長谷川和彦監督 『太陽を盗んだ男』 : 死に損ないの空虚さとその暴走
映画評:長谷川和彦監督『太陽を盗んだ男』(1979年/日本映画)
本作は、「カルト的」な人気を誇り、かつ「名作」との呼び声も高い作品である。
その事実は、下のような例を挙げるだけで十分であろう。
“「キネマ旬報」映画人が選んだオールタイムベスト100・日本映画編”第13位!(2000年10月下旬号実施)
“「この映画がすごい」20世紀ホントに面白かった映画ベスト100”邦画第3位!(2001年5月号実施)
(DVDカバー背面より)
いささか古い「オールタイムベスト」結果だとは言え、公開から20年を経てこうだったのだから、なかなかどうして大したものである。
反面、本作は長らくビデオやDVDにはならず、なかなか見ることの叶わない「幻の傑作」ともなっていたので、そうした状況から「カルト的」な人気を博したのでは、との推測も可能だろう。つまり、なかなか見ることのできない傑作を見ることのできた映画マニアたちが、ついつい「すごいぞ!」と言いふらしたくなったとしても何の不思議もない作品だった、ということである。
そこで私の評価なのだが、ハッキリ言って、「いきおい」だけが売りの「B級映画」、ということになる。
作中で「原爆(原子爆弾)」を扱っており、その意味での「テーマ性」が「あるかも」と、そう思わせる部分もあるにはあるが、本作には、そんな真面目なテーマ性などは無い。
監督の長谷川和彦が「胎内被曝者」であったから、「原爆」や「被曝」の問題をエンタメ的に弄んでいるといった批判を免れ得たものの、そうしたものが扱われているからといって、そこに積極的な意味があるわけでもなく、むしろ「エンタメ」としての「スケール感の演出」や「タブーに挑む」的な側面の方が、圧倒的に大きい。平たく言えば、いささか「斜に構えた」作品なのである。
「原爆」や「被曝」問題を扱っているから、見る方がそこに、「好意的」に「過剰な意味の読み込み」をしてしまいがちなのだが、そんなものは所詮「枯れ尾花に幽霊を見る」類いのものでしかない。
その意味で、本作を「反原爆映画」だとか「反原子力映画」だなどと評価するのは、「作品自体を見ない、イデオロギー的な評価」としか言えないだろう。

したがって、結論的に言えば、本作を「傑作」だの「名作」だのと評するのは、端的に「間違い」である。
ただし「カルト的な魅力」のある作品だとは言えるだろう。どういうことかと言えば、要するに本作は「やりたい放題やった、畸形的な作品」だということである。
○ ○ ○
本作『太陽を盗んだ男』の「あらすじ」は、次のとおりである。
『中学校の理科教師である城戸誠(沢田研二)は、日頃から遅刻を繰り返したり無気力な教師であった。
そんなある日、生徒たちを引率して原子力発電所の社会科見学を終えた時、突如として大量の火器を持つ老人にバスジャックされる。彼の要求は「ただちに皇居へ向かい、天皇陛下に合わせろ」。誠と生徒らを乗せたバスは一路、皇居へと向かう。
事件を解決すべく、丸の内警察署捜査一課の山下警部(菅原文太)らによる犯人確保と人質救出作戦が始まった。山下は誠と協力し、老人の前に白旗を持って現れる。生徒達を盾にしてバスを降りてきた老人を、山下は咄嗟に取り押さえる。そして狙撃犯により(※ 狙撃班の狙撃により)老人は倒れ、山下は自ら傷を負いながらも(※ 人質全員を)救出してみせた。一連の出来事に誠はただ圧倒されるしかなかった。
それから誠は変わった。休み時間に学校のネットをよじ登る、授業は学級崩壊を気にせず延々と原子力や原爆の作り方についての講義を行う等の奇行が始まった。しかし、これは彼がこれから起こす犯罪のためのトレーニングだった。
ある日、誠は茨城県東海村の原子力発電所から液体プルトニウムを強奪し、アパートの自室で悪戦苦闘しつつも原爆を完成させた。そして、精製した金属プルトニウムの欠片を仕込んだダミー原爆を国会議事堂に置き日本政府を脅迫し、その交渉相手として山下警部を指名する。
誠の第1の要求は「プロ野球のナイターを試合の最後まで中継させろ」。電話を介しての山下との対決の結果、その夜の巨人対大洋戦は急遽完全中継される。快哉を叫ぶ誠は山下に「俺は『9番』」と名乗る。
第2の要求を何にするか思いつかずに迷う誠は、愛聴するラジオのDJ・ゼロこと沢井零子(池上季実子)を巻き込む。多数のリスナーも交えた公開リクエストの結果、誠の決めた第2の要求は「ローリング・ストーンズ日本公演」。これにも従わざるを得ない山下だったが、転機が訪れた。原爆製造のため借金したサラ金業者に返済を迫られた誠が、出した第3の要求「現金5億円」であった。山下は現金の受け渡しなら犯人は必ず現れると奮起する。電話での会話を好む、逆探知の時間を把握していてギリギリまで話す誠のクセを逆手に取り、電電公社に電話の逆探知時間を短縮させる罠を仕掛ける山下。その作戦は的中し、逆探知により誠が東急デパートの屋上から電話をしていることが判明し、東急デパートの出入口を警察が封鎖する。初めて作戦が失敗した誠はトイレに駆け込むも歯茎から出血、突然の吐き気が襲うなど被曝の症状が進んでいる事を知り、動揺もあり封鎖を突破することが難しいと観念した誠は、山下に原爆のありかを教え、原爆のタイマー解除を交換条件として、持ってきていた5億円を屋上からばら撒くことと封鎖を解くことを指示する。一万円札が空から降ってきて大騒ぎになっている街の中を、誠は逃げ切ることに成功する。
原爆を回収した山下たちは、起爆装置を解除することに成功したが、解体までは作業が進んでいなかった。誠は原爆が保管されているビルを襲い原爆を奪取すると車で逃走、追跡する警察との激しいカーチェイスの末、零子が事故の巻き添えになる。誠は一時的な感情の落ち込みを見せるものの、無表情のまま再び原爆を組み上げるのであった。
ローリングストーンズ公演の日、ついに山下と誠は対峙する。ローリングストーンズの来日はもともと予定されておらず、観客にわざと暴動を起こさせ全員まとめて逮捕、その中から犯人を洗い出すという作戦であった。誠は山下を原爆を置いていたビルの屋上まで連れて行って銃で撃つが、銃弾を何発も身に受けながらも、山下は誠を道連れにしようと屋上から転落する。山下は全身を強打して殉職したものの、誠はどうにか生き長らえる。
誠は被曝で弱った上に転落で負った怪我で流血が止まらないまま、原爆を持ちながら街を歩き、やがて30分が過ぎる。』
(Wikipedia「太陽を盗んだ男」)











本作の「最大の特徴」は、次の2点に集約されよう。
(1)犯人である城戸誠の「具体的な犯行動機」が描かれない。
(2)物語終盤、内容に不釣り合いな、派手なアクションシーンがある。
本作を見るかぎり、城戸がどうしてこのような「とんでもない犯行」をしでかしたのか、その説明はなされていない。
ただ、印象としては、一種の「社会に対する、理由なき反抗」とは言えようか。
その点では本作が、「学生たちのよる反体制運動」敗北後の作品であるというのは、否定できないところであるし、作中でも、城戸は自身のことを「過激派なんかじゃない」と言い、過激派学生に対する否定的な姿勢を窺わせている。
要は、「あいつらとは違う」ということであり、たぶん「俺は一人でやっている」ということでもあれば「イデオロギーのためにやっているわけでもない」という意味でもあろう。
だが、だからこそ城戸の「犯行動機」は、曖昧なのだ。
「金目当て」でもなければ、明確な「目的」も無い。原爆で政府を脅しても、それで何を実現するというような、具体的な目的を持っていないのだ。だから「プロ野球のナイター中継を、最後まで放送させろ」とか「ローリング・ストーンズを、日本に呼んでコンサートをさせろ」などという「ふざけた要求」をするのである。


のちに城戸は「5億円を用意しろ」と要求するが、もともと城戸は「金目当てでやっているんじゃない」と語っているので、この「5億円要求」というのは、金が欲しくてやるのではない。
原爆を作るためにサラ金から金を借り、その返済をしなかった(忘れて放置していた)ことから、取り立て屋のヤクザ者が、自宅や職場(学校)周辺にまで姿を見せたのを、警察だと勘違いして焦った城戸だったが、その正体を知ってすっかり安心し、取り立て屋のヤクザ者を笑って揶揄った様子には、すでに金銭欲や、まともな生活への未練など失った者の「超俗性」が、ハッキリと窺えるのだ。
したがって「5億円の要求」も、必要に駆られたものではなく、遊び半分に「ノシを付けて返してやるよ」くらいの気分で思いついたものなのであろう。


では、すでに「世間並みの欲」を失っていた城戸は、どうして「原爆で政府を脅す」などということをしたのか?
それはたぶん、「日常」に満たされないものを感じ、それに倦み疲れていた、ということであろう。つまり、「こんな日常なんか、木っ端微塵に吹っ飛ばしたい」というような、破壊的願望である。
城戸が抱えていたのは、こうした一種の「不全感」であって、自分でもどういう理由で「不満」を抱えているのかが、よくわかっていなかった、ということなのであろう。
ただ、不満を抱えていたことだけは確かだからこそ、「やる気のない教師」生活をダラダラと送っていたのである。

ところがそんなある日、生徒を引率して出かけた原子力発電所への校外学習で、マシンガンや手榴弾などで武装した老人による、バスジャックに遭ってしまう。
老人は、学生たちを人質にとって「天皇陛下に会わせろ」と言うのだ。天皇に会って、「戦争で失った息子を返せ」と訴えると言うのである。
つまり、この老人は、先の戦争で、徴兵されて戦地に赴いた息子を亡くしており、その戦争は「昭和天皇」の名において行われ、その名においての徴兵だったのだから、天皇に「責任を取れ」と、そう言いたかったのであろう。
結局、その老人は、「天皇に会わせる」との警察の虚偽の約束によって、バスからおびき出されることになる。
学生と、引率教師の城戸と、バスの中へ交渉に入った山下警部に、自分の周りをぐるりをとり囲ませて「人の盾」としたのだが、山下警部の英雄的な行動もあり、待機していた狙撃犯によって、老人は射殺されてしまう。
で、そんな老人の「狂気の沙汰とその結末」に遭遇した後、城戸は「原爆の制作」に没頭し始めるのだ。要は「老人の無謀な行動」や「山下警部の勇敢な行動」に触発されて、自分も「死んでもいいから、この不愉快な世界に、ひと泡吹かせてやる」と、そんな気持ちになったのであろう。
まるでゾンビのように、なんとなく生きているよりは、そうした生き方死に方の方が「マシだ」と考え、初めて「生きる目的」を得た城戸は、生き生きとし始めるのである。
で、こうした「城戸誠」という人物は「何を象徴しているのか?」と言えば、前述のとおり、私の見たところでは「社会変革(革命)を目指した学生運動が、決定的な敗北を喫した」後、何を目標に生きれば良いのかといった「不全感」を抱え、それでも「経済的に満たされた社会に、言い知れぬ不満を感じた人たち」の気持ちを象徴しているのだと思う。
無論その代表が、他でもない、本作監督の長谷川和彦だったのであろう。
本作が制作された「1979年」と言えば、私が高校生の頃である。そして、私の世代は、前世代との比較において、「しらけ世代」などと呼ばれた。
要は、理想というものを持たず、経済的に恵まれた社会の中で、日々、個人的な楽しみに耽溺しているだけの、社会意識の低い世代。一一というような、否定的評価だ。
しかし、言うまでもなく、私の世代の「しらけ」とは、前世代の「独り善がりな理想主義」とその帰結としての「内ゲバという悲惨な自滅」を見せつけられたところから出たものなのだから、それを批判する資格など前世代には無い、とも言えよう。
しかしまた「でも、自分だけは、他の奴(同世代)とは違っている」と考えたような前世代は、「今どきの若者は」などと、身の程を知らない不満を抱えもしたのである。


本作監督の長谷川和彦の生まれ年は「1946年(昭和21年)」である。そして、「全共闘(全学共闘会議)」の活動期間がおおよそ「1965年? - 1969年」(Wiki)ということだから、長谷川は、まさに「全共闘」世代だ。
そして、本作を撮ったのは、それから10年後の「1979年」であり、「全共闘」運動が終焉して、その後(1970年代)の「新左翼(極左)セクトどうしの内ゲバによる殺し合い」を見た後、ということになる。
つまり、「全共闘世代」である長谷川が、「新左翼セクトの内ゲバ」を横目に眉を顰めつつ、かと言って、その後の「しらけ世代」を認めることもできず、結局のところ、何もできないまま悶々と抱えていたその「不全感」を、映画にぶち込んだのが本作『太陽を盗んだ男』だった、ということになるのではないだろうか。
一一だからこそ本作は、私より上の世代には「共感者」も多いのだろうけれども、私と同世代以下の世代には、「理解不能」ということにもなる。
ただ、本作の場合、その「ほとんど出鱈目なまでのエネルギーの発散」ぶりが「笑える」という側面は確実にあって、その結果「共感」というのとは少し違う、「カルト的」な人気を博すことも出来たということなのではないだろうか。
実際、本作は、ほとんど「やけっぱち」な作品だと、そう評してもいい。
では、どういうところがそうなのか?
本作には、当時の「今の時代」や「今の世相」や「今の世代」を「批判する」という、「積極性=前向きさ」は、ほとんど無い。
そこにあるのはただ、「何もかも気に入らねえ。すべて消し飛んでしまえばいいんだ」と、そんな気分なのだ。だからこそ実際、物語のラストは、「原爆」が炸裂したことを暗示したものになってもいる。

もちろん、こういう「不貞腐れのやけっぱち」映画もあって良いと思うし、それはそれでそれなりに「社会批評の一種」だとは言えよう。
また、本作の作風(傾向)は、間違いなく「アメリカン・ニューシネマ」と共時的なものではあるのだけれど、それにしても、「アメリカン・ニューシネマ」の傑作に比べてしまうと、所詮は「B級」という印象は否めない。
と言うのも、最初に書いた本作の特徴の二つ目である『物語終盤、内容に不釣り合いな、派手なアクションシーンがある。』ためだ。
具体的な例を、いくつか挙げよう。
(1)逃げる城戸の車を追うカーチェイスシーンでの、無駄に大袈裟なパトカーの横転だの、横切る材木運搬トレーラーをダイブで飛び越すだの、その下を潜り抜けるだのといった、ほとんど『西部警察』的な馬鹿馬鹿しさ。
(2)ヘリコプターの脚部にぶら下がって、城戸を追う山下警部。
(3)地上10メートルはあろうかという高さのヘリコプターから飛び降りる山下警部(スタントマンが骨折したという話もある)
(4)城戸から原爆を奪おうとして、何発も銃弾を撃ち込まれた山下警部が、それでも城戸に襲いかかってくる、ターミネーターもかくやという、あまりにも非現実的な描写。
決して、以上が全てではないのだ。







ともあれ、(1)も、ほとんど「ギャグ」なのだが、(2)〜(4)は、とうてい真面目にやっているとは思えない描写だ。
だが、それも、単純に「面白がって」やったというよりは、「やりたい放題」ド派手にやった、という感じなのである。一一つまり、基本が「やけっぱち」なのだ。
そして、ここで面白い(興味深い)のは、たぶん監督自身の「気分」を反映したであろう城戸誠が、もとより死を覚悟に始めた犯行であるにもかかわらず、途中で自殺しようとして果たせず、結局は逃走を図ったのに対して、その敵手である山下警部は、自身の命を寸毫も惜しむことなく、城戸の犯行を阻止しようとする、ほとんど「怪物」的な人物として描かれている点である。


これが何を意味するのかと言えば、たぶんそれは、長谷川監督自身が、自身のスタンスに「死に損ないの敗者」的な「負い目」を感じていた、ということなのではないだろうか。
言うなれば、「世界との闘いに敗れながら、それでもおめおめと生き残って、こんな憂さ晴らしのような映画を撮っている俺」というものに、どこかしら「やましさ」を感じていた。
だからこそ、城戸は「死を恐れぬ反抗者」とは描かれずに、敵手である山下警部の方に、その「満たされなかった夢」が逆に投影された。
しかしまた、そういう「やましさ」や「負い目」を感じながらも、単に「傍迷惑な現実逃避者のマスターベーション」だと自らの立場を批判するだけの強靭な「批評性」も持ち得なかったからこそ、沢田研二という「セクシーな俳優」を使うことで、自らの「ナルシシズム」と、折り合いをつけることにした、ということなのではなかったか。
だが、言わせてもらえば、こんな「自分の傷を舐めるナルシシズム映画」など、所詮は「負け犬の遠吠え」でしかなく、まったく私の趣味には合わない。むしろ大嫌いな部類のものでしかないのだ。
タイプで言うならば、間違いなく私は、「敵の顔面に、正面から拳を叩き込む」のを良しとする、山下警部タイプなのである。
もちろん「怪物」などではないけれども。

山下とは城戸にとって、どういう存在だったのか?)
(2025年3月19日)
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