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【小説】港区女子をやめるまでのウイスキー、主に炭酸割り


あらすじ

 港区で夜な夜なハイクラスな男性たちと華やかに遊ぶ晴島由那は、双子の妹・絵里にも再度それに参加してほしいと彼女の家を訪れる。
 その帰りにも西麻布で飲み会に参加する由那だが、楽しめずに飲み会は解散。帰路の途中で寄った自由が丘のバーで香田という40代後半の男性と出会う。
 絵里には自分を無駄遣いするなと言われる由那だが、香田とバーで会うたび、なぜか彼女は夜を彼とともに過ごそうという気持ちに駆られる。
 港区での飲み会への興味が薄れゆくなか、とうとう香田と一夜をともにした由那。翌朝彼から投げかけられた「なぜ僕のことを気にかけるのか」という問いにゆっくり時間をかけて向き合い、由那は香田との関係が恋だと気づく。


 浜松町にある妹の部屋の窓からは、東京タワーが望める。

 駅から徒歩3分、賃貸の中層階ではあるがタワマンに暮らす彼女を訪ねて、晴島由那は歩いていた。ビジネス街であるここでは少し浮くような紺色レースのオケージョンドレスに7cmのヒール。改札を出、第一京浜を歩いている時に響いていた靴の音は、マンションエントランスに入って以降は聞こえなくなっていた。

 由那と妹の絵里は瓜二つの顔をしている。一卵性双生児としてこの世に生をうけた彼女たちも、25歳になった今ではそれぞれに違う日常がある。

 「またお母さんからのお菓子? ほんと好きだよね、半月」

 鎌倉に暮らす母が由那に送ってきてくれたのは、地元の銘菓だ。幼い頃から二人が好きだったお菓子を、母は今でも何かと理由をつけて送ってくれる。

 半年前まで絵里は由那と九品仏で一緒に暮らしていた。突如として「同棲する」と言い出した絵里に置いていかれたいまでも、由那はそのマンションに一人で住んでいる。「晴島由那・絵里様」と半月の配送伝票に書かれていたため、律儀にも由那は持参したのだった。

 「まあ、美味しいしいいじゃん。亮二さんも好きでしょ?」
 「そうだけど……でも甘いものは太るから嫌だし」

 絵里が同棲し始めた相手は、内幸町のシェアオフィスに登記するベンチャー企業の社長だ。大学時代の同級生たちと始めた音声配信機器レンタルのサブスクリプション事業は、4期目の今年も順調に業績が伸びているという。

 同棲するために契約したというこのマンションは、1LDKだが45万円程度の家賃がする、と由那は不動産情報サイトで見て知っていた。大手町で高層ビルの受付嬢をする絵里の収入だけでは、とても住めそうにない。絵里の生活は、パートナーである亮二がいてこそのものだった。

 由那はそれを知っているから、絵里だけでなく亮二にも優しく接しようと心掛けている。親族も安心しているという情報は、彼にとっても好ましいものだろう。

 「で。由那が来たのは半月を置きに来ただけじゃないでしょ?」
 「……うん。本当に亮二さん、もうパーティーは開催しないの?」

 絵里と暮らし始める直前まで、亮二は自らの住むマンションで頻繁にホームパーティーを開いていた。ベンチャーの経営者仲間やモデル、大学時代の友人を集めてくる亮二と、彼らと接点を持ち、あわよくば彼らと夜を共にしたい女性を集めてくる由那と絵里。もちろんその戯れのなかで、ずっとともにありたいと思える人を見つける場合だってある。

 亮二の引っ越しと同時にパーティーの頻度が少なくなったのもそれが理由だ。人脈を無闇に広げ、毎夜ごとに遊ぶよりも絵里と一緒にいたい、と彼は望んだ。現在では彼の飲み仲間がパーティーを引き継いでいるが、中心人物だった亮二が抜けたことで、場は盛り上がりに欠けるようになってしまっている。

 「私が付き合ってる限りは、しないって。何度誘われたって答えは同じだよ」
 「そう……」
 「あ。ごめん、亮二から電話。いまマンションの下にいるって」

 荷物多いみたいだからちょっと迎えに行ってくる、と言って絵里はエントランスまで出かけてしまった。自分のものではない部屋に残された由那は、黄色いカーテンの開いた窓辺から外を見る。

 ……東京タワー。

 スカイツリーが開業した今も、港区の北東側に位置する赤い塔は、東京のシンボルでありつづける。スタートアップやシード期ベンチャーの役員たちはこぞって港区に住むことで、仕事外でもつながりを増やそうとしていた。

 そんな男たちとなら、何人とだって番になりたい。我ながらあけすけな欲望だと、由那自身も思う。絵里もその願望を持っていたはずだが、亮二と結ばれたいまでは、彼女はそのような願いを忘れてしまったかのように穏やかに暮らしている。

 窓辺を見ていた由那の後ろで人の気配がする。振り返ると亮二が立っていた。

 「あれ、こんにちは由那さん。来てたんだ」

 ゴルフバッグを抱えてリビングに入ってきた亮二は、由那に会釈する。次のビジネスステージにいる人たちと知り合うために、と最近ゴルフを始めたらしい。

 部屋のすみにバッグを置く亮二に、由那は話しかける。彼女だってもともと亮二の飲み仲間だったのだから、今も気安い関係だ。

 「亮二さん、最近ゴルフばっかりなの? パーティーも時々は……」
 「今は銀行関係の人との付き合いに時間を割きたいんだ」

 由那の声にかぶせて、亮二がそう答える。もうベンチャー同士でつるんでおままごとしている連中とは違うのだと亮二が示しているように彼女には感じられた。

 「そう……。わ、私帰るね。また来る」

 別に、大した居心地の悪さではない。大人なのだから、利害が一致しない瞬間などいくらでもある。今がたまたまそうだっただけで、それが仲違いの決定的な要因になるわけではない。

 だからマンションのエントランスを出た由那は、さほど落ち込んでいるわけではなかった。なにも彼女の人脈は亮二だけではない。

* * * * *

 浜松町の改札を通ろうかというとき、由那の電話が震えた。発信者は盾仲という男。亮二とともに飲んでいた起業家のひとりだ。

 由那が電話に出ると、盾仲は明るい声で喋る。立て板に水のように話すので、由那は彼の話を聞き流すことも多かった。

 「昨日誘ってたアレ。18時から西麻布の鉄板焼きで4人集まったわ。いい女の子いる?」
 「声かけてみます」
 「よろしく、地図送っておくわ」

 こういうときだけ盾仲は用件を手短に伝えてくる。彼にとって由那は色々な女性と知り合うためのハブでしかなかったし、由那にとっても盾仲は男性との新しい出会いを繋ぐだけの存在でしかなかった。毎回前日に飲み会の連絡があって、当日になって参加人数が確定する。由那はそれを聞いて女性を集める係だ。

 由那はまず、ハイクラスな男性との出会いを望む知り合いに声をかける。知り合いだけで足りなければさらにその知り合いへ、と範囲を広げていき、自分を含めた4人の参加者を無事に集めることができた。

 合流地点を店の近くに決めて、それを共有する。女性同士も初対面だったが、店に向かいながら自己紹介などを軽くして、狙いが被らないようお互いの好みを探り合った。

 西麻布のその店は地下にあって、一見さんお断りだ。コロナ禍でもひそかに営業を続けていたというここは、個室で酒と肉を心ゆくまで堪能することができる。

 「今日はありがとうございます〜」
 「社長さんだなんてー! お会いできてうれしいです!」
 「私ぃ、お酒弱いから酔わせないでくださいね?」

 会が始まってから、由那は自分が声をかけたのだということを棚に上げて帰りたくなった。まだお酒を飲めるようになって間もなさそうな彼女たちが、鼻にかかった猫撫で声で男性たちにボディタッチし、しなだれて甘えている。男性たちは男性たちでちやほやされるのが満更でもなさそうで、その会のあいだ、由那は俯きがちになっていた。

 「それじゃあ、お車代ありがとうございまーすっ」

 会が終わると、女性たちはそう言ってめいめいにタクシーに乗り込む。ケチな彼女たちは1メーターだけ乗って、あとは電車で帰るだろう。出会いを欲するだけでなく、もらったお車代との差額を自分たちのギャラにしようとしているのだ。

 他人の思惑や自分の作ったよそ行きの顔に疲れて、由那は九品物までタクシーで帰ることにした。

* * * * *

 がっかりするような飲み会の疲れから一瞬寝落ちてしまった由那は、ハッと目が覚めたところでタクシーを止めた。自宅に帰るつもりが、行き過ぎてしまったかもしれない。

 慌てて車から降りて、スマホでマップを開く。するとなんのことはない、彼女は家よりも手前の自由が丘でタクシーを降りてしまったようだった。

 自宅は九品仏と自由が丘のあいだだから、もう一度タクシーを拾うほどでもない。だが彼女は今日7cmのヒールを履いているのも事実で、休みつつ帰る必要がありそうだ。

 しばらく歩いて足に限界を感じた由那は、近くで営業していそうなお店に吸い込まれる。

 それは隠れ家のようなオーセンティックバーだった。木の扉を開けると、仄暗い店内からバーテンダーがアイコンタクトで着席を促される。

 由那は、酒は好きだが強いほうではないし、詳しいわけでもない。しばらく考えてから、一度気まぐれに遊んで酔いつぶされたときに飲んだカクテルを思い出し、それの低アルコール版を作ってもらおうとオーダーした。

 「すみません、ゴッドファーザーをハイボールにしてもらえませんか」

 バーテンダーは目を伏せてほんの少しだけ頷き、カクテルを作り始めた。ウイスキーとアマレットをグラスに少しずつ。ステアしてから炭酸水を注いで、もう一度バースプーンでひと回し。彼女はバーテンダーの手つきをいちいち目で追った。

 コルクのコースターに置かれて差し出されたカクテルを、由那は両手で受け取る。パチパチと弾ける炭酸から、アマレットの甘い匂いがする。

 さっそく一口含んで、鼻に抜けていく香りを楽しむ。「人生で二度目まして」の香りを堪能してから、由那は飲むペースをわざと落とした。足を休めるために入ったのだから、一杯でできるだけ長く滞在したい。

 グラスの半分くらい飲んだころ、店の扉が開く。細身で長身の男性が入ってきて、由那の隣に座った。

 「アドニスを」
 「かしこまりました」

 男は40代後半といったところか、ハリ感のあるスーツを美しく着こなしている。おそらくオーダーで作ったと思われる上着は、細身だが腰にくびれをあえて作らず、スタイリッシュさよりも地道さを彼女に印象づけてくる。

 スーツの手首からのぞく腕時計について、由那は詳しくない。詳しくないが、エルメスのアップルウォッチと同じくらいか、それより安いだろうとなんとなく思った。あまりじろじろ見てはいけないとわかりつつ密かに目配せしていたつもりだが、それは彼にはお見通しだったようだ。

 「あの。失礼ですが、それは何を飲んでいるのですか? いい香りがする」

 視線に気まずさを覚えたのか、男が由那に話しかけてくる。由那が男をしっかり見られるようにキッカケを作ってくれたのかと彼女は思ったが、彼は本当にただ酒に興味があるようだった。

 「ゴッドファーザーを炭酸で割ってもらいました」
 「ふむ。美味しそうです。今度やってみますね」

 そのタイミングで、バーテンダーがアドニスを男の前に出す。男はうっとりとそれを眺めてから、一口味を確かめるように嚥下した。

 「アドニスってなんですか? お兄……さんの飲んでいるそれ、バーに来たら最初はそういうのがいいんでしょうか」

 男は若そうにも見えるが、年を重ねているようにも見える。由那の気遣いを聞いて、男は肩をすくめて笑った。

 「おじさんですよ、僕は。香田といいます。お好きなものを飲むのがいいと思いますが……初めて訪れたバーでは、僕はアドニスを頼むことにしているんです。バーテンダーの力量が分かりますからね」
 「そういうものなんですか」
 「ショートカクテルが好きな人はマティーニでバーの実力を試します。ですが僕は……おっと。女性に、得意になって喋りすぎました」

 喋るのをやめてアドニスに口をつけた香田の手を、由那はまじまじと見つめた。その手は堂々と見られるようになったが、彼はやはり視線を心地いいとは思っていないのかもしれない。彼は体を傾けて、由那に顔を向ける。

 「……どうかしましたか?」
 「いえ、教えたがったりとか、しないんだ……と思いまして」

 女性を未熟な存在とみなして、何かを教えるのを好む男性は多い。由那も初めて会う男性たちによく色々なことを教授されていた。そのたびに彼女はさほどの興味もなく、「そうなんですね」「すごいです」と繰り返す。

 だが目の前の、香田と名乗る男はどうだ。喋りすぎてしまったと言い、口寂しさを酒で塞いでいる。女に深入りしようとしないのは、よほど律儀な性格か、あるいは女に騙されたことがあるかのきっとどちらかだろうと由那は考えた。

 今日は何の収穫もなかったしな、と彼女はグラスを傾け唇に当てた。この人でも一晩くらい悪くないかもしれないし、と思いながら彼女は一度席を立ち、お手洗いで口紅を塗り直して席に戻ってきた。

* * * * *

 戯れに抱かれるのもいいと思っていた。それなのに、由那の誘いは彼にあっさり躱されてしまった。

 「あなたほどの女性が、僕みたいなおじさんと一緒じゃ満足しないでしょう。がっかりさせたくない」

 由那は不思議と、断られているのに嫌な気分がしなかった。それどころか、いつの間にか由那のカクテルまで一緒にチェックしてくれていて驚かされる。

 疲れの癒えた足で店の外に出て、彼女は香田に礼を言うことにした。

 「あの、色々とありがとうございます。それで……」
 「お礼など、本当に気にしなくていいですからね」
 「でも」
 「うーん。そうですね……もし気に病んでしまうなら……」

 香田がスーツの内ポケットから小さな革の入れものを取り出す。その中から名刺を一枚出して、由那に渡した。

 「よかったらまた飲みましょう。ここに連絡をいただければ」

 パンテーラと書かれた下に、香田という名前と次長職であること、電話番号、メールアドレスの記載がある。パンテーラは雰囲気の堅そうな外資のサニタリー用品メーカーだが、社用の名刺を私的に使っていいのだろうか。

 その疑問が顔に出ていたのか、香田がふたたび肩を丸めて笑った。

 「メールアドレスが二つ書いてあるでしょう? 下の方は私用ですので」

 気をつけて帰ってくださいね、と言って香田は自由が丘駅方面に歩いていく。その背中を見送りながら、由那はしばらくそこでヒール靴のつまさきに再びかかりはじめた体重をじんわり感じていた。

* * * * *

 翌日、仕事が休みだった由那は自宅の部屋でスマホの画面を見つめていた。

 連絡を取りたいと思った相手は香田ではない。絵里に昨日の話を聞いてもらいたいと考えていたのだ。

 絵里の仕事の昼休みであり、かつお昼ご飯も食べ終わったであろう12時半を狙って、まずは1通メッセージを贈る。

 「昨日面白いことがあったんだけど」

 即レスで絵里から「どういうこと」と来たので、由那は電話をかける。2コール目が鳴り始めたところで、自分と同じ声の応答が電話のむこうからあった。

 「それがさ、昨日の西麻布の鉄板焼きが全然面白くなくて」
 「それって前フリ? 本題に早く入っていいよ」
 「あー……うん。そうだね。自由が丘のバーにひとりで寄ったら、面白いイケおじがいたの」

 昨日の出来事を話すと、絵里は電話越しに大きなため息をついた。

 「由那それ、からかわれたんだよ」
 「からかわれた?」

 双子の姉が誘いを断られ恥をかかされ、嫌な目に遭ったと推測した絵里が不快感をあらわにする。一方の由那はというと、ひとりにしては広い部屋のなかで手足を広げて寝そべった。由那の頭上で浜松町の部屋と同じ、黄色いカーテンが揺れている。絵里が選んだ色だ。

 「そういう感じはしなかったけどな」
 「いーや、据え膳を食わないなんて、女をバカにしすぎでしょ。私たち、まだ25なんだからさ。枯れ専でもないかぎりそういう賢ぶったおじさんに構ってる余裕はないの」
 「余裕があったらいいの?」
 「あったとしても、自分の無駄遣いはダメでしょ」

 なるほどさすが、あれだけ遊んでいたのに最後は亮二を射止めただけのことはある。昨日の夜、面白い人を見つけたと由那が感じたのは酔いと疲れが見せたまぼろしだったのかもしれない。

 「昨日、遊びたかったけど上手くいかなかったし……そろそろワンナイじゃなくて、彼氏を作ったほうがいいのかなぁ」

 由那がぽろっとこぼした言葉に、絵里は短くアハハっと笑った。

 「またうちに来なよ。仕方ないから、そのときは楽しめるようにしてあげる」

 うん、ありがとうと由那が言うと、電話が切れた。気づけば12時40分になっている。午後の業務の前に、きっと歯磨きをするのだろう。

 由那も歯磨きをするか、と体を起こした。まだ起き抜けで何も食べていないが、賢ぶったおじさんよりよほど不快な口のベトつきをどうにかしたい。ついでに香田のことはもう忘れてしまっても構わないと、彼女も気分を切り替えた。

* * * * *

 由那は、自分が女性を集めることになる日もあれば、自分が集められる側になることもある。

 3回ほど続けて由那は女性から声をかけられて、知らない男性たちとのパーティーにお呼ばれした。一度目は六本木のタワマンでのホームパーティー。外国人も混じるなか、リビングだけでなく色々な部屋を使って朝まで楽しんだ。

 二度目は広尾の寿司屋だった。これはハイクラスな男性とのひとときのお楽しみというよりほとんど合コンのようなもので、同世代の若手会社員たちとのカジュアルな飲み会だった。

 三度目は麻布十番のダイニングバーで少し落ち着きながら。華やかで心地よい空間ではあったが、帰り際に感じたのは寂しさではなくくたびれた感覚だった。

 由那は、自分がおかしくなってしまったのかもしれないと思った。港区のいろいろな街に赴き、夜な夜な経営者や芸能人の男性たちと会食する。夜が明けるまで続く宴も、一夜限りの戯れも、瞬間瞬間を全力で楽しんでいるような気がして楽しかったはずだ。

 それなのにここ最近は、何か物足りない感じがする。彼女は、とうとう自分が港区で夜遊びするキラキラした年代を通り過ぎてしまったのかと不安になった。やはり一人の彼氏を作るべきなのだろうか。

 それははっきりとした渇望感と呼ぶほどのことでもない。不安感があると言えるほどでもない。不満なわけでもない。しかし一度自分の行動に疑念を持って終えば、心がすっきりと晴れることはなくなる。由那は家に帰ってもぼんやりして、ヒール靴のブラシ掛けを怠ってしまっていた。

* * * * *

 自由が丘のあのバーを再訪したのは、それからしばらく経ったころだった。白金で気乗りしない肉フレンチに誘われて行ったものの、食事を終えてそのまま帰ることにした夜だ。

 木製の扉を開けると、そこにはあの日と同じように香田の姿があった。すっかり馴染みの客になったようで、バーテンダーと和やかに話している。

 彼は会話の途中で由那の姿に気づき、手と口角を同時に軽くあげた。彼はあの夜自分が断ったことなど、すっかり忘れてしまっているように彼女には見えた。

 「久しぶりですね」

 だから彼のその言葉を由那は気まずく思ったが、香田はまったく気にしていないようだった。遠くの席に座るのもわざとらしい気がして、由那は香田の隣の席に腰掛ける。

 「今日も飲み会の帰りですか?」
 「どうしてわかるんですか?」
 「楽しかったのに言いようのない徒労感がある──そんな感じかなと思いまして」

 由那は、香田もそういった感覚に覚えがあるのだろうかと口にしかけた。口にしかけて、それを言ってしまえば自分の今の状態を追認することになってしまうと思い黙った。

 そう考えていることすら、香田にもお見通しだったのだろう。バーテンダーに「彼女にハイボールを。薄めで」と頼んでいる。まるで「お疲れ様でした」とでもいいたげな雰囲気だ。

 目の前にハイボールがお出しされると、由那はおずおずと香田のグラスとフチを合わせてささやかに乾杯した。薄張りのガラスが重なって、店の中に高い音が反響する。小気味いいカラッとした音の余韻を聞いてから、彼がひと回ししたグラスに入っているのはギムレットだ。来たばかりなのか、それとも二杯目か三杯目なのかは分からない。

 「また飲みましょうと言っていましたしね。ご連絡先は渡しましたが、僕のほうはあなたの連絡先を知らないし」

 まあこういうものはタイミングですけれど、と言ってから、「そういえば僕、あなたの名前も知らないですね」と思い出したように言った。

 由那も自分が名乗っていなかったことに気づいて、少し間を開けてからぽつりと答える。

 「由那……です。晴島由那」
 「晴島さんですね。改めて、再会できて光栄です」

 由那が連絡をしていなかったことを、彼は彼なりに気にしていたようだった。男性はいくつになっても若い女に気にかけられたいと思うものなのだろうかと、目線を手元に落として由那は考えた。

 「会いたいと思ってくれていたんですか」

 思わず口からこぼれた疑問に、香田は鼻から吐く息とともに軽く笑った。

 「どちらかというと、心配してましたよ。軽く20歳は違いそうな女性が、浮かない顔をして一人でバーにいる。大人としては、それだけで気にしてしまうものです」

 前回このバーに来たとき、そんなに疲れた顔をしていたのだろうか……と由那は思い出そうとしていた。あまりその自覚はないが、心配をかけていたとしたら申し訳ない。

 香田はその気持ちも汲んでか、由那にこう問いかける。

 「今日こそ、素敵なかたは見つかりましたか?」
 「あ……いえ。なかなかうまくいかないものですね」

 あの日も今日もデートで着るようなオケージョンドレスを着ている。あの日気軽に誘ってしまったことと合わせて考えれば、彼はきっと自分が港区で派手に遊び回っていることもお見通しなのだろう、と由那は目を伏せた。それが恥ずかしいことだとはまったく思ったことがないし、どちらかといえば勝ち組の象徴のように自分では思っていた。だが、それは香田のような男性の前ではなんの意味もないことだろうとも彼女は薄々気づいている。彼は経営者ではないものの、安定と品があった。

 「私、頑張りすぎなんでしょうか」

 由那がそう口から漏らしていた理由は、彼女自身にも分からない。分からないが、自分の空回り感を香田に尋ねてみたくてそう言っていた。彼に期待している答えは正直、彼女自身自覚できていない。

 「うーん。自分に合う人を探して頑張って行動できるのは、若い人の特権ですからね。悪いことでは決してないですよ」
 「……香田さんから見れば私は子供っぽく思えるのでしょうか」

 その問いには、香田が「そうじゃないですよ」と答える。

 「東京は都市全体が社交場ですからね。男性も女性も、昼夜を問わず、仕事かプライベートかも問わず、絶えず自分に合う人を探している。よりよい自分になるのを求めて」
 「でもそれは、若い人の特権なんですか?」
 「若い人、というのは語弊があったかもしれませんね。ギラギラしていると言い換えられるでしょうか。僕のようなおじさんは、変化や刺激で自分を高めていくよりも、凪いだ時間を欲してしまう」

 凪いだ時間というのは、このバーでのひとときのようなものだろうか。由那はそれを思ってから、香田にとって自分はいらぬ刺激なのではないかと考えた。

 「凪いだ生活の中に時折あらわれる波紋やさざなみは、かえって歓迎ですよ」
 
 香田にとって由那が悪い刺激ではなかったことに彼女は少し嬉しくなった。さざなみという言葉も、取るに足らないというよりはうるさくない存在なのだという風に捉えられる。別にそれをもって彼を異性として心から欲するほどの理由には決してならないが、他人から肯定的な評価を受ければ誰だって嬉しいものだ。だから彼女は唇をうすく開いてこう口にする。

 「香田さん、あの……」

 由那はまたほんの一瞬、バーで飲んだあとの彼の時間を手に入れようかと気持ちがうずいた。だがそれを言いかけて、自己効力感を確かめるためにそうするのも違うなと思った彼女は言葉を引っ込める。この中年男性は、「若い女に求められる男」というステータスで生きているわけではなさそうだと彼女は思い出したからだ。

 「ううん、なんでもないです」
 「そうですか」

 何を誘おうとしていたのか、きっと香田にはお見通しだっただろうと由那は思う。今度こそ恥をかきそうになっていた、と思った由那は代わりに、パーティーで初めて会った男性に渡すことにしている名刺を香田に渡した。

 「私も連絡先、お渡ししますね。遠慮せずに声かけてください」

 名刺を受け取って、香田は軽く頭を下げた。

* * * * * 

 翌週になって、絵里から由那のもとに誘いがあった。

 亮二が久しぶりに家でパーティーをしようと計画しているらしい。由那はそれを聞いて心が弾んだ。自分にぴったりの人を探し求めて行動することが悪ではないなら、このパーティーに参加することは彼女にとってチャンスだ。それが遊びでも、本気になれるものでも良い。

 浜松町にある絵里と亮二のマンションへ向かい部屋を尋ねると、リビングのローテーブルにはもうワインが並べられていた。最初に開けるつもりのカバ、それからおそらくライトボディの赤、あとは辛口の白。

 「絵里、何か手伝うことある?」
 「ううん。食事は頼んであるし。座ってて」

 促されるまま座っていると、インターホンが鳴る。配達員によって運ばれてきたオードブルの荷を解いて置くと、それはローテーブルの大部分を占領した。

 白金から取り寄せたローストビーフに、ちょっとした炭水化物として麻布のひとくち稲荷。微妙に渋いセレクトが絵里らしく、それが亮二の好みと合ったのかもしれないなと由那は感じた。

 しばらくして、男性たちが部屋を訪問する。亮二を含めて5人が来たところで、絵里が泡の瓶を開け始めた。

 「待って。これで全員?」
 「うん。女子は私たちだけ」

 絵里が気を利かせてくれたのは明白だった。男性たちは久しぶりに見る顔が多い。深い関係を築くキッカケを作ることで、絵里は遊び相手ではなく、由那に今度こそパートナーを見つけて欲しいと願っているのだろう。

 先日電話で「楽しめるようにしてあげる」というのは、こういう意味だったのかと由那は腹落ちした。妹の気遣いは心憎くも嬉しいものだ。どうせならここで自分をちゃんと見せて、誰かの目に留まればいい。遊び歩く日々は終わるかもしれないが、自分に合う誰かが見つかるならそれはそれで喜ばしいことに思える。

 ライトアップされた東京タワーを背にしながら、乾杯の軽い音が部屋に響いて、長夜の宴が始まった。亮二の集めた男性たちは雑誌モデル、自らの特許で会社を立ち上げた社長、放射線科医、外資系のコンサルだった。

 どの人も、若くして一流の世界に身を置いている人だ、と由那は思った。由那が彼らと再会して思うのは、やはり亮二が連れてきてくれる人はひとあじ違う。他の人に引き合わされる男性よりも、いつも頭一つ抜きん出た存在なのだ。

 「由那さんの職場、虎ノ門のクリニックだってこの前言ってたよね。忙しい?」
 「美容クリニックだし、日勤だけだからそれほどでも」

 放射線科医の男性がそう尋ねる。由那には、男性たちが自分に興味を持ってくれることがありがたかった。どの人も悪くない。絵里と暮らし続けている亮二には、由那がどんな男性とならうまく話せるかまで想像がつくのだろう。

 ローテーブルの背後にあるダイニングテーブルでは、絵里が亮二ともう一人、外資系コンサルの男性が談笑している。彼は亮二の学生時代の同級生なのだという。

 「ねえ絵……」

 由那は赤を開けていいか、と妹に尋ねようとした。穏やかに笑う絵里が不意に視界に入って、彼女は手に持ったワインの瓶をゆっくり下ろす。そこで由那は本当に何の前触れもなく突然に、自分が安堵していることに気づいた。

 それは単に、絵里がここにいてくれることへの安堵ではない。絵里が亮二とともに楽しそうに笑っていることが、由那にとっては嬉しいことに思えたのだ。

 ……なんか、いいや。それだけでいいかもしれない。

 由那の心の中に、その言葉が浮かんできた。席を中座し、お手洗いへ向かう。洗面台で冷たい水に手を当てながらきゅうに、今日は全てが報われたような気持ちになっていた。

 「私、変なの」

 自分と同じ顔の女が幸せそうである。自分自身が幸せであることと同じくらい、それが由那には大事に思えた。今、ここでの彼女にとって大事に思えることはそれであって、この場で自分が誰かに選ばれることではない。

 ほどよく皆が酔ったところで、パーティーはお開きになった。絵里は片付けを亮二と二人でやるからと言ったが、由那も手伝うことにする。絵里としては由那にいい感じの男性と場所を移して続きの時間を楽しんで欲しかったのだろう、と由那も分かっていた。だけど彼女はそうしなかった。

 皿をテーブルから除け、キッチンで空き瓶を洗う。絵里がワイングラスを拭きあげているのを横目に、由那はカーテンを閉めた。あんなにまばゆかった東京タワーでも、カーテンを閉めれば隠れるし、それでこのあと家主たちは心地よく眠れるだろう。

 「ありがとね、絵里」

 それから浜松町の家主に礼を告げて、由那は一人でJRの改札に入った。大井町まで京浜東北線で出て、そこから帰ろうかと考えていたが……少しだけ今の気持ちを誰かと共有したくて、彼女はスマホを開く。

 開いたのはメッセージアプリではなく、メールだった。今これを話したい相手は、彼女の中では一人に定まっていた。

 「今、お暇ですか」

 香田がメールをいつ見るかは分からない。開封確認をつけていないメールでは読んだかどうかも分からないし、それに返信するかはさらに不確定だ。話したいけど無理かもしれないと、心がピンと張り詰める。

 だが、京浜東北線を一本見送っているうちに香田からの返事があった。

 「いま赤坂にいますよ。一緒に飲みますか」

 メールに添えられていたリンクから、由那は場所を把握した。行ったことのない店ではあるものの、香田の好きそうなオーセンティックバーだと分かって、彼女はいつのまにか眉間に入っていた力を抜く。

 由那は一度上がったホームの階段を降り、別のホームへと駆け上がった。軽い足取りで階段の一番上に到着すると、ちょうど電車が滑り込んでくる。まずは有楽町へ向かい、千代田線で赤坂へ行くことにした。

* * * * *

 ビルの4階にあるバーには、エレベーターを使って上がる。エレベーターのドアが開くとすぐに薄明かりの店内へと続いていて、少し奥まったところに香田が座っていた。

 ヒール靴の音で分かったのか、由那が近づくと声をかける前に彼が振り返る。革張りの椅子に座ったまま右手をあげて、それでバーテンダーにも彼女が連れだということを示していた。

 「ご連絡ありがとうございます」

 どうしたんですか急に、とは香田は尋ねなかった。その質問がなかったことで、先日と同じように彼が心配しているし、気を遣ってくれているのだろう、と由那は察する。まずはその誤解を解かなくてはならないと彼女は考えた。

 「嫌なことがあったから連絡したんじゃないんですよ。むしろ、いい気持ちになったから香田さんに話したくなったんです」
 「ほう」

 カウンター席では正面から見つめ合うことはない。それでも香田の目尻のしわが見えたから、由那は彼が快い興味を持って話を聞こうとしていることが分かり安心した。

 「今日ね、双子の妹の家でパーティーをしていたんです」
 「双子だったんですか」

 香田がまずそこに驚く。そういえば彼にその話をしたことはない。由那は驚く香田を見て、自分たちはお互いのことをほとんど何も知らないのだと気づいた。

 複数人のパーティーで見初めてもらおうとするときよりも、さらに何も知らない間柄。それなのに、彼は由那がどんなことに憧れ、どんなことに疲れてしまうのかを知っている。

 だから双子だと知らせていなかったのは自分でも意外だったし、それすら知らないのであれば年齢や仕事についてもきっと伝えていないだろうと彼女は思い至った。

 「私たち、何も知らないのに仲良くなって」
 「仲良くなれるときって、意外とそういうものじゃないですかね」

 そういえば香田は先日、「東京は絶えず自分に合う人を探す社交場だ」といったようなことを述べていた。もしかして彼はその、気の置けない「自分に合う人」の一人になってくれるのだろうかと由那は想像した。その上で、わざと彼にこう言った。

 「だったら香田さんのこと、無理してわざわざ知ろうとしなくてもいいかな」
 「はは。言ってくださるものだ」

 声や態度から、自分がホッとしたから彼に会いたかったのだと伝わっている、という自信が由那にはあった。いたずらにお互いのことを探ろうとするより、少ない言葉数でも気持ちが汲み取れる。だから今の軽口だってきっと彼には、距離感をさらに縮める方向に作用するのだろうと彼女は確信していた。

 香田がグラスを傾ける。飲んでいるのがアドニスということは、ここはきっと今日初めてきたお店なのだろう。

 「香田さんから見て、私におすすめのカクテルってありますか?」
 「うーん。そうですね。カクテルではないけど、ウイスキーを飲んでみませんか」

 由那の質問に、香田はこう答えた。いつもハイボールで飲むウイスキーを割らずに飲むのは度数が高すぎる気がしたが、香田はストレートを試してみてほしいのだそうだ。

 「たくさん飲む必要はありません。クオーターで2、3種類ほど、味の違いを楽しんでみてほしいんです」

 ハイボールを楽しむ由那は、いわば雛鳥なのだと彼は語った。ウイスキーの世界を楽しむ入り口に立っている。もし好みに合致するウイスキーを見つけられたら、それが一つの基準となって今後お酒を選びやすくなる、と。初めて好きだと思えたウイスキーは、その人の親鳥になってくれるという表現をしていた。

 その言葉に興味を持った由那は、ほんの少量、ウイスキーを頼むことにした。だがバーに置いてあるものは種類も豊富で選びきれそうにない。彼女が助け舟を求めると、香田は「私見ですが」と前置きしてからおすすめを述べた。

 「スコッチから1種類、バーボンから1種類、ジャパニーズウイスキーから1種類選びましょう」
 「日本のって有名なんですか」
 「ええ。日本は世界有数のウイスキーの産地なんですよ」

 私、そんなことも知らなかったです、と由那は思わず口にした。これは男性をおだてるときの常套句であったが、いまの彼女はなんの計算もなく、心の底からその言葉を発していた。

 「なに、覚えていけばいいんですよ。スコッチはグレンモーレンジィが良いかと。バーボンはエライジャ・クレイグ。ジャパニーズウイスキーは知多などはどうでしょう」
 「じゃあ、それにします」

 言われるがままお願いして、由那は3つのグラスを飲み比べることにした。チェイサーをこまめに挟みながら、味の違いを確かめていく。

 「……私はグレンモーレンジィが好きかな」

 時間をかけて飲み比べ、由那が出した答えはそれだった。それを聞いて香田は静かに「よかったですね」と返す。

 「自分の好みを知っていれば、何かを選ぶときも迷いを減らせますよ。お酒に限らずね」

 自分の好みを知る。今までだって無意識に好みで何でも選んでいたのだろうが、特にここ数年は好みよりも、それを選んだあとの効用のほうに気を取られていたかもしれない、と気づいて由那は口ごもる。

 「そうなんですね……。ちなみに香田さんはどれが好きなんですか?」
 「僕の好みを参考にしてもしょうがないでしょう。ですが、僕はグレングラントというスコッチが親鳥ですね」

 彼も同じ系統のものが好きなのかと知り、由那は思わず顔をほころばせた。酔ってうるんだ由那の瞳を見た香田はすぐに目線を外し、アドニスをぐいっと飲んでバーテンダーに会計を合図する。

 「晴島さん、少し酔いましたよね。風に当たりましょうか」

 由那の返事を待たずチェックを済ませてエレベーターを呼んだ香田が、彼女を先に乗せる。1階で降りて外を歩き始めても、彼は由那と目を合わせようとしない。そればかりか、香田は足早に駅へと向かおうとする。

 それがなんとなく由那には不満だった。なぜか彼に自分の目を見てほしいと思い、由那は香田の前に立ち塞がる。ハイクラスな男性としての費用対効果は薄いと分かっているのに、彼女は自分の中の情動に任せるまま誘わざるを得なかった。

 「香田さん、私まだ帰りたくないです」
 「お戯れを……」
 「いやなの。まだ一緒にいたい」

 口を開くたびに、由那は口調まで子供っぽくなっていくような自覚があった。

 「香田さん、私のこと子供だと思ってるんでしょ」
 「違いますよ。でも僕なんかでは……」
 「なんかって言わないで! 香田さん言ってたじゃない。何も知らなくても、仲良くなれるときはなれるって。好みを知っていれば迷いが減るって!」

 やっぱり自分は子供なのかもしれないという自覚が由那にはあった。好みとは言ったものの、自分に富裕をもたらしてくれる存在という意味での好みではない。ではこの場合はつまるところ何であるのか、というのをまとめきれないまま、彼女は香田に抱きついた。

 「……あなたのせいです。あなたが基準になっちゃったから、私、飲み会が楽しくなくなっちゃった。キラキラしてる人たちなのに。いつもいつも仕事はとか、趣味はとか喋っても、心の奥のほうまで入っていけない。あなたが……なにも知らないあなたがすんなり入ってくるせいで、表面を撫でるだけじゃつまんなくなっちゃったんじゃない!」
 「それは、晴島さんは僕を……」
 「それはわかんない! 今夜はまだ一緒にいてほしい、いろんなところに触ってほしいけど、でもそれが自分にとってどういう意味なのかはわかんないです! 私にだってわかんないものを説明させようとしないで!」

 整理のつかないままノートに走り書きをするような勢いで語った由那を胸の中に感じながら、香田は鼻からゆっくりと大きな息を吐いた。それから降参したかのように彼女に返事する。

 「説明してくれとは言いません。でも僕はおじさんですよ。あなたのことを浪費していい存在では決してない。それでもお望みなのですか」

 由那が頷くと、彼は大通りにタクシーを手配した。

* * * * *

 翌朝、由那は目黒で目を覚ました。香田は、目黒駅から車で5分ほどの場所にあるマンションに住んでいた。

 誘いに一貫して消極的だった彼は夜を共にすることを迷惑がっていたのではないか、と彼女は疑っていたが──それは杞憂であったと、昨夜の彼の手つきからそう思えていた。

 スプリングの効いたベッドから身を起こし、由那はリビングダイニングに顔を見せる。するとテーブルで香田が静かにコーヒーを飲んでいた。

 「おはようございます。よく眠れましたか」
 「はい。……洗面台、お借りしていいですか」
 「どうぞ。そこを出て左です」

 洗面台で由那が顔を洗っているときも、家の中に人の気配がする。そんな朝を迎えたのは久しぶりだった。ホテルで朝を迎えることもそこそこあったが、生活感のない場所は非日常に感じられる。

 朝から誰かが自分とは違うリズムで生活している場面を感じ取れるのは、絵里と暮らしていたとき以来だ。姉妹で実家を出て、絵里が二人の部屋を出て行ってから、由那は動きのない部屋で過ごしてきた。マイペースでいられるのは心地よいが、ときおり寂しさを覚えることもある。

 顔を洗ってリビングに戻ってくると、香田が由那の分のコーヒーを用意してくれた。香田が飲むときに二杯分淹れておいたものではなく、たったいま抽出したもののようだった。

 ダイニングテーブルの席につき、由那はそれを受け取る。湯気といっしょに立ちのぼる香ばしくも甘い香りを嗅いで、彼女は大きくゆっくり息を吐いた。

 「晴島さん、きょう仕事は」
 「ありますけど、午前は休みます。家に帰ったりしたいので」

 香田の由那への言葉遣いや態度は一晩経っても変わらなかった。用心深く、でも警戒しているわけでもなく。彼の慎重さはまるで、ガラス食器がところせましと並べられた店内で、ロングコートが翻らないようにするみたいだ。由那はそれに対して何も言わなかった。昨晩この部屋に入って以降のことについてまったく話題にしようとしないのも、彼がそうしたいならそれでいい。

 「僕は出社するので、8時半ごろ家を出ますけど。一緒に出ますか」
 「どこまで行くんですか?」
 「茅場町です」
 「ふうん。今度、ご飯行きましょうか。職場がそっちのほうなら、銀座とか日比谷とか」

 一晩をともにしたのに踏み込むことを今も躊躇する香田であっても、これならば断られないだろうという自信が彼女にはあった。由那の言葉に、香田は「そうですね」と目を閉じて笑う。やはり彼は断らない。

 香田が飲み終えたコーヒーカップをシンクに置いてこう問う。

 「トーストを焼きますけど、バターとマーマレードどちらにしますか?」
 「じゃあ、マーマレードで」

 由那は朝ごはんを習慣的に抜いているが、今日は食べることにした。彼が自分の提案を断らないならば、由那も彼の提案をできるだけ断らずにいようと思ったのだ。

 トーストをかじりながら、由那は香田の皿にリサ・ラーソンの絵が描いてあることに気づいた。おおよそ男性が好きとは思えないセンスの皿だ。由那の目線に気づいて、香田が口を開く。

 「6年前に離婚したんですよ。使っていたもの、わざわざ買い換えるのもどうかなと思いまして」

 根掘り葉掘り聞くのはよくないと思いつつ、由那は事情を聞いてみた。香田は15年ほど前に結婚したが、6年前に妻の不倫が原因で離婚したのだという。子供はもともとおらず、ソファやダブルベッドなど二人で買った家具などを置いたままここを出て行ったらしい。

 誰かのいた痕跡を感じながら一人で暮らすことのさみしさを、香田もまた知っていたのだと由那は分かって下唇を噛んだ。彼女も絵里と共有していたカバンや、彼女のぶんの掛け布団と暮らしている。

 「さみしくないですか」

 考えるより先に、由那の口からその言葉がこぼれていた。香田は言葉の意味を噛み締めるように由那の目をじいっと見てから逸らし、少しだけ笑った。

 「もういい歳ですし、女性と縁遠い生活でもいいかと思ってたんですけどね」

 その言葉のトーンから、香田が昨日の晩を後悔していない、むしろその逆なのだと由那は改めて理解した。でもそれに続く言葉は、彼女の耳ではやや翳りを感じられる。

 「晴島さんは、どうして僕のことをそんなに気にかけてくれるんですか。気にかけて、それで……」
 「……」

 その質問に由那は答えられなかった。

 やっぱり彼女にはわからない。昨夜あれだけのことを言って、家に上がって、一晩を過ごしたけれど、それでも由那には自分のことがよくわからなかった。香田に大切にされているのは嬉しいし、一緒にいたいと思うが、それが自分にとって何であるのか。

 しばしの沈黙のあと、香田が「答えは急いでいませんよ」と言う。慎重に言葉を選んでいたはずの自分が思わず一歩踏み込んでしまった、と彼が後悔しているように見えた。

* * * * *

 予定通り8時半に香田の家を二人で出た。彼は三田線で大手町まで行き乗り換えるのだという。由那は目黒線で大岡山まで出るルートが最短のようだった。

 目黒駅は同じ島式のホームから北へ行く三田線方面と南へ行く目黒線方面に分かれる。そこまで一緒に降りて、香田が会釈し、由那も会釈で返してそれぞれの電車に乗り込んだ。

 九品仏の駅に着いたころ、由那のスマホにメッセージが届く。絵里からだ。

 「昨日、楽しくなかった?」

 由那の心配をしてそんなメッセージを寄越したのだと分かった彼女は、歩きながら絵里に電話をかけることにした。絵里から電話をかけてくることはないが、由那は文章を打っているより話してしまった方が楽だと思っている。

 電話がかかってくると分かっていたのか、絵里は1コールで出てくれた。絵里は有給を取り、今日は亮二と買い物に行く予定なのだという。由那は手短に電話を終わらせることにした。

 「楽しくなかったわけじゃないよ。どちらかというと、絵里が幸せそうでよかったなと思った」
 「私のこと考えてたの?」
 「うん。絵里は心地いい居場所を見つけたんだなってわかった」
 「なにそれ。……まあ、でも、うん。ありがと」

 鎌倉の母親みたいなことを言ってしまっただろうか、と由那は一瞬考えた。そのしばらく後、それでもいいかと思い直しながら。絵里はため息をついて、「でも、そんなこと考えてたなんて」と言う。

 「由那がそんな感じなら、もう家に人を呼ぶのやめようかな」
 「うん、いいよ。今までありがと」

 由那の答えに、「本当に? 本当だよ?」と絵里が念押ししてくる。その上で、「何があったの」と尋ねてきた。やはり双子の妹には話さねばならないだろうと由那は決心する。

 「前に話したおじさんなんだけどさ……」

 昨夜の出来事を伝えると、絵里はたいそう驚いたような声を出した。

 「それ、本当の話!? ちょっと由那の考えてることわかんないかも」

 自分だってわかんないよ、という言葉を由那は飲み込んだ。わかったのは、昨日幸せそうな絵里の姿を見て安心したのと同時に、自分の幸せを絵里と同じ場所で見つけたいわけではないのかもしれない、ということだけだ。

 「まあ、由那が後悔してないならそれでいいけど」

 絵里の言葉に、由那は生返事をした。一瞬沈黙が流れてから、今までの空気を崩すように絵里が「そろそろ切るよ」と言う。

 「まだ化粧してないの。9時半には家を出たくて」
 「そっか。じゃあ、またね」

 電話を切ると、由那もちょうど自宅マンションの前まで到着していた。

* * * * *

 それからも由那のもとには、パーティーの誘いが寄越され続けていた。やれ虎ノ門に来い、赤坂見附に来いというのを、彼女は気乗りせず断る。すると付き合いが悪いという理由で、少しずつ誘いの頻度は減っていっていた。

 かといって由那は香田に連絡をとることもあまりない。あるとすれば、泊まった日に入手したメッセージアプリでの連絡先に気まぐれに写真を送るくらいだ。街なかで見つけたクスッと笑えるようなもの、可愛いと思った置物……急がないと言われた質問への答えとは関係ないものばかり。

 そんな彼を食事に誘おうと思ったのは、大雨の翌日だった。目黒川が一時、氾濫危険水位に達したというニュースを見て気になり、珍しく写真ではないメッセージを送ろうと思いついた。

 香田の住む部屋は地上5階だから、何か不便があったわけではないだろう。それでもスマホの天気アプリで情報を見たとき、彼と顔を見て話したいと思ったのだ。

 メッセージアプリを開いて、由那はふと考え込む。あらためて、なんと送ったらいいのだろう。口実を探して述べるのは、さすがにわざとらしすぎる。悩んだすえに、結局前と同じように「暇な日ありますか」と送った。

 これではまるで自分が彼に対する気持ちの説明を見つけたかのような言い草だが、そうではない。まだ自分の気持ちを語れないうちはメッセージを送るまいと決めていたが、仕方なかった。

 日付が変わろうかという頃になって、香田からの返事があった。

 「仕事が立て込んでいて。来週の金曜なら」

 CMを流すような誰でも知っている大手企業の管理職が暇なはずもないと言われれば、それはその通りだ。彼の安全が分かっている以上、急いで会わなければと不安になる必要もなく、由那はその日を待つことにした。

* * * * *

 約束の金曜日となり、由那は仕事を定時で切り上げて待ち合わせ場所に向かうことにした。日比谷か銀座でと言っていた誘いは、お互いの職場からアクセスしやすい日比谷で実現した。

 予約もせずに、ふらっとミッドタウンの中のオイスターバーに入る。別に彼に対してかしこまる必要も、気取る必要も、焦る必要もないと由那は考えている。香田もそう思っているようだと、今の彼女には不思議と信じられた。

 生牡蠣とエビの盛り合わせとハイボールを頼んで、とりあえず乾杯する。シャブリをボトルで入れましょうか、という香田の提案に、由那は「別にハイボールでも良くないですか」と答えた。厚めのグラスが重なった瞬間に軽く音を立てたが、店が賑わっていたせいかふたりの耳には届かない。

 「お疲れ様でした。忙しかったんですね」
 「今日のプレゼンが終わって、やっと一息つけるかなといったところです。お待たせしてすみません」

 香田の言葉に、由那は「いえいえ」と言いながらハイボールを飲む。それから牡蠣の皿に乗せられたレモンに手を伸ばして、彼女は香田の顔を見た。

 「レモン。かけてもいいですか」
 「もちろん」

 二人とも絞ったレモンの香りを嗅いでから、佐呂間の牡蠣を一口で食べる。まるでずっと昔から同じものを隣で食べてきた人みたいだ、と牡蠣を飲み込みながら由那は思った。

 「……で。心配してたんですよ。この前雨ひどかったから」
 「ああ。ウチは一応ハザードマップでは浸水域の外なんです。だけど、ご心配おかけしました」
 「そっか。よかったです。余計な心配だったかなあ」

 その言葉に、今度は香田が「いえいえ」と返す。牡蠣と一緒に皿に盛られたシュリンプカクテルをソースにつけ、尻尾を残して綺麗に食べながらの返事だった。

 「そんなに心配してくれてたんですか。ありがとうございます」

 ありがとうと言いながらも、こちらを見ずにおしぼりで手を拭く香田に、由那は少しムッと唇をとがらせた。余計な心配だったのかと尋ねたのは自分だが、心配されていたことに対しもっとありがたがってくれても良いのでは、と彼女は思っていた。

 「心配して損したかも。どうして私、香田さんのことそんなに気になるんでしょうか。ずっと考えてたけどやっぱりわかりません」

 由那の言葉を聞いて、香田の手が止まった。指先をぬぐっていたおてふきを弱い力で握り締め、意外そうにこう言う。

 「ずっと考えてくれてたんですか」
 「ええ。答えは急がないと言ってましたけど、でも答えなきゃとは思ってて」
 「そうか……」

 由那の言葉を聞いて、香田は天井を仰ぎ見た。明確な言葉はないが、由那は彼が「あの日いらぬ質問をしてしまった」と思っているのだろうなと考えているだろう、と手に取るようにわかった。

 「すみません。今まで晴島さんに何を言われても、からかっているのだろうと思っていましたが……もしかして先日のは本当に、気の迷いではないのですか」
 「えっ」

 思わず由那は聞き返した。由那の知らない自分自身の気持ちについて、香田には心当たりがありそうだったのだが、そうではないのか。

 「僕に恋してくれているのかなとか、色々考えたのですけど……でもそうやって一人で思い悩む自分も高校生みたいで馬鹿馬鹿しくて。そのあたり、晴島さんはどうなんでしょうか」

 改めて由那は考えた。好みでいえば確かに好みだが、恋がそれだけでいいものなのかイマイチ自信がない。彼と一緒に今いるここはラグジュアリーな隠れ家レストランではないし、飲んでいるのもなんでもないハイボールだ。もっと価値のある男を恋人にしなくていいのか?

 でももしかして自分の隣にいて欲しいと思う人は、この人なのかもしれない。由那はエビを1尾とって、尻尾を勢いよく剥いた。別にそうしなくても食べられるのに、と剥き終えてから気づいたが、気にせず食べる。

 香田との歳の差は親子ほどもあるし、彼は一度結婚に失敗してもいる。しかしそうだとしても、気兼ねなく、多くを語らなくとも心地よい時間が過ごせることが由那には大切に思えた気がした。

 エビを食べる時間ぶん悩ませてもらってから、由那は答えた。

 「そう……なのかも? うーん、たぶんそうです。今やっとわかりました。……っていうか! 香田さんはわかっていて聞いていたのだとばかり」
 「いやいや。僕だってわからなかったんですよ」

 自由が丘のバーで会った時は由那の疲れを見抜いていてくれたし、置いていかれて一人暮らしになった切なさは言葉にせずとも共有できていた。だから由那の気持ちを手に取るようにわかるのだとばかり彼女は思い込んでいた。

 「だったら、由那さん。僕たちお付き合いしましょうか」

 香田が初めて名を呼び、そう言った。まっすぐに見つめられて、由那は伏せた目のまばたきが多くなる。それを見て香田が笑いながらハイボールの最後の一口を飲む。

 「毎回あんなに積極的だったのに、意外な反応だ。やっぱりダメですか?」
 「驚いてるだけです! 香田さん、あんなに消極的だったのに来るときは来るんですから」

 由那が伏せた目線を戻すと、今度こそ香田と目があった。その瞬間に二人とも吹き出し、由那は赤面した顔を隠そうと左手で顔を押さえる。

 「ねえ。前に香田さん、『東京は社交場だ』って言ってたじゃないですか」
 「ええ」
 「私、社交場が好きです。話したことある人も、関わりのない人も、それぞれが自分にあった居場所を探している。パーティは確かに少し疲れることもあるけど……そのなかで私は香田さんを見つけた」

 香田ははっきりと告げてくれたが、自分は婉曲な表現で許してもらおうと彼女は言葉を選んだ。はっきりとした感情は以前由那から誘うときに告げている。そのとき彼女は自分の言葉の意味を確信していなかったけれど、あのとき告げたのだからいいだろうと思っていた。

 由那の答えを聞いて、香田は「そうですね」と言う。上がった頬に押されて持ち上がった彼の目尻のしわばかり見えたのは、香田が由那の目ではなく皿に視線をやっていたからだ。

 気づけば、皿の上の牡蠣はあと2つ、エビは3尾にまでなっていた。焦点を皿に合わせたままの香田が話題を変える。

 「これ食べ終わったら、次どうしますか」
 「また目黒へ行ってもいいですか」

 香田が言った「次」というのが食後の行動ではなく、次に頼むメニューのことだとわかった上で由那が言った。これには香田もさすがに面食らって視線を彼女のほうへ上げる。彼は、まさかそう返されるとは、と言いたげな眉の形をしていた。

 由那の思いがけない反応を香田が許してくれるなら、きっと恋人としてうまくやっていけるだろう。彼女は香田の答えをじっくり待つ。手に持ったメニュー表を開きながら、彼がこう言った。

 「……前に暮らした女性の気配が残っていますが、それでもよければ」

 もちろんです、と彼女が言うのを聞いて、香田はほっとしたように「とりあえず今は食べましょう」とウエイターを呼んだ。彼が追加でビールとアヒージョ、バゲットを頼むのを横目に、由那はのんびりとハイボールを飲んでいた。

(了)


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