AIラベルって強い。仕事で「AIを使いました」と書くと評価が下がる。
部下のレポートを読む。
内容に大きな問題はない。
むしろ、よくまとまっている。
でも最後に一行だけ、こう書いてある。
「AIを利用して要約しました」
その瞬間、読む側の目つきが少し変わることがある。
おそらく、ここで動いているのはレポートの質だけではなく、
この人はどんなふうに仕事をしたのか。
どこまでを自分でやり、どこからを道具に任せたのか。
そういう、人についての見え方まで少し揺れている。
これは、感覚だけの話ではなくて、
2025年の学術誌PNAS掲載論文では、職場でAIを使ったことを開示した人が、そうでない人より「怠惰」「能力が低い」「意欲が低い」と見られやすい傾向が報告されている。
気になるのは、AIそのものの善し悪しというより、
「AIを使った」と聞いた人が何を連想するかということ。
仕事の評価は、成果物だけでは終わらない
仕事の評価は、まずは成果物に向かう。
使えるか、内容に破綻がないか、条件を満たしているか。
まずはそこが見られる。
でも実際には、それだけでは終わらなくて、
成果物を見ているつもりでも、その向こうの人まで一緒に見る。
どんなふうに仕事をしたのか、どこまで信用していいのか、そんな推定まで入り込む。
AIの利用は、その推定を妙に動かしやすい。
「AIを使った」
「少し近道をした」
「どこまでが本人の能力なのか分からない」
そんな連想が走る。
もちろん現実には、そんなに単純ではない。
AIに雑に投げて終わる人もいれば、下調べやたたき台として使って、
そのあと自分でかなり詰める人もいる。
同じ「使った」でも中身はずいぶん違う。
それでも、評価する側に最初に見えるのは、
その細かい差ではなく「使った」という事実。
すると、その人の仕事ぶりや能力まで、少しまとめて読まれてしまう。
「AIを使った」が、使った人の評価にまで及ぶ
問題は、ここで動いているのは、
成果物だけではなく、その作成者への評価でもあるということ。
同じレポートでも、同じ提案書でも、
AIを使ったという一言があるだけで、
怠けたのではないか、意欲が薄いのではないか、といった印象が混ざりやすい。
その結果、「今後、仕事を任せにくい人」だと見られることもある。
本来、透明に書くことは誠実さのはずなのに、
AIの話になると、その正直さがそのまま信頼につながらないことがある。
ここには少しいやなところがある。
しかも、この見え方は一様ではない。
評価する側によっても、少し変わる。
自分でもAIを使う人は、それをそこまで強く「怠惰」と結びつけない。
あまり使わない人ほど、「普通の道具」ではなく「抜け道」として見やすい。
つまり、ここで測られているのは、評価される側の能力だけではなくて、
評価する側がAIをどう見ているかも、かなり混ざっている。
何を評価しているのかが、少し揺れている
これは、AIを使うのはズルか、という単純な話ではない。
気になるのは、私たちが今、何を能力として見ているのか、ということ。
労力なのか、完成品の質なのか。
それとも、道具をどう使ったかまで含めて能力と見るのか。
そのへんが、まだ少し揺れている。
検索だって、出てきた頃はもっと「自分で調べていない」感じが強かった。
でも今は、検索したこと自体を問題にする人はあまりいない。
AIも、そのうち一部はそうなるのかもしれない。
使ったかどうかより、どう使ったかのほうが見られるようになるのだと思う。
ただ、今はまだそこまで整理されていない。
だから「AIを使った」という一行だけで、成果物とは別のところまで評価が揺れる。
AIを使ったことが問題なのか。
それとも、AIを使った人をこちらがどう見てしまうのかが問題なのか。
今のところ、気になっているのは後者のほうだ。
参考
Reif, J. A., Larrick, R. P., & Soll, J. B. (2025). Evidence of a social evaluation penalty for using AI. PNAS.
