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並行する近代——人間国宝とケラのあいだで読む「現代の染表現1991〜2025」(京都市京セラ美術館)

序章 二つの「もう一つの日本美術史」

今年、京都市京セラ美術館は、二つの「もう一つの日本美術史」を続けて見せた。

二月から五月まで開かれた「日本画アヴァンギャルド KYOTO 1948-1970」は、創造美術、パンリアル美術協会、ケラ美術協会を中心に、戦後京都で「日本画」の枠を問い直した画家たちを紹介する展覧会だった。岩絵具や墨だけでなく、油絵具、エナメル、漆、蠟、布、泥、ムシロまでを持ち込み、既存の画壇と日本画の境界を壊そうとした人々である。

その展覧会が終わって約二か月後、同じ美術館で「現代の染表現1991〜2025」が開かれた。

こちらは、1991年に始まった染・清流展の三十五年を、主要作品約九十点によって振り返る展覧会である。会派を超えて作家を集め、作品を買い上げ、コレクションを形成し、ついには染色専門美術館を成立させた。その制度と作品の歴史が、京都市京セラ美術館の白い壁に並んでいた。

一方は、戦後日本画の前衛。もう一方は、現代染色の選抜展。

二つは別々の展覧会に見える。だが私には、同じ問いを異なる場所から照らしているように思えた。

日本の近代美術は、一本の道を西洋化したのではないのではないか。

西洋由来の学校、展覧会、美術館、公募、審査という器を共有しながら、美術、書、染色は、それぞれ別の過去と規範を抱え、別々の近代をつくった。私たちが「前衛」「伝統」「現代美術」「工芸」と呼んできたものは、造形そのものの違いだけではなく、どの集団に属し、どの展覧会に出品し、どの制度に価値を認められたかによって分けられたのではないか。

その二つの展覧会をつなぐ人物として、私の目に浮かんだのが森口邦彦だった。

今回の展示「現代の染表現1991〜2025」の森口邦彦の作品

1959年、京都市立美術大学日本画科出身の若い画家たちは、ケラ美術協会を結成した。同じころ、同じ日本画科に森口がいた。

「日本画アヴァンギャルド KYOTO 1948-1970」展 ケラ美術協会のパートの作品

森口はケラの会員ではない。ここで問題にしたいのも、ケラから森口への直接的な影響関係ではない。注目したいのは、ケラが活動した1959年から1964年が、森口が日本画科で学び、1963年に卒業した時期と重なることである。

同じ時代、同じ都市、同じ学校の周辺にあった造形上の問いが、その後、異なる制度へ分かれていった。

ケラの画家たちは、前衛日本画、そして現代美術の歴史へ入った。森口はパリでグラフィック・デザインを学び、帰国後に友禅へ進み、2007年には重要無形文化財「友禅」保持者、いわゆる人間国宝となった。

ところが「現代の染表現1991〜2025」の会場で、森口の《Ⅲ−1−'92》の前に立つと、この二つの道は、後世の分類が示すほど遠くは見えなかった。

四枚の矩形に、幾何学的な線とパターンが反復されている。私には硬質な抽象絵画のように映った。しかし、支持体はカンヴァスではなく雲肌麻紙、色材は泥絵具、技法欄には友禅染と記されている。

人間国宝の作品が、私には会場でもっともモダニズム的な一点に見えた。

この逆説から、本展を考えてみたい。


第一章 一本ではなかった近代

近代日本の「美術」は、作品とともに制度としてつくられた。

1907年に始まった文部省美術展覧会、いわゆる文展は、日本画、洋画、彫刻という部門を立てた。個人名を持つ作品を公募し、審査し、同じ会場で比較する。学校、展覧会、美術館、審査、受賞、ジャンル分類という制度は、西洋近代の「美術」を参照しながら整えられていった。1927年には工芸美術が加わり、1948年には書が加わる。

もちろん、日本画の内容まで単純に西洋化したわけではない。

「日本画」という名称そのものが、西洋画との対比のなかで生まれた近代的な分類であり、その内部では在来絵画、中国絵画、西洋絵画が複雑に交渉している。それでも、何を作品と呼び、誰を作者とし、どのように公に評価するかという中心的な器が、西洋由来の美術制度を軸に組み立てられたことは動かない。

しかし、すべての分野がその器に同じ内容を入れたわけではなかった。

書が、そのことをよく示している。


第二章 書がつくった、中国経由の近代

書もまた、団体、公募、審査、入選、受賞、壁面展示という近代的な制度を発達させた。戦後の1948年には日展の一部門となり、絵画、彫刻、工芸と同じ公募展の空間へ入っている。

だが、少なくとも漢字書を中心とする明治書壇の重要な潮流が、造形上の権威として仰いだ先は、西洋絵画ではなかった。

中国古典である。

しかも、それは前近代の伝統をそのまま保存したという話ではない。

1880年に来日した清の学者・楊守敬は、金石学に通じ、日下部鳴鶴らとの交流を通して、清朝後期の碑学や碑版法帖を日本へ伝えた。その来日は、明治書壇が自らの規範を組み替える大きな契機になった。

近代日本の書は、古い中国を変わらず保持したのではない。同時代の中国を経由して中国古典を再発見し、新しい書壇の権威として再編したのである。

大胆に図式化すれば、制度は西洋化し、造形上の規範は近代中国を経由して組み替えられた。その意味で、近代の書は一種の「再中国化」を遂げたともいえる。

作品は床の間や書斎を離れ、展覧会場の壁へ移った。巨大化し、額装され、審査され、他作品と比較される。その形式は近代美術展のものである。一方で、臨書の対象、書体の権威、筆法の系譜は、中国の碑帖や古典によって組織された。

ここには、日本美術の近代化を「西洋化」という一語では説明できない、不思議なねじれがある。

書は近代化から取り残されたのではない。西洋的な制度のなかへ、中国を経由した別の時間を持ち込むことで、書独自の近代をつくったのである。

では、染色はどうだったのか。


第三章 染色が抱えた二つの制度

近世までの染色は、基本的には衣服、身分、産地、分業、注文主と結びついた制作体系であり、近代的な意味での個人作家による自律した作品とは異なる回路にあった。

友禅、型染、絞りといった技法は、個人の自由な造形手段である以前に、用途、素材、職人の分業、地域産業、着用する身体と結びついていた。

近代になると、染色は「作品」として展覧会へ入っていく。

1927年の帝展美術工芸部の設置は、染色が作者名を持つ作品として、公的に審査・評価される制度的基盤を本格化させた。染色作品は展覧会へ出品され、作者の創作として選ばれ、他作品と比較されるようになる。

一方、戦後には文化財保護制度が、染色を別の角度から制度化した。

そこで認定されるのは、完成した作品だけではない。友禅、型染、紬織といった「わざ」を高度に体得し、次代へ伝える身体である。

人間国宝という通称が示しているのは、個人作家への栄誉であると同時に、技術を保存し伝承する身体を、国家が制度化したという事実でもある。

染色はここで、二つの制度を同時に生きることになった。

一つは、作者名、作品、展覧会、審査、受賞という近代美術の制度である。もう一つは、素材、工程、熟練、伝承、保持者という文化財保護の制度である。

絵画では、原則として完成した作品が歴史記述の中心になる。それに対して染色では、作品と同時に、それを可能にした技法の身体が価値の根拠となる。

森口邦彦が、幾何学的でモダニズム的な造形を追究しながら、人間国宝でもあるという事実は、この二重性を体現している。

彼の仕事は、伝統と現代の「中間」にあるのではない。

グラフィック・デザインの思考、個人作家としての創作、友禅の技法、文化財保護制度が、一人の作家のなかで同時に作動しているのである。


第四章 集まりが、歴史の名前を決める

ここで、もう一度ケラ美術協会へ戻りたい。

ケラは日本画の制度を批判し、異素材を導入し、画壇の因襲を壊そうとした。その作品は後に「前衛日本画」や「現代美術」の文脈で歴史化された。

森口は日本画科を卒業し、パリでデザインを学んだのち、友禅へ進んだ。彼の作品もまた、幾何学、反復、平面構成、東洋と西洋の交差という、戦後美術やデザインに共通する問題を扱っている。

それでも森口は、ケラとは別の歴史へ入った。日本伝統工芸展、染織、友禅、重要無形文化財。両者の造形が同じだと言いたいのではない。制作の目的も、素材への態度も、発表の場も異なる。

ただ、何が「前衛」と呼ばれ、何が「伝統」と呼ばれるかは、作品の見た目だけでは決まらない。

どの団体に属したか。どの展覧会へ出したか。誰が審査したか。どの美術館が収蔵したか。どの図録に記録され、どの分野の研究者が論じたか。

集まりが、作品の歴史上の名前を決める。

同じ学校、同じ都市、同じ時代に近接していた人々が、一方は現代美術史へ、もう一方は工芸史と文化財史へ分けられた。人間国宝とケラの距離は、造形上の距離であると同時に、制度によってつくられた距離でもある。

「現代の染表現1991〜2025」の面白さは、この分離が一時的にほどけるところにある。

人間国宝の幾何学的抽象が、写真技法による染色、巨大な掛布、半立体、異素材による作品と、同じ三十五年の歴史のなかへ置かれている。

前衛と伝統が「再会」するのではない。もともと同じ時代を生きていた二つの世界が、同じ壁面で隣り合うのである。


第五章 1991年、染色が自分の制度をつくる

染・清流展の母体である清流会は、1990年に発足した。翌1991年、京都市美術館で第1回展が開かれている。

特徴は、特定の会派による展覧会ではなかったことにある。

第1回展には、日展、新制作、モダンアート、伝統工芸、新匠工芸会など、互いに異なる発表制度を背景に持つ作家と、無所属の作家を合わせた三十人が集められた。当時、距離のあった会派を横断すること自体が、きわめて稀有な出来事だった。

しかも目的は、一過性の展示ではない。

優れた出品作を買い上げ、コレクションを形成し、それを核に染色専門美術館を京都につくる。この構想は、2006年の染・清流館開館として実現した。展覧会は2007年から同館を会場とする隔年開催へ移行し、2025年に第25回を数えた。今回の回顧展は、その三十五年を主要作品約九十点で振り返るものである。

選抜展を開き、作品を買い上げ、保存する。そのコレクションをもとに専門館を設立し、若手を発掘し、蓄積した作品によって自らの歴史を語る。

これは、近代美術の世界が行ってきたこととよく似ている。

ただし染色は、既存の現代美術館へ吸収されたのではない。染色の側が、自ら選抜展を開き、作品を収集し、専門館をつくった。

染・清流展は、染色が現代美術に参加するための入口ではなかった。染色が独自の美術制度を形成した出来事だったのである。

もちろん、この三十五年が現代染色のすべてではない。選抜展である以上、何を選び、何を買い上げ、何を残したかによって、歴史の輪郭は変わる。本展は現代染色の中立的な通史ではなく、染・清流展という制度が、自ら選んだ作品によって描いた自己像でもある。

しかし、だから価値が低いのではない。一つの文化組織が、選抜、買上げ、収蔵、専門館設立、世代交代までを一貫して担い、独自の歴史をつくった。その事実自体が、日本の美術制度史のなかで注目されるべきである。


第六章 現代美術と同じ時代を、別の場所で

会場を年代順に歩くと、染色が現代美術と同じ問題を、別の制度のなかで扱ってきたことが見えてくる。

抽象化、コラージュ、支持体の解体、写真、巨大化、立体化、空間化、社会的主題。

山口通恵《ギャラクシー930327》は、1993年の時点で木綿布にサイアノタイプ——文字どおりの写真技法——を用いている。約三十年後、室田泉《Street Material 1.2》も麻布にサイアノタイプを使った。

山口通恵《ギャラクシー930327》

加賀城健《20メートルのストローク》は、全長二十一メートルに及ぶ二本の布を空間へ垂らす。三橋遵《水のテーブル》は、絹に木、真鍮、石を組み合わせる。山下茜里《息ができない》は、技法こそ蠟染だが、主題の切実さにおいて同時代の美術と地続きに見える。

加賀城健《20メートルのストローク》

これらを見て、「染色も現代美術になった」と言うのは簡単だ。

しかし、その言い方には、現代美術を中心に置き、染色が後からそこへ近づいたという含みがある。

実際には、染色は別の制度と集団のなかで、現代美術と同じ時代を生きていたのではないか。

写真が美術の問題になったとき、染色のなかにも感光による像があった。作品が壁面を離れ、空間へ出たとき、布もまた垂れ、重なり、立ち上がった。戦争、災害、身体、記憶が現代美術の主題になったとき、染色作品もまた、それらの問題を扱った。

同じことを、同じ方法で行ったのではない。染色には、染色の身体があった。蠟を置く。糊で塞ぐ。浸す。洗う。ほどく。縫う。重ねる。転写する。染料を繊維へ入れ、ある場所には入れず、時間をかけて像を立ち上げる。

染色は現代美術を模倣したのではない。現代という同じ時間を、別の身体によって通過したのである。


第七章 会場で私は、絵画の言葉ばかり使っていた

ところが会場で、私自身はこの並行世界をうまく見ることができていなかった。

メモを見返すと、髙谷光雄《ノア》には「戦争画みたいだ」、本田昌史《Savant Syndrome HD》には「祭壇画?」、鳥羽美花《かげろう》には「ナビ派みたい。全然違うかもしれないが、賀門利誓《Portrait of family》には「東京都写真美術館で見る写真みたいだ」と書いている。

「なんだこれは、抽象画か」という走り書きも残っていた。どの連想も、完全な間違いではない。

《ノア》は、黄一色の地に黒い船を大きく置く。船体は闇のような黒い塊で、艤装は針金のように細く、船の下には輪郭だけの四角形が沈んでいく。箱舟の主題に避難や破局の気配を感じ、私は「戦争画みたいだ」と書いた。

髙谷光雄《ノア》

《Savant Syndrome HD》では、金地の横長画面が左右に置かれ、中央の縦長画面から人体が半ば立体となってせり出している。左右対称の配置、金地、中央の身体。三連祭壇画を連想することは、不自然ではない。

本田昌史《Savant Syndrome HD》

だが、キャプションを読むと、連想は途中で滑り落ちる。

《ノア》の支持体は信州紬で、あの重い黒は酸性染料と三度黒を用いた蠟纈染によるものだ。

《Savant Syndrome HD》の素材は、雲肌麻紙、うす美濃紙、洋金箔、ポリエステル布、木綿布、顔料であり、スクリーンプリントと熱転写が組み合わされている。祭壇画という言葉は構図には届いても、作品を成立させている物質と工程を説明できない。

《Portrait of family》を現代的な写真だと思ったのも同じである。

賀門利誓《Portrait of family》

技法欄には「layered dye on tulle」とある。像は一枚の布に印刷されたものではない。染めたチュールを重ねることで、家族写真のような像が濃度を得ている。写真に見えたものは、一枚の表面ではなく、複数の薄い膜の重なりだった。

鳥羽美花《かげろう》には、「ナビ派みたい。全然違うかもしれないが」と書いていた。黄色、青、赤の色面を、黒い線が都市の路地や線路のように縫っていく。遠近を示しながらも、画面全体は一枚の装飾面として強く立ち上がっている。その平面性から出た連想だったのだと思う。

だが、支持体は白山紬、技法は型染である。私は完成した画面を絵画史の様式へ結びつける一方で、型染という工程によって、この都市の密度がどのように布の上へ組み立てられたのかを見ていなかった。

私の比喩は、作品が「何に見えるか」については半分ほど当たっていた。しかし、その像が、どのような身体と工程から生まれたのかというところで、ことごとく外れていた。

そして重要なのは、この失敗が私の無知だけの産物ではないことだ。作品が、絵画の場所に立っていたからでもある。


第八章 絵画の場所を得たこと、その代償

京都市京セラ美術館、本館北回廊二階。

白い壁と磨かれた木の床が奥へ伸び、両側に大きな矩形の作品が並ぶ。入口から見通せば、戦後絵画の回顧展のようにも見える。作品は白壁へ正対し、一つの面を正面として鑑賞される。

この正面性は、染・清流展が三十五年にわたって反復し、染色のために確保してきた成果である。

着物の意匠や職人技の見本としてではなく、一人の作家による自律した作品として、美術館の壁に掛かること。染・清流展は、その場所を染色のためにつくってきた。

だから観客は、絵画を見るように染色を見る。戦争画、祭壇画、ナビ派、写真、抽象画。

それは私の見方の失敗であると同時に、染・清流展の制度的な成功の帰結でもあった。染色が絵画と同じ壁面を得たからこそ、観客は絵画史の言葉で染色を見るようになる。

だが、作品へ近づけば、別の身体が現れる。

布の端がわずかに反っている。縫い目がある。糸が盛り上がる。光の角度によって色が変わる。板のように閉じられた画面ではなく、垂れ、透け、重なる面がある。

遠くからは絵画に見え、近くでは布に戻る。

森口の幾何学が友禅であることも、髙谷の黒い船が信州紬に染められていることも、この二重性のなかにある。染色は、絵画の場所を、絵画ではない身体で通り抜けてきた。

そのうえで、ひとつだけ不満を言いたい。裏を見せてほしかった。

裏側に作品の「真実」があるという意味ではない。染料はどこまで繊維へ入っているのか。防染された部分は、裏側ではどのように見えるのか。表と裏で色の強さはどれほど違うのか。顔料、箔、熱転写による像は、支持体のどこまで入り、どこで止まっているのか。

その違いを、自分の目で確かめたかったのである。

染・清流館の初代館長を務めた木村重信は、欧米の「サーフェス・デザイン」という語では染色を十分に捉えられないと述べた。染色は、表面に意匠を置くだけでなく、色が布や紙の内部へ入っていく営みだからだという。

木村の言葉を手がかりにするなら、表と裏の差は、色が支持体のどこまで入り、どこで止まったのかを考える具体的な手がかりになる。

絵画の展示では通常、作品の裏面は鑑賞の対象にならない。しかし染色では、表と裏の違いそのものが、技法を語りうる。

もちろん、すべての作品を両面展示することはできない。裏打ちされた作品もあり、保存上の問題もある。現代染色には、染料の浸透だけでなく、顔料の付着、箔、転写、接着、縫製、異素材との組合せもある。

だからこそ、数点でよかった。色が繊維の奥まで入る作品。表面に像が定着する作品。複数の膜を重ねることで像が現れる作品。それらを壁から離し、裏面写真や鏡、試染布、工程布とともに見せる。

そうすれば、蠟纈、型染、捺染、転写という技法名は、キャプションに書かれた知識ではなく、見る経験になったはずだ。

本展は、染・清流展の制度史をデジタル解説によって丁寧に語っていた。一方で、技法の身体が、完成作品のどこに残っているのかを確かめる手がかりは少なかった。

それは、染色を技法見本から解放し、美術作品として正面に立たせたことの代償でもある。絵画の場所を得るために見えにくくなったものを、次の展示はどのように見せるのか。

「裏を見たい」という不満は、単なる鑑賞上の要望ではない。染色がつくった別の近代を、絵画の正面性だけに回収させないための要求なのである。


結章 もう一つの美術史として

日本の近代美術は、一つの速度、一つの方向で進んだのではなかった。

国家が整えた学校、展覧会、美術館という制度のなかで、日本画や洋画は西洋美術との交渉を続けた。

書は、公募展と壁面展示という近代的な形式を使いながら、楊守敬がもたらした清朝碑学を通して、造形上の規範を中国古典によって再編した。

染色は、作者名を持つ作品として美術展へ入りながら、友禅、型染、蠟纈、絞りという技法の身体と、重要無形文化財という制度を内部に抱えた。

そして1991年、染・清流展は、会派ごとに分かれていた作家を集め、作品を買い上げ、コレクションを形成し、専門美術館を成立させた。

これらは、近代化の遅れや不徹底ではない。同じ近代的な器を使いながら、それぞれ異なる過去と権威を組み込んだ、複数の近代である。

森口邦彦とケラ美術協会は、その分岐を鮮やかに示している。

同じ京都市立美術大学日本画科の周辺、ほぼ同じ時代。一方は日本画の制度を壊し、前衛美術史のなかへ入った。もう一方は友禅へ進み、人間国宝となった。

だが、《Ⅲ−1−'92》の前に立つと、「前衛」と「伝統」という二つの言葉は、造形そのものの違いである以上に、所属した集まりと制度が事後的に与えた名前のように見えてくる。

会場へ入ったとき、私が作品へ投げかけていた問いは、「これは何の絵に似ているのか」だった。

会場を出たあと、問いは変わった。どの集団がこの作品を選び、どの制度が価値を与え、どの技法の身体がこの像を生み、どの歴史がここまで運んできたのか。

染色は、現代美術の外側で遅れていたのではない。別の集まり、別の制度、別の身体を持って、同じ時代を走っていた。

「現代の染表現1991〜2025」は、その並行してきた時間が、一つの展示室で交差した展覧会だった。そこに見えたのは、現代美術の周縁ではない。別の制度と身体がつくった、もう一つの日本美術史である。


展覧会情報
現代の染表現1991~2025─染・清流展25回の軌跡─
会期:2026年7月7日(火)~7月20日(月・祝)
会場:京都市京セラ美術館 本館 北回廊2階
開館時間:10:00~18:00
※最終日は17:00まで。最終入場は閉場30分前まで
休館日:7月13日(月)
観覧料:一般1,000円、大学・高校生500円、中学生以下無料
主催:染・清流館、京都市
後援:京都新聞


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