期しながらも自分を偽り、むざむざ誤った選択をした」からである。
つまり、同じ「誠実さ」でも、渾沌の誠実さとは「他人に評価されるような誠実さ」ではなく「徹底して、自分の価値観や美意識に、誠実である」ということなのだ。
だから、周囲の者からすれば「言動が一貫しておらず無責任」ということにもなるのだが、当人としては「その時、それが正しいと思ったから、それをやっただけ」ということなのである。
混沌は、「周囲の事情」や「周囲への義理」あるいは「周囲からの評価」などというものを一顧だにせず、終始「自分自身に誠実」であり「自分を偽ることも、世間におもねることもしなかった」だけなのだ。
まただからこそ、否応なく「その時の状況に巻き込まれて右顧左眄し、右往左往してしまう」当たり前の人たちから見れば、「なんだよ、あいつは?」という評価にもなってしまうのだが、渾沌のこうした態度とは、ひと言で言ってしまえば、
『君子、豹変す』
という言葉に尽きたのである。
本当に優れた人は、周囲の状況に流されることなく「自分が正しいと思ったこと」を、ただ粛々とやるだけなのだ。彼は「世間」を超越して、自由なのである。
だから、意見や考えが変われば、態度も変える。
これまでの自身の言動に義理立てして「以前のまま」であろう、帳尻を無理にでも合わせることで一貫性を保とうなどという「ケチな悪あがき」や「誤魔化し」などせずに、「今はこれが最善なんだ」と豹変して見せることのできる者こそが非凡なる「君子」であり、混沌は、そんな「君子」だったのである。
で、これは主人公の「銀河」にも言えることだ。
なぜなら銀河の魅力とは、何よりもその「自然体」であり「自由さ」だからである。
しかしながら、銀河には子供ゆえの未熟さがまだあり、そのせいで、渾沌ほど完璧に「世間的な一貫性(辻褄合わせ)」を超越するような態度を採ることはできない。
だからこそ、夫である素乾国の皇帝・双槐樹(コリューン)が「そなたが大人になるまで、抱くことはせん」と言うと、いざ、自分が大人の身体になったと知っても、愛する双槐樹に、自分から「大人になりました」と、そう素直に告げることができなかった。
なぜなら、それを告げることは「抱いて」と要求するようなものであり、それはさすがに「恥ずかしい」という、世間並みの「照れ」や「見栄」があったからである。
だが、そのために銀河は、もう少しのところで、双槐樹に抱かれることもないままの別れをしなければならないところだったのだ。
たまたま、周囲にそれを強く奨める人がいたし、ギリギリの状況であったから、それが叶ったのだが、世間並みに「照れ」て、「自分の本音を偽ったまま」だったら、きっと銀河は後悔することになっていたはずである。
つまり、世間がなんと言おうと、自分はそれが「好き」だと思えば、それを「好き」だと声に出し、それを求めることこそが「自身に誠実な生き方」であり、「常識」だの「世間体」だの「損得打算」などで自分を偽るのは、言うまでもなく「自分に不誠実な生き方」なのだ。
そして、自分に不誠実な人間は、他人にもそのような「一見誠実そうに見える、不誠実な生き方」を求めるようになりがちなのである。
だから、本当なら銀河は、その身体が大人になったと分かれば、双槐樹に「あなたが好きです。だから私を抱いてください」と言えば良かったのだが、それを素直に言えなかったところが、渾沌には及ばない、銀河の「未熟さ」だったのである。
例えば、著者の酒見賢一は「文庫版あとがき」の中で、本作のアニメ『雲のように風のように』について、次のように書いている。
『 アニメはどうでしたか? という質問もよく受けた。実は『後宮小説』はアニメ化されてテレビで放送されている。『雲のように風のように』というのがそれである。私は制作にはノータッチだったのだが、制作された方々には今でも足を向けて寝ることが出来ない。最初は、
(無謀なことをするものだ)
と私は思った。内容があれでは子供向けアニメはちと辛くはないか、という思いを関係者の方々は皆抱いていたに違いない。
結果としては大成功だったようで、よかった。はっきり言えば、あのアニメが無かったら『後宮小説』及び作家酒見は今頃どうなっていたか分からない。私が生き延びることができたのはほとんどがあの作品のお陰なのである。
そういう恩人ではあるのだが、敢えてちょっとだけ言わせていただくなら、
「たのむわ・・菊凶」
と一言言っておきたい。それから、
「王斉美をだせ」
とも付け加えたい。もう一つ、
「双槐樹と玉遥樹のインセストタブーな関係が変更されたのは仕方がありません。でも、幻影達たちが遊廓で遊びまくるところは入れて欲しかった」と小声で言いたい。
後は、ありがとうございました、たいへんよかったです、と感謝しきりである。』
(P293〜294)

この文章からわかるのは、アニメ版に関する酒見賢一の本音が、
「いろいろ不満はあるけれど、でもアニメスタッフの方が頑張ってくださったのは承知している。また、アニメがあったからこそ、原作がよく売れたということもあるのだがら、その意味では、とても感謝しており、心から『ありがとうございました』と言いたいし、アニメを作ってもらえて『たいへんよかったです、と感謝しきり』なのも事実である」
というものだった、ということだ。
つまり、露骨に作品評価だけを語って角の立つことのないように、意図的に一定の「韜晦」が加えられているのだが、それでも「本音」の評価が伝わるように書かれたのが、この文章なのである。
したがって、酒見賢一は、渾沌ほどには「率直」でも「正直」でもないけれど、やはり、渾沌の生き方に憧れるだけのことはある、かなり「正直」な人だったというのを、この文章は示唆している。
そして、斯くいう私の場合は、原作者・酒見賢一のような「しがらみ」など無いからこそ、アニメ版については「まずまず」などという、身も蓋もない評価を、率直に語り得たのである。
そんなわけで、本作が、最後まで読んでこそ、その別格の素晴らしさがわかると私が言うのは、それまでの「物語」が語り終えられた後、それとは一線を引いたかたちで語られる「縦横」の章の存在が、非常に重要な意味を持つものだったからである。
この章は、次の一文で始まる。
『 だから、この以下のくだりは蛇足である。』(P281)
この「縦横」の章で語られるのは、素乾国の滅亡にあたって、からくも国を逃れて何処へか去った「銀河のその後」を語る、「伝説」集である。
作中でもこれを、一種の「銀河伝説」の類であり、確かな話ではない、と断っている。
そして、そこで語られるのは、まさに「縦横無尽」「神出鬼没」と言っても良いほどの、その後の銀河の人生なのだ。
たしかにそこには、銀河のものではない、赤の他人の逸話や、まるっきりの作り話なども混じっているかもしれない。
だが、巷間に広く流布し、庶民に「信じられた」逸話となり得たのは、もともと銀河に、それだけのものがあったからに他ならない。
結局のところ銀河は、素乾国の正妃に就くも、まもなく国そのものが滅んでしまう。
したがって、「歴史」にその名を大きく刻んだわけでもないし、端的に言って「敗者」に終わった人物の一人である。
だが、銀河のその後の「多彩な伝説」の存在が意味するのは、結局のところ「世間並みの勝者」に収まってしまうことよりも、その「伝説」が語るような自由奔放な「とらわれのない生き方」こそが銀河らしいし魅力的だと人々は感じ、そんな銀河をこそ人々は愛した、いうことなのだ。
作中でも語られているとおり、銀河があのまま正妃としての人生を歩み、のちに「宮廷内の権力争いに権謀術数のかぎりを尽くした」などという話は、誰も聞きたくはないのである。
そうではなく、たとえ「歴史における敗者」であったとしても、銀河は銀河らしく、その「伝説」が伝えるように、常識にとらわれることなく「雲のように風のように」、自由に生きてくれることこそが、人々にとっては、何よりも魅力的だったということなのだ。
本作『後宮小説』の非凡な「大きさ」の魅力とは、現実の「しがらみ」に縛られて、思うがままには生きられない私たちの「憧れ」が、実際にはそれに手の届かない「切なさ」とともに、二つながらに描かれている点にあるのではないだろうか。
本作は「理想と現実」の、どちらか一方ではなく、その両方を描き切った点で、「偉大」と呼んで良い作品だと、私はそのように評価したいのである。
(2025年5月19日)
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