表現・祭り
子ども:おじいちゃん。なんで、あんな変な事件起きるの?
祖父:変な事件?
子ども:誰でもよかったとか言って、人を傷つけたりする人いるじゃない。
祖父:いるなあ……
子ども:どうしてなんだろう。
祖父:そんなことを考えるのは、お前には、ちょっと早くないか?
子ども:うーん。僕よりも、ちょっと年上なだけで、そういう計画立てちゃって、未遂で捕まった人とかいるとさあ。考えちゃうよ。
祖父:人それぞれの理由があっただろうし、本人にもわからない事も多いだろうね。
子ども:でも……
祖父:お前だって、ゲームでたくさん敵をやっつけてるじゃないか。随分、リアルな作戦で戦争ごっこするゲームもあるんだなあって、見ていたぞ(笑)。
子ども:それは、ゲームだってわかってるからだよ。ゲームの敵を倒すのと、生きているものを殺そうとするのは、全然違うよ。どうして、そこを越えてしまう人がいるんだろう。
祖父:そうだなあ。ゲームで敵を倒せると、スカっとしないか?
子ども:それは、するけど……
祖父:映画で何かをやっつけて平和になる話ってないか?
子ども:それは、あるね。
祖父:人間には、何かをやっつけると、スカっとする性質があるんだ。それが、ゲームであれ、物語であれ。
子ども:うん。でも、現実に何かを傷つけるのは生々し過ぎるよ、この前、猫が車に轢かれてるの見ただけで、遣り切れない気持ちになったよ。
祖父:そうだな。それが、割合平気な人がいる。
ただ、平気の方向が違う場合がある。わしの姉さんは、そういうものが平気だった。子どもの頃に、もう助からない、損傷が酷い虫の息の猫を、随分持ってきてしまって、かわいそうだから、病院に連れていくと聞かなかった。惨い状態に関れるけれど、それは喜びではない。例えようもない悲しみや愛情からの行動だ。
傷ついてるものを喜ぶ、あるいはもっと酷くなると、他者を傷つける事が喜びになる人がいる、この疑問だろ?
子ども:うん。それが、わからない。
祖父:この話は、それぞれの状況や、その人の人柄とか、物凄く複雑なことが絡むと思う。敢えて単純に言ってる場合があるし、あくまで、わしの考えだと思って聞いてくれ。
子ども:うん。
祖父:実は、わしも若い頃、人が傷ついているのを見て、喜びを感じてしまったことがある。物語ではない。現実に生きている人に対してだ。もちろん、わしが何かをやったわけではない。何かの被害、犯罪や災害に巻き込まれている人に対して、喜びを感じてしまったことがある。
自分に対して、ぞっとしたのを覚えている。
その前から、幸せな人を見るだけで腹が立っていたが、具体的な被害を受けている人に対して、喜びを感じたのは、初めてだった。
子ども:…………なんで?
祖父:わしは、若い頃、肺の病気になってしまって、常に呼吸が苦しかった。医者からも、長生きの可能性も無いと言われていた。日常生活も、うまくいかない。人生のこの先も嬉しい事は無さそうだ。絶望していたんだな。そういう気持ちが、ある時、結晶のようになって、具体的に傷ついている人を見て、喜びを感じてしまった。ぎょっとした。
絶望を感じている人の一部が、そうなる場合があるんだ。
普通は、残酷な目に会っている人に出会えば、悲しかったり、気が滅入ったり気持ちが悪くなったりする。
でも、それに耐えられず、スイッチが違う方向に入る場合がある。わしの姉さんは、残酷な状態を見ているだけなのが、耐えられなくて、何かをしたいと思った。お医者さんを目指して、ついに実現させた。凄いものだ。そういう、スイッチをプラスに入れられたんだな。
わしは、そうではなかった。スイッチがマイナスに入ってしまった。
ただ、わしは幸か不幸か、体がガタガタだったので、実際の暴力を振るう体力が無かったし、直接行動に出るほどの暗い怒りはなかった。
人間には、人と協力したり労わりあったり、そういう尊い面もあるが、そういう深い醜い側面もある。
わしの場合は、病気がうまく治ってきてくれて、生きていく目途がたったんだ。希望というものが持てたんだな。わしは解決できたから良いようなものの、解決できないで、禍々しいものが、大きくなっていく人もいるんだろう。
子ども:なんだか悲しいね。
祖父:そうだな……
子ども:なんか、方法無いのかな……
祖父:防ぐ方法のことか?
子ども:うん。
祖父:一つは表現だと思う。
子ども:表現?
祖父:暴力性とは違うが、絶望に繋がりかねない人に対してこんな事が行われたのを知っている。末期ガンの患者さんに、詩を書いてもらう取り組みというものを聞いた事がある。
あるいは、少年刑務所に服役している囚人に詩を作ってもらうプログラムをやって、効果があった話を聞いたことがある。
人に話せない事や、自分でもよくわからなくなっていることを言葉で表現するんだ。そうすると、別の何かが生まれる事がある。
もちろん、ガン患者の人たちや服役している人たちの詩は、見せびらかすためのものでもなければ、売るためのものでもない。癒しのためなんだ。何かが伝わる場合がある。自分にも、他人にも。それで、どうしようもない気持ちが癒される場合がある。
気をつけなくてはいけないのは、難しい気持ちほど簡単には表現はできない。文章の技術だけではなくて、信頼できる人間関係がないと難しいんだ。
ガン患者の人たちや、服役している人たちに詩を作ってもらうプログラムは、とても丁寧な積み重ねがあって、理解のある人たちが枠組みを作ったからできたことで「さあ、話せば、書けば楽になる」というものではないことは、間違えないでほしい。
一人だけで何かの難しい気持ちを、きちんと作品として消化できるような人は、トップアスリートみたいな人だ。滅多にいない。
人は、どうしても心に収まらない気持ちを、それが良い事であれ、悪い事であれ、人に話して収めていくところがある。
表現というのは、そういう面で比較的無害だ。文字でなくても、絵で表現する事もあるかもしれない。
ただ、それでも癒されない場合がある。そういう場合は、文字や絵ではなく、体、肉体を使うもっと衝動的な行動になる。体を使ったものの方が、心の深い所に働きかけるというのは、よく知られている。他人に対してではなく、自分の体を傷つけるような事を繰り返す人もいるな。
子ども:それが、悪くすると、いじめとか、暴力とか犯罪という表現になるのかな……
ネットでも、人を傷つけるのが喜びになってしまってるんじゃないかって思うような人がいるよ……
祖父:ネットでの表現活動が、盛んなのは、手軽に感情の消化ができそうに思えるからなんだろう。
この問題はとても複雑で微妙だから、全部が全部、そうかどうかはわからないが、そういう人も多いかもしれない。
子ども:体や行動の方まで行ってしまう人のためには、何か方法は無いのかな……
祖父:難しいなあ……祭りみたいなものかなあ。
子ども:祭り?
祖父:祭りの中には、随分と怪我をしそうな乱暴なものがあるだろう?
大昔だったら、動物を生贄にしたりした。もっと過激なものだと、奴隷に殺し合いをさせて、それを見物する祭りをやっていた時代や地域もあるそうだ。そういう普通じゃないことをする。
子ども:うえ……本当に、殺すの?
祖父:祭りの中で、枠を外すんだ。まあ、今、動物を殺す祭りはできないし、人間の殺し合いなんてもってのほかだ。しかし、生々しい乱暴ともいえる迫力があるもので、枠を外すのが効果が大きいんだと思う。
もちろん、無制限ではない。無制限にやるのは、ただの暴動・殺戮だ。ちゃんと限度を厳しく設けてやる。みんなで、作っていって、わーっと、普通ではないことをする。
巨大な人形をたくさん作って、町中で燃やす祭りも聞いたことがある。人形たちも、随分期間をかけて、みんなで作る。中途半端にやるわけではない。危なくないように参加者は、ルールを厳し過ぎるくらいに守る。消防隊も総出で出動し、火災にならないように周到な準備をして臨むそうだ。みんなで祭りの材料を作り準備をして、結束と癒しが生まれる。
ちゃんとした祭りは、枠を外しながらも、暴走を防ぐ仕掛けをきちんとしてあるんだ。それを長年の積み重ねの中で、きちんと作ってきている。
婆さんは、バカじゃなかろうかと、言っていたな(笑)。
お金と手間の浪費じゃないかって。
これは普段の生活に必要不可欠なものではないし、合理的ではない。しかし、やっかいなことに、人間にはそういうものが必要なんだと思う。
そうすると、そういうマイナスな攻撃性も消費されたりする。そうやって、破壊的なパワーを別な方向に消化される。
わしが聞いた、そういう乱暴な祭りをする地域は、そのシーズンは犯罪が減るそうだ。まあ、あまり熱心に祭りに取り組むから、青年たちは、みな準備に駆り出されて、犯罪どころではなくなるというのが、本当の所のようだが。でも、今の時代は、みんなで祭りで興奮という訳にはなかなかいかん面があるだろうな。
子ども:うん。今は、そういうのに馴染めない人も多いだろうね。そんなに近所付き合いないし、僕だってそんな激しい祭りに、参加したいって思わない。ゲームとかの方がいいよ……
そもそも、あまりにもゆとりがなくて、祭りどころじゃない人がいっぱいいると思う。祭りっていうのは、ゆとりや人の繋がりがあってこそできるものでしょ?
祖父:そうだな……
子ども:どうしたらいいんだろうね……
祖父:難しいな……たぶん、別の体を使う祭りのやり方を考えていくしかないんじゃないかな。
演劇なんかも、そういう所があるんじゃないかな?
いろんな感情を体を使って創造的な事をする。良い方向に行けば、そういうパワーは新しいものを作ったりもすると思う。
自分でできる祭り、あるいは、仲間でできるほかの祭りのような方法を考えていくしかないんじゃないかな。
もちろん健康を損なわない形でな。
