見出し画像

#225 気圧の谷

差し出された名刺の肩書に「気象予報士」の文字を見つけ、胸の奥に眠っていた古い記憶が、意識の最前面に躍り出てきた。

若い頃、その資格を取ろうと机に向かっていた時期がある。参考書を買い込み、独学で数ヶ月掛けて読み進めた。だが、試験後半の実技試験の壁が想像以上に高い。そこを独学で突破するのはどうにも厳しいと感じていた。かといって、当時の自分には専門の講習に通うような金銭的余裕もない。結局、挫折というよりは諦めるような格好で、本を閉じた。

経済的な理由をつけて、困難から「逃げた」のかもしれない。


昨日の朝、家を出ると前日とは打って変わって、強い風が吹いていた。暑さそのものは大きく変わらない。風が吹くのは、大気のどこかに気圧の差が存在している証拠だ。

気象庁のウェブサイトで最新の天気図を開いてみると、案の定、関東のすぐ上に「気圧の谷」が差し掛かっていた。前日まではあれほど太平洋高気圧が張り出して、真夏らしい青空を広げていたのに、その勢いに北からの気流が少しだけ割って入ってきた。苛烈で圧倒的な夏に差し込んだ、小さな揺らぎだ。

見上げれば、夏真っ盛りな真っ青な空ではなく、全体がどこかうっすらと白い。これもまた、気圧の谷の周辺で上昇気流が生じ、上空で微細な雲が広がり始めているからだろう。

あのとき途中で投げ出した勉強は、決して無駄ではなかったのだ。目に見えない大気の状態を解釈し、いま目の前にある風景の裏側を少しだけ読み解く視点として、ちゃんと自分の中に残っている。

あれから約20年が過ぎ、自分を取り巻く環境も立場もすっかり変わった。若い頃には無かった「お金」は多少できたが、その引き換えに「時間」を失った。かつてのように休日を潰して勉強漬けになるような余裕も体力も、いまの自分にはない。

しかし、学びの環境もまた劇的に変わった。高額な教材を買ったり、わざわざ対面の教室に通ったりせずとも、手元にはどんな疑問にも即座に付き合ってくれる生成AIという相棒がいる。独学の「壁」を乗り越えるためのツールは、20年前とは比べものにならないほど進化している。

歳を重ねるにつれ、脳は少しずつ硬くなり、新しい領域に踏み出すことが怖くなる。けれど、朝の風を感じて天気を読み解けたように、知ることはいつだって面白く、日常の解像度を上げてくれる。

萎縮しかけている自分の脳に抗って、考えてみようじゃないか。あのときの本を、また開いてみるか。たしか、娘の部屋の本棚の隅にある。

逃げたのではなく、休んでいただけだと内心で強がっている自分が、自分らしいなと苦笑する。そして、気象予報士の名刺の持ち主に「すごいですね」と声を掛けた。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集