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価値は、金額ではない

価値は、金額ではない
           八本正幸

 我ながら、金銭感覚に疎いと思う。
 たとえば本を買う。その代金を支払う。財布にどれくらい入ってて、これを買うといくらくらい残るかということくらいは、計算出来る。だけど、後で友人などから「その本いくらだった?」と訊かれると、上手く答えられない。値段の記憶が抜け落ちているのである。ブックカバーを外して、記載されている値段を確認しなければならない。まあ、特別高かった本などは、高かったという記憶くらいはあるけれども……。
 つまるところ、僕にとって本というのは、その内容の充実度であり、あるいは、装丁や挿絵や本文のレイアウトの美しさや、手触りやインクの匂いや、個人的な読後感などであり、そこには価格という概念が含まれていないということになる。
 これは、本に限らず、ラーメンや電化製品や衣類や日用雑貨でも同じで、お金のことは、支払うまでは考えるけれど、支払ってしまえばもう、関心の外になるということだ。
 もちろん、買い物で失敗したことは少なからずあるし、その口惜しさはいつまでも記憶に残るけれど、そこでもやはり、明確な金額は曖昧になってしまう。
 こんなんで、よく生きて来れたなと思うが、要するに、金の苦労をしていないという事なのだろう。
 だからといって、決して裕福なわけではない。子供の頃は、どちらかというと貧乏な家庭で育った。小学生の頃に、父親が病気で入院し、母親が働いて僕を育ててくれた。小遣いはもらっていたけれど、同い年の友人たちから較べると少額だった。その小遣いをやりくりして、プラモデルを買ったり、マンガ本を買ったりしていた。もっと小遣いが欲しいと思ったけれど、友だちをうらやましいと思ったことはない。買えないものは、絵に描いたり、粘土で作ったりして、赤毛のアンとはちょっと違うかも知れないけど、空想の翼を広げて遊んでいた。
 もちろん、世の中のほとんどのことにはお金がいる。
 病気やケガで医療機関のお世話になることもあれば、薬だってタダじゃない。今はもう辞めているけれど、タバコを吸っていた頃は、文字通りお金を灰にしていたことになる。生きるということは、ただそれだけで金のかかることなのだなぁと、しみじみ思う。
 なので、決してお金を粗末にしているわけではない。
 クレジットカードを持たないのは、金銭を単なる数字という抽象概念で捉えていると、リアリティを失うと思うからだ。そのことで損をしていることもあるだろうけれど、それは仕方ない。
『開運!なんでも鑑定団』というテレビ番組をよく観るのだけれど、時々虚しい気持ちになることがある。出品者やその家族が、鑑定結果の金額にしか興味がないことが、ありありと見て取れることがあるからだ。
 金額は、その美術品や記念品の価値を可視化するための物差しのひとつでしかない。たとえそれが金額的には無価値に等しいものだったとしても、それと出会い、一緒に過ごした時間や感動は、帳消しにはならないはずだと、僕は思う。
 誰だって、大切な思い出に、他人から値段を付けられたくはないでしょ?
 だから、これもテレビ番組の話になるけれど『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』という番組で、葛飾北斎を敬愛する少年博士ちゃんが、海外の研究者の所有する貴重な北斎作品を観せてもらって感動している時、番組スタッフが、オークションに出したらどれくらいの値段が付くだろうかと質問したことに対し、二人同時に「金額じゃないです!」と、きっぱりと言い切ったのを観て、胸のすく想いがしたものだ。
 と、まあ、ある種の人たちからしたら呑気なことを言っていると顰蹙を買いそうだけれど、これから本格的な老後に突入して、一円の金にも困る窮乏生活を送ることになるのかも知れないし、予期せぬ大規模な自然災害に襲われて、住む家すら失って路頭に迷うことになるのかも知れない。路傍でホームレスの人たちを見ると、いつかはああなるかも知れない自分を想像することもある。
 だけど、悲観ばかりしているわけには行かない。痛みも悲しみを含めて、どんなふうに死ぬのだろうと、最近ではちょっと楽しみにしている。生まれ方が選べないのと同様に、死に方は選べないからね。自殺にしたって、状況に追い詰められてそうならざるを得なかったわけでしょ?
 たとえどんな死に方をしたとしても、僕が生きて来た時間を、金額に換算されたくはないなと、そう思うんだ。
                               了

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