中原俊監督・三谷幸喜脚本 『12人の優しい日本人』 : 隙のない「正統的な大傑作」
映画評:中原俊監督・三谷幸喜脚本『12人の優しい日本人』(1991年)
まあ、とにかく凄い傑作である。2時間弱の作品だが、息つく暇がないほど、笑いのネタが串団子(あるいは数珠)のように途切れることなく詰まっている。本作の原作者であり脚本も担当した三谷幸喜が、まだ映画監督業に乗り出す前の、渾身の脚本。
本作が制作されたのは1991年だが、三谷幸喜の名を世に知らしめたテレビドラマ『警部補 古畑任三郎』の始まったのが1994年、初の監督映画『ラヂオの時間』が1997年、ということになる。

だから、本作映画版『12人の優しい日本人』が制作された1991年当時、三谷はすでに舞台はもちろんテレビドラマの脚本家として知られてはいたが、初の映画化作品ということで、監督は、本作の前年、漫画を原作としながら、女子校演劇部の物語を舞台演劇的な演出を用いて映画化した『櫻の園』で大変な評判をとった、中原俊が撮ることになったのであろう。中原が本作を撮ることになった経緯については詳らかではないが、当時の日本映画界としては、三谷の舞台を映画化するのに、最適最高の映画監督だったのではないだろうか。
しかしながら今となっては、三谷幸喜の方が圧倒的に知名度も高く、実際、映画となった本作『12人の優しい日本人』を見ても、やはり「三谷幸喜印のコテコテ作品」という印象が強く、例えば「映画.com」のカスタマーレビューを見ても、三谷幸喜への言及の方が圧倒的に多い。
それは本作が、そのきわ立って「個性的かつ優れた脚本」の力のよるところの大きい作品だから、致し方のないところではあるのだが、しかしだからといって、中原俊の功績を無視して良いものではないだろう。
本作『12人の優しい日本人』の元ネタとなったシドニー・ルメット監督の『十二人の怒れる男』(1957年)と、中原俊監督の『櫻の園』(1990年)の両方を見ている者として言うならば、中原による『12人の優しい日本人』は、『十二人の怒れる男』の「堅実な見せ方」を踏まえつつ、非常にスマートかつ洗練された見せ方をしており、その非凡なセンスとカメラワークが、三谷の舞台原作を見事に映画という形式に落とし込み、それによって本作を、並ぶところのない傑作に仕上げたというのは、議論の余地のないところなのだ。
たとえば、もし仮に本作映画版を、今の三谷幸喜が撮っていたら、本作のようにスマートな作品にはならなかっただろうと、私はそこまで言いたいのである。
無論、なにも三谷幸喜を貶めたくて、このように言っているのではない。
私が言いたいのは、「映画」という集団創作において、本作は『12人の優しい日本人』は、異なるセンスを持つ者の、幸福な出会いの上に奇跡的に成立した作品であり、両者のどちらが欠けても、このような傑作にはならなかっただろうと、そう言いたいのだ。
そもそも私は、中原俊のファンではなく、三谷幸喜ファンの「本格ミステリ」愛好家なのである。
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これまでの人生で、あまり舞台演劇には縁のなかった私が、本作を見ることになったのは、ごく当たり前に、まず『十二人の怒れる男』の方を、幼い頃にテレビで見て、感動したからである。

『十二人の怒れる男』については、すでにレビューを書いて詳しく論じているから、詳細はそちらに譲るが、私が同作に感動したのは、本格ミステリ的な「論理のアクロバット」の魅力で引っ張りながらも、テーマとしては「アメリカにおける民主主義の理想」を静かに、かつ高らかに謳った作品だったからである。単に「三転四転」する物語の面白さだけではなく、「陪審員8号」を演じたヘンリー・フォンダに象徴される「アメリカの理性的な良心」に、私は深く感動したのだ。
だから、そのパロディでありコメディー作品である本作『12人の優しい日本人』の存在を知った時は、正直なところ、さしたる期待はしなかった。
しかし、公開当時、大変な評判だったので「いちおう見ておくか。お手並み拝見といこう」と、完全に「上から目線」で本作を見ていたのである。
ところがだ、本作を見終えて、私は本作が、元ネタである『十二人の怒れる男』に勝るとも劣らない「大傑作」であると評価するのに、まったく躊躇を覚えなくなっていた。完全に、兜を脱がされたのである。
本作映画版の「あらすじ」は、次のとおりである。
『ある殺人事件の審議のために12人の陪審員が集められた。ここに来た12人は、職業も年齢もバラバラな無作為に選ばれた人々。陪審委員長を努める40歳の体育教師の1号、28歳の会社員の2号、49歳の喫茶店店主の3号、61歳の元信用金庫職員の4号、37歳の庶務係OLの5号、34歳のセールスマンの6号、33歳のタイル職人の7号、29歳の主婦の8号、51歳の歯科医の9号、50歳のクリーニング店おかみの10号、30歳の売れない役者の11号、そして同じく30歳の大手スーパー課長補佐の12号。
被告人が若くて美人だったことから審議は概ね無罪で始まり、すぐ終わるかに見えたが、討論好きの2号が無罪の根拠を一人一人に問い詰めたことから、審議は意外な展開へ。有罪派と無罪派と分裂、さらに陪審員達の感情までもが入り乱れ、被告人が有罪の線が強くなっていく。ところがその時、他の者から浮いていた11号が事件の謎解きを推測し始め、それによって事件の新たなる真実が判明する。そして事態はまたまた逆転し、被告人は無罪となるのだった。』
(映画.com『12人の優しい日本人』)

じつのところ本作は、「本格ミステリ」小説を読むようにして、見る必要のない作品だ。
どういうことかというと、エラリー・クイーンに代表される、純粋な「本格ミステリ」小説というのは、「作者と読者の知的ゲーム」として書かれており、要は「作者が問題編を提供し、読者がそこから自分なりの正解を見出した後に、作者による解答編を読んで、読者の解答が、問題編を正しく読み解いた上での、正解であったかなかったかで、その勝敗を決する」ような作品なのである。
しかし、これはあくまでも「本格ミステリ」の「原理」であり「一つの理想形態」であって、これがすべてだということではない。
「純粋な本格ミステリ」が「厳密に論理的でフェアなチェスゲーム」なのだとしたら、しかし多くの「本格ミステリ」は、そのようなものではあり得ず、むしろ「論理的見せかけながら、読者をいかに欺くか(煙に巻くか)といったところを主眼とした、ある種のペテン小説」でもあり得るのだ。本格ミステリの多くの作品は、少なからずこうした「不純な面白さ」としての「騙し騙される快楽」というものを含んでいるものなのである。
そしてこの点では、『十二人の怒れる男』と『12人の優しい日本人』は同種の作品であり、両作を「本格ミステリ」として見るならば、それは「純粋な本格ミステリ」ではなく、むしろ「不純な本格ミステリ」の方だと言えよう。
なぜなら、「純粋な本格ミステリ」が「真相を解くために必要なヒント」のすべてを読者の前に提示した上で、「さあ、あなたが十分な観察眼と論理性を持っていれば、ここまでの描写で、すべての真相は見抜けるはずですよ」という「挑戦」をしてくるものなのに対し、『十二人の怒れる男』や『12人の優しい日本人』は、真相解明のためのヒントをすべて提示してから、おもむろに謎解きをするのではなく、ヒントを「小出しにする」ことで、物語を「三転四転」させ、その目眩く展開に観客を酔わせることを目的とした作品だからである。つまり「後出しジャンケン」的な要素を含んでいるのだ。


したがって両作は、基本的に「事件の真相を見抜くための作品ではない」ということになる。
『十二人の怒れる男』の場合なら「真相自体は誰にもわからないが、肝心なのは、疑わしきは罰せずという原理なのだ」というお話なのだし、一方『12人の優しい日本人』は、そもそも「後出しジャンケン」的であることにおいて、真相の解明など原理的に不可能な作りになっている。大切なのは、新情報とそれに基づく新たな推理によって観客の鼻面を引きずり回し、五里霧中の「論理の迷宮」を彷徨わせることにより、いささか被虐的な「快楽」を楽しませるところにあるのだ。
だから、『12人の優しい日本人』に関して、たまに見かける「あの無罪という結論は、おかしい」と評するような人は、基本的に、この作品を理解していない、ということになる。
なぜなら、この推理劇においては、真相自体は重要ではなく、真相に見えたものが、次々と逆転していくところに、その妙味があるからである。
さて、『十二人の怒れる男』と『12人の優しい日本人』の両作に共通する「基本的構造」を説明した上で、本作『12人の優しい日本人』の「独自性(オリジナリティ)」について語ることにしよう。
両作の端的な違いとは、まず何と言っても、『十二人の怒れる男』が「大真面目」な作品だったのに対し、『12人の優しい日本人』が「ふざけた」コメディ作品だった、という点にあろう。
しかし、ここでの「ふざけた」という言葉を、否定的な意味で取ってはならない。
本作『12人の優しい日本人』が、どうしてこういう「ふざけた」作品になったのかと言えば、それはもちろん、それが三谷幸喜の「個性」だからというのは間違いないのだけれど、それではなんの説明にもなってはいない。
なぜなら、三谷幸喜の「ふざけた」感じとは、決して「不真面目」を意味するものではないからである。
一見「ふざけて」いるように見えても、その奥には三谷の「大真面目さ」が隠されており、むしろそうした「大真面目さ」をむき出しにしてしまうことへの「照れ」から、わざと「ふざけた」態度をして見せているのだと、そう考えるべきなのだ。
そしてそれは、例えば三谷の代表作である『古畑任三郎』の、一見「ふざけて」いながら、その裏には「大真面目」な正義感が秘められているといったことからも、類比的に理解できよう。

たぶん三谷幸喜という人は、自身の「真面目さ」に照れて、それを「韜晦してしまう人」なのである。
言い換えれば、きわめて「本格ミステリ」的な、「真相を隠さずにはいられない人=いったん隠した上で、観客に『真相を見抜いてください』という形式を採らないではいられない、シャイな性状の持ち主」だと、そう言えるのである。
だから、三谷幸喜が、初めて『十二人の怒れる男』を見た際に、思わず「笑ってしまった」というエピソードも、額面どおりに受け取るわけにはいかないだろう。
つまり、三谷は『十二人の怒れる男』を見て、そこに描かれた「大真面目さ」を滑稽だと思って笑ったのではなく、まるで三谷の「素顔」を突きつけてくるような「大真面目さ」をそこに見て、思わず、笑って誤魔化さずにはいられなかったと、そういうことなのではないだろうか。
だから、一見すると本作『12人の優しい日本人』は、元ネタである『十二人の怒れる男』を、おちょくり(からかい)まくった作品のように見えるけれど、一一そうではないのだ。それは、完全な「誤解」である。
『十二人の怒れる男』が、当初は12人の陪審員のうち、一人だけが「無罪」を主張するのだが、議論を重ねていく中で、他の陪審員たちの意見を、一人また一人と翻させてゆき、最後は「全会一致の無罪」という結論に至るという物語なのに対し、『12人の優しい日本人』の方はその真逆で、12人の陪審員のうち、一人だけが「有罪」を主張するのだが、議論を重ねていく中で、他の陪審員たちの意見を、一人また一人「有罪」へと翻させてゆくという展開になっており、その点で、まるで『十二人の怒れる男』の「大真面目さ」を揶揄っているかのように見られがちである。
だが、最後まで見れば分かるとおりで、『12人の優しい日本人』も、結局のところ『十二人の怒れる男』と同じ「全会一致の無罪」という結論に至る作品なのである。
そして、そんな本作『12人の優しい日本人』の「仕掛け」とは、『十二人の怒れる男』ではたった一人の「名探偵」しか登場しなかったのに対し、『12人の優しい日本人』の方は、後続の作品らしく、「名探偵役」を「二重化」するという工夫を加えている点にある。
つまり、「仮の名探偵(前座の名探偵)」と「真の名探偵」の二人が登場するのである。
本作『12人の優しい日本人』の場合、途中までは「仮の名探偵(前座の名探偵)」が他の11人の「無罪」という意見を「有罪」へと翻させていくのだが、そのあとで「真の名探偵」が登場して、その「有罪」説を再び次々と翻させてゆき、最後は『十二人の怒れる男』と同じ「全員一致の無罪」へと導く。
だから、『12人の優しい日本人』において「議論しましょうよ」と訴える屁理屈男の「陪審員2号」(相島一之)は、一見したところ、『十二人の怒れる男』において「議論しましょう」と訴えて、他の11人の意見を翻させていく「陪審員8号」(ヘンリー・フォンダ)のパロディにように見えるけれども、じつは、そうではないのだ。じっさい「陪審員2号」は、一人で名探偵役を担いきれないから、理屈好きの「陪審員9号」(村松克己)の助力によって、他の人の意見に影響を与えることができたに過ぎない。


したがって、本作『12人の優しい日本人』において、『十二人の怒れる男』の「陪審員8号」の役を演ずるのは、「陪審員11号」(豊川悦司)なのである。

彼「陪審員11号」が「真の名探偵」、つまり『十二人の怒れる男』の「陪審員8号」(ヘンリー・フォンダ)にあたる人物であり、それまで『十二人の怒れる男』の「陪審員8号」の役をパロディ的に演じていたかに見えた「陪審員2号」(相島一之)は、『十二人の怒れる男』において、終始「有罪」にこだわって、「陪審員8号」に食ってかかったりしていたが、最後の最後で泣き崩れ、実は彼自身の「個人的な事情」で「有罪」にこだわっていたというのが明らかになる「陪審員3号」(リー・J・コッブ)にあたる人物だったというのがわかるように、本作『12人の優しい日本人』は作られているのだ。

つまり、『12人の優しい日本人』は、三谷幸喜らしく、とても「ひねった作り」になっている作品ではあるのだが、しかし最終的には『十二人の怒れる男』とまったく同じパターンに収斂されていく、歴とした「オマージュ作品」であり、間違いなく「愛を込めたパロディ作品」だったのである。
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このほかに、本作『12人の優しい日本人』には、いろいろと「独自の魅力」があって、それはすでに、方々で語られてもいる。
例えば、次のようなものが、その代表的なものであろう。
(1)「日本人論」となっている。
(2)『十二人の怒れる男』がストレートで「1対1の論戦の連続」的な作品、言うなれば「モノフォニー(単声音楽)」的な作品なのに対して、本作『12人の優しい日本人』は、複数人の声が交錯する「ポリフォニー(多声音楽)」的な作品である。
(1)については、タイトルにも明らかなので、ここで再説する必要はあるまい。
ただ、ひとつだけ指摘しておけば、本作で描かれた「日本人性」は、本作制作当時のそれであって、必ずしも現在の「日本人性」とは一致しない部分があるだろうという点だ。
つまり、「インターネット後」における、現在の日本人の「自己主張のかたち」は、本作で語られたものとは必ずしも一致しないかも知れず、だから、今の若者が本作を見れば、その「おかしさ」が理解できない部分がかもしれないという危惧は残る。




(2)については、実際、ある人物が意見を述べている横で、他の人物がぶつぶつ言っていたり小芝居をしていたりしていて、意見を語る人物だけに注目しておれば良いような作品にはなっていない。
言い換えれば、個々の意見の中身だけではなく、相互的な場の空気を読み取るべき、じつに「日本人向きの作品」になっている、ということである。

以上のように、本作『12人の優しい日本人』は、オリジナルの『十二人の怒れる男』から30数年後の作品として、相応のバージョンアップと捻りを加えながら、しかし、オリジナルに対する最大限の敬意を忘れなかった作品なのだ。
だからこそ『十二人の怒れる男』という作品を、自身の「オールタイムベスト10」の作品だと評価する私でも、本作『12人の優しい日本人』を、オリジナルに「勝るとも劣らぬ作品」だと、そのように評価できる。
そんなわけで、「理屈っぽくて、捻りの多い作品」が苦手だという人以外は、とにかく是非とも、本作を見てほしい。
見なければ、一生の損失である。
ただしまた、本作を見る前に、必ずオリジナルの『十二人の怒れる男』を見てほしい。
オリジナルを見ないで『12人の優しい日本人』を見た人は、決して本作の真価を理解できないと、そう断言しておきたいと思う。

(2025年3月4日)
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