僕が朝ご飯を食べる日
「おはよう。また、朝ご飯抜いてきたんでしょ」
駅の改札を出たところで、四つ年上の主任と出会った。直属の上司で僕の彼女でもある。
「はいこれ。少しでもお腹に入れておかないと、持たないよ」
「いつもありがと」
手渡されたエナジーゼリーをカバンに入れると、周りの人の流れに乗る。僕の前を歩く彼女の髪から、シャンプーの香りがほんのり漂ってきた。
僕はいつも、朝ご飯を食べずに、一部屋しかないおんぼろアパートを出る。
お腹が空かない訳じゃない。朝ご飯を作るのは正直面倒だけど、以前は作っていたから、料理のスキルは持っている。
ただ、朝ご飯は食べないと決めていた。
子供のころ、一日の食事の中で、朝ご飯が一番好きだった。
炊き立てのお米の匂い。アツアツの味噌汁。お母さん手作りのぬか漬け。食卓の真ん中には、竹のざるに入った取れたての茶色い生卵が載っている。実家でチャボを飼っていたから、いつでも卵は食べ放題だった。
毎朝僕と弟は、大好きな卵かけご飯にしていた。
茶碗にご飯をよそい、真ん中をすこしくぼませる。ざるから卵を取り出すと、テーブルに打ち付けて割る。平らな面で割った方が、殻が入りにくい。直接ご飯に卵を落とし、醤油をかけてかき混ぜる。
湯気が立つご飯に、黄身の甘さと醤油のしょっぱさが混ざり合って、最高のハーモニーが口の中に広がる。
弟はそこにぬか漬けを載せる。弟はぬか漬けが大好きだったが、僕はあの匂いが、どうしても好きになれなかった。
会社について、エレベーターに乗り込むと、彼女と少しだけ距離を置く。僕はカバンからエナジーゼリーを出すと、エレベーターの中で飲み干した。彼女からもらうゼリーは、僕にとって朝ご飯にはあたらないからだ。
たぶん、彼女と付き合っていることは、会社の人達は知っている。でもそのことで、何か言われたことはなかった。人事部の部長と、経理部の係長が夫婦だし、業務に支障を来さなければ、社内恋愛については寛容な会社なんだと思う。
彼女と付き合い始めたのは二年前。何も言わないけど、もうすぐ三十になる彼女は、僕との結婚を考えている気がする。付き合い始めの頃は、指輪のプレゼントを喜んでくれたけど、今は指輪はいらないと言われるからだ。それは、僕に意識させないためだと思うから。
彼女の年齢を考えたら、今すぐでなくても、僕に結婚の意思があるのか確かめたいはずだ。だけどそれすらしない。
本当は去年、彼女にプロポーズするつもりだった。そのための指輪も用意した。このことは、彼女は知らない。気がついてさえいないはずだ。
でもできなかった。
今は、プロポーズするのがいつになるのか、まったく見当がつかない。このままプロポーズしなかったら、愛想を尽かされ、他の人の所へ行ってしまうかもしれない。それは本当に嫌だし、それを考えると、いてもたってもいられなくなる。だけど、そのときは受け入れるしかないと思っている。
僕がプロポーズの段取りを考えていたとき、弟が事故にあった。今も病室で機械に繋がれている。ベッドに横たわる弟の顔は傷一つなくて、普通に寝ているようにしか見えなかった。
意識が戻るかどうかは五分五分と言われた。病院で説明を受けた両親と兄は、希望を捨てず、治療継続を決めた。僕だって、弟の意識が戻ることを望んでいる。そのために、できることなら何でもするつもりだ。
だけど僕ができることは少ない。いや、ほとんどないと言った方が正しい。
兄は六つ上で、一緒に遊んだ記憶はあまりない。その代わり、一つ下の弟のことは、生まれた時からの親友みたいに感じている。何をするのも一緒だったし、好きなことも、嫌いな物も同じだった。唯一の違いが、ぬか漬けだ。
弟が事故にあって入院していることは、彼女も知っている。弟のいる実家近くの病院へ行くため、有給申請をしたからだ。帰ってきてから、状況を説明してある。
僕が弟とどれだけ仲が良かったかも、彼女は知っていた。だから、戻ってきてからしばらくは、何かと僕のことを気遣ってくれた。
そのときに、僕が朝ごはんを食べてないことを知られた。
「朝ご飯はちゃんと食べなさいよ」
始めのころはそう言っていたけど、今は諦めてゼリーを用意するようになった。僕の頑固さを、誰よりも知っているからだろう。
週末、彼女と仕事帰りに居酒屋に寄った。
突き出しで出されたぬか漬けを、躊躇なく食べる。
「ぬか漬け食べられるようになったんだね」
「まあね」
平気な振りで答えながら、口の中にこびりつく匂いをチューハイで押し流した。弟が好きなぬか漬けが出てきたら、残さず食べる。そう決めていたからだ。
もう一つ、決めていることがある。
弟の意識が戻るまで、一日の内で一番大好きな朝ご飯を取らないこと。
目覚めた弟と一緒に、卵かけご飯を食べたいから。そのときは、ぬか漬けだって食べようと思っている。
僕は、医者でも薬剤師でも看護師でもない。民間療法も詳しくないし、体のしくみも良く分からない。弟の快復のため僕にできることは、ただ願うこと。そのために、大好きな朝ご飯を絶つことにした。
彼女には話していない。誰にも知られない方が、願いが叶う気がするから。でも、妻の作った朝ご飯を食べない夫にはなりたくない。だからプロポーズはまだできない。
朝ご飯を食べられる日を、できれば彼女が作った朝ご飯を食べられる日が一日でも早く訪れることを、僕は待ち望んでいる。
