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曖昧さを共有する線ーー山田紗子展「parallel tunes」感想(TOTOギャラリー・間)

1、はじめに

山田紗子展「parallel tunes」を見て、いちばん強く残ったのは、建築が立ち上がる前の平面だった。

ここでいう平面とは、建築の専門用語としての「平面図」を指しているのではない。むしろ、紙の上のドローイング、壁面に貼られた大きな絵、模型の表面、映像が投影される壁や角など、異なるものがいったん同じ面の上に置かれる場所のことである。

会場には巨大な模型も、実作の写真も、映像もあった。とくに自邸の1/5模型は、模型というより半分建築のような大きさで、鑑賞者に身体を動かして見ることを要求してくる。
しかし、会場を一巡したあとに戻りたくなるのは、やはりドローイングの前だった。山田の建築は、立体になることで完成するというより、何度も平面に戻されることで、かろうじて自由であり続けているように見えた。

今回はお馴染みの館長のギャラリートークも聞けたのでその話も含めて感想を書く。

TOTOギャラリー・間の展覧会説明では、山田紗子の建築は「自然と人とものとが響き合う」ものとして紹介されている。さらに山田自身は、《daita2019》について、吹き抜けを横断する階段、階をまたいで伸びる本棚、丈の長いカーテンが、それぞれの旋律を持って生活の一角を形づくると述べている。山田が目指すのは、調和したシンフォニーではなく、和音も不協和音も同時に響くポリフォニーであり、そのために「カラフルで騒がしい世界」への連なり方を探っている。

この説明は、本展の見方をかなりはっきり示している。山田の作品において重要なのは、すべてが美しく統一されることではない。むしろ、異なるものが異なるまま、同じ場に居続けることである。

その意味で、山田のドローイングは、単なる完成予想図ではない。館長トークでは《miyazaki》について、建築は工期やコストによって変わっていくが、一度ドローイングを通して「みんなで合意」しておけば、そこに立ち返ることができる、という説明があった。

山田事務所では、ドローイングとプランニングを一緒に進め、設計の途中で何度もドローイングに戻るという。 これはかなり重要だと思う。ドローイングは、設計者だけが抱くイメージではない。施主やスタッフ、関係者が「この建築は何を目指していたのか」を思い出すための共通認識になっている。ただし、それは曖昧さを消すための共通認識ではない。むしろ、曖昧なものを曖昧なまま共有するための面である。

2、クラーナハ的な線

ここで少し脇道にそれたい。
国立国際美術館の福元崇志によるクラーナハ論を接続すると、山田のドローイングの性格がもう少し見えてくるからだ。

福元論では、クラーナハを考えるうえで、線や輪郭の問題が重要になる。デューラーの線が対象を明確に描き分け、世界を知的に整理していく線だとすれば、クラーナハの線は、輪郭をはっきり固定するよりも、ものとものの境界を揺らし、撹乱する方向に働く。

左:アルブレヒト・デューラー《騎士と死と悪魔》1513年、エングレーヴィング、The Metropolitan Museum of Art, Public Domain.
右:ルーカス・クラーナハ(父)《死んだ竜を伴う馬上の聖ゲオルギウス》木版、The Metropolitan Museum of Art, Public Domain.

ウィーン美術史美術館学芸員のグイド・メスリングもデューラーが「あらゆるものを崇高に意義深く、豊かな線の運びで描き分ける」と評される一方、クラーナハはデューラーとは異なる、華奢で魅惑的な性格を持つ画家として位置づけられている。

また福元は、明瞭な輪郭線が自然を知る助けになる一方、過度に固定された輪郭線は融通のきかない定型や偏見にもなりうる、と論じている。

この対比をそのまま建築に当てはめるのは乱暴かもしれない。しかし、山田のドローイングには、たしかに「クラーナハ的」と呼びたくなる線の働きがある。山田の線は、これは柱、これは壁、これは家具、これは庭、というように対象を分類して終わる線ではない。むしろ、柱と家具、庭と室内、建築ともの、色と生活を、完全には分けないまま同じ画面の上に置く線である。

山田のドローイングが面白いのは、整理が足りないからではない。整理しすぎることに抵抗しているからだ。そこでは、明快な図面になる手前の、不思議で、少し可愛く、少し不安定な形が、建築を考えるための共有物として扱われている。

3、自邸《daita2019》

《daita2019》は、このことをもっとも強く示していた。館長はこの住宅について、山田の自邸であり、住宅作品としての重要な出発点であることを説明していた。自邸は、建築家が自分の考えを最も直接的に反映しやすい場所であり、《daita2019》はその後、賞も受けることになる。今回の展示では、その住宅が1/5という非常に大きな模型で示されていた。

模型の中に浸りながら、ドローイングとのあいだを行き来して見てほしい、という館長の説明もあった。 つまりこの展示では、模型とドローイングは別々の資料ではない。模型は立体化されたドローイングであり、ドローイングは模型や実作に戻るための面である。

《daita2019》は家型をしている。しかし、その家型は、普通の住宅らしさを安心して示す記号ではない。館長の説明によれば、この家は住宅側と庭側が大きく分かれ、半地下のように掘り込まれながら、3層に展開している。庭側には、足場などに使われる単管による骨組みがある。柱状の部材や梁、筋交いを含め、およそ50本ほどの単管によって庭が組まれているという。

普通、庭は建築の外側にある自然として考えられやすい。ところが《daita2019》の庭は、自然そのものというより、工事現場のような単管の骨組みによって立ち上がっている。庭は完成された外部ではなく、あとから何かが吊られ、足され、位置を変えられる、仮設性を持った場所になっている。

階段も、単なる上下移動のための装置ではない。庭側には屋外階段があり、長い踊り場やカーブを描く階段がダイニングテラスへつながる。その先には高さ約4030ミリの大きなスチール扉があり、さらに上がると物干しテラス、そして3階の寝室へと至る。館長は、この家では3階から1階の庭まで直接降りられること、一見玄関に見える場所も実は階段の踊り場であり、明確な玄関がないことを話していた。

出入口も複数ある。 玄関とは、家の内と外を分ける制度である。ここから内側、ここから外側、ここから客、ここから家族、という境界を引く場所である。しかし《daita2019》では、その境界が一箇所に固定されていない。家に入るという行為は、一つの扉をくぐることではなく、庭、階段、テラス、ダイニングを斜めに移動していく経験になっている。

内部もまた、部屋ごとにきれいに分けられていない。階段に沿って本棚が反り、3階から1階までつながる。カーテンも階をまたいで大きく垂れている。館長は、間仕切りが少なく、全体がワンルームのような不思議な空間になっていると説明していた。

ここでは本棚はただの家具ではない。階段と一緒に伸びる地形のようなものである。カーテンも、部屋を完全に分ける壁ではない。階をまたいで空間を濁らせる、柔らかい線である。単管、階段、本棚、カーテン、テラス、スチール扉。どれも建築の一部でありながら、建築に従属しきっていない。それぞれが別の旋律を持ち、互いを睨みながら併走している。

4、《miyazaki》の色彩

ここで山田における色の扱いを考えてみよう。
館長トークでは《miyazaki》について、施主がグラフィックデザインを背景に持ち、住宅の中にカラーチャートやカラフルな要素があふれていること、柱、床、壁、椅子、テーブル、キッチンなどが「消え入りきらないように」、建築とものが同じ位置関係を占めていることをドローイングで示そうとした、という説明があった。

ここでの色は、空間全体を上品にまとめるためのものではない。むしろ、ものが背景に沈んでしまうことへの抵抗である。赤い柱は赤い柱として、青い面は青い面として、緑の植物は緑の植物として、同じ画面の上で存在を主張する。山田の色は、統一の道具ではなく、ものたちを同じ平面に呼び戻すための座標であり、名札であり、小さな叫びである。

5、《EXPO 2025 大阪・関西万博休憩所3》

この色の働きは、彼女の万博の模型にも現れていた。《EXPO 2025 大阪・関西万博休憩所3》の模型は、建築模型というより、ドローイングの断片がそのまま立ち上がったように見えた。館長トークでは、実際には屋根があるにもかかわらず、展示模型では屋根を外し、本体や木を面の上で構成したこと、ドローイングから抜け出したかのような模型を作ったことが説明されていた。


たしかに、あの模型は正確な構造模型というより、可愛いとも不思議とも言いたくなる形をしていた。木々や休憩所のパーツが、どこか玩具のように置かれ、しかし単なる玩具ではなく、会場全体の読み方を変える力を持っていた。

この「可愛い」「不思議」という感覚は、軽く見ない方がいいと思う。福元がクラーナハ論で扱う「飼い慣らされた非合理」という言葉を借りれば、山田の模型にも、ある種の飼い慣らされた非合理がある。

福元は、クラーナハの絵画が常套化したものの捉え方を破棄し、別の可能性を示唆するものとして期待されていた、と論じている。 山田の万博模型も同じように、正確さだけで建築を説明するのではなく、少し変で、少し可愛く、しかし共有可能な形として、建築の非合理を手なずけている。つまり、よく分からないものを排除するのではなく、よく分からないまま、みんなで見られる形にしている。

6、《nu:kuju》の支柱

《nu:kuju》の支柱、あるいは杭のようなものにも注目したい。館長トークでは、広大な敷地の中で拠り所がなく、山の輪郭や地形のラインを手がかりに、フェンスの高さ、大きさ、間隔を考えていったことが語られていた。

とくにオレンジ色の支柱については、単純に見れば支柱にすぎないが、その設計に時間をかけており、その支柱が高低差や地形を表しているという。 ここでも色は重要である。オレンジ色の支柱は、風景に溶け込まない。むしろ、広すぎる風景の中に点を打ち、見る人の目を引っかける。山の輪郭や高低差のように、普段は大きすぎて見えにくいものが、色のついた杭によって急に読めるようになる。

7、藤本壮介の森

この点は、山田が藤本壮介建築設計事務所にいたこととも関係している。山田はランドスケープデザインを学びながら建築に関心を持ち、藤本壮介建築設計事務所に入所した後、東京藝術大学大学院で建築を学んだと紹介されている。藤本的なものを一言で言えば、建築を森に近づける感覚だと思う。

森のように、どこからどこまでが部屋なのかはっきりせず、濃い場所と薄い場所、内と外、自然と人工がグラデーションをつくる。森美術館の藤本展でも、藤本建築の核として「open boundaries」「amorphous」「many many many」が挙げられ、境界の開き、曖昧さ、多数性が強調されている。また、サーペンタイン・パヴィリオンでは、20ミリの白い鉄骨による格子が「transparent terrain」と呼ばれ、自然と人工のあいだにある透明な地形のような建築として構想されていた。

しかし山田は、藤本の主題をそのまま繰り返しているわけではない。藤本の建築が、透明な立体の中で境界をぼかしていくものだとすれば、山田の建築は、色のついた平面の上で、境界をいったん並べ直すものだ。

藤本の森は白く、軽く、雲のように抽象化されていく。山田の森はもっと騒がしい。そこには単管があり、本棚があり、カーテンがあり、洗濯物があり、家具があり、植物があり、動物がいて、未来の増築まである。藤本が建築を環境へ溶かそうとするのだとすれば、山田は環境の中のものたちを消さない。透明化するのではなく、色によって、ものの存在を前へ出してしまう。

8、「未来都市の後でー阿頼耶識とデミウルゴス」展

ここで、東京藝術大学大学美術館で開催された「未来都市の後でー阿頼耶識とデミウルゴス」に出展された山田作品を接続して考えると、さらに見え方が変わる。

この展覧会は2026年5月29日から6月7日まで東京藝術大学大学美術館陳列館2階で開催され、出展作家に山田紗子の名前もある。建築展と美術展に分けられた展示だったが山田は美術展に展示されていたことも示唆的だ。

「デミウルゴス」とは、世界を作る者、造物主のような存在を思わせる言葉である。けれど山田を「未来都市の後」に置くなら、彼女は上から世界を完全に設計するデミウルゴスではない。むしろ、ばらばらのものが関係を持ち始めるための面を用意し、そこに線を引き、色を置き、杭を打つデミウルゴスである。

その意味で、山田のドローイングは、建築のための下絵ではなく、世界がまだ一つの形に決まる前の共有面である。そこには、建築になるかもしれないもの、家具になるかもしれないもの、風景になるかもしれないものが、まだ役割を決めきらないまま置かれている。

デューラー的な線が世界を明確に分ける線だとすれば、山田の線はクラーナハ的に、分けることを少し遅らせる線である。明快さを拒否するのではなく、明快になりすぎることで失われる関係を残しておく線である。

9、映像展示の「線」


映像展示も、この平面と境界の問題に関わっていた。印象に残ったのは、映像が壁の正面だけでなく、角や建築の境目をうまく使って投影されていたことだ。TOTOの会場紹介でも、4階展示は「4つの映像で作品の世界に没入」と説明されている。

実際に見て面白かったのは、映像がスクリーンの中に閉じていなかったことだった。角をまたいで投影されることで、建築の境界は映像を切断する線ではなく、映像を折り曲げる線になっていた。つまり会場そのものが、一枚の折れたドローイングのように扱われていたのである。

このことに気づくと、展示全体の見え方が変わる。ドローイングは異なるものを同じ面に置き、模型はその面から少しだけ立ち上がり、映像は立体化した会場をもう一度、折れ曲がった平面へ戻す。《nu:kuju》の杭のような支柱は、平面から立ち上がる色の点として、地形の読み方を変える。

《daita2019》の単管や階段、本棚、カーテンは、住宅を部屋の集合としてではなく、いくつもの旋律が同時に走る場として見せる。ここでは、平面と立体、図面と模型、色と構造、生活と風景が、一方通行ではなく何度も往復している。

10、平行線は交わらない

「parallel tunes」というタイトルも、その意味で改めて面白い。パラレルとは平行である。平行線は交わらない。しかし、平行線は同じ平面上にある。山田にとって、繋がるとは、ひとつに混ざることではないのだと思う。交わらないものたちが、交わらないまま、同じ面を共有すること。柱と家具、植物と建築、生活と構造、自然と人工、現在と未来。普通なら別のカテゴリーに分けられるものが、山田のドローイングでは、互いに睨み合いながら、同時に鳴っている。

だからこの展覧会でドローイングがよかったのは、単に絵として魅力的だったからではない。そこには、山田の建築が何をしようとしているのかが最もはっきり現れていた。

11、最後に

建築を立体化する前に、世界を一度、同じ面に戻すこと。立体が作ってしまう序列をほどき、異なるものを同じ資格で置くこと。色によって、ものたちを背景へ沈ませないこと。角や境界を、断絶ではなく、折れた平面として使うこと。そして、ときにはその平面に杭を打ち、見えなかった地形や関係を立ち上げること。

山田紗子は、建築をただ立ち上げているのではない。立体になってしまった世界を、何度も平面に戻している。その平面の上で、ものたちは整理されず、消えず、交わらないまま近くにいる。

そして、ある場所に線が引かれ、色が置かれ、杭が打たれると、世界は少し違って見え始める。山田の建築が生き生きとして見えるのは、完成した建物の中に、まだ描かれ続けている線と、まだ置かれ続けている色が残っているからだと思う(了)

展覧会情報
山田紗子展 parallel tunes
会期:2026年4月16日(木)—7月12日(日)
開館時間:11:00–18:00
休館日:月曜・祝日、5月4日(月)~6日(水)。ただし5月3日(日・祝)は開館
会場:TOTOギャラリー・間
住所:東京都港区南青山1-24-3 TOTO乃木坂ビル3F
入場料:無料
主催:TOTOギャラリー・間
主な出展作品:miyazaki、nu:kuju、daita2019、outline bar など。

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